第38話 減る人通り
店の忙しさについて表現が変だとご指摘があったので、一部修正をしました。
ご迷惑をかけて申し訳ありません。
鹿兵衛が暴漢に襲われて怪我を負った翌日、力屋古橋は残った人間たちで営業を再開した。
「注文通しまーす! もりそば二人前と花巻が三つ。焼き鳥二人前と甘皮包み一つ」
お梅が台所に入ってきて、元気な声で叫ぶ。
それを聞いて、釜前のお藤はそばを釜に投入し、中台の宏明は蒸籠と丼を台の上に並べる。
そして、宏明は鶏肉とネギを鍋で火にかけて、もう一つの鍋でそば粉クレープを作り始めた。
「――お品の数をいくつか減らしたけど、まだ中台が忙しすぎるな。もっと減らすか」
様子を見ていた松三郎が呟いた。
「明日になれば、お梅ちゃんが脇中として入ってくれそうなので、何とかなるとは思います」
お梅は新人花番に仕事を教えながら働いているので、台所仕事に入る余裕なんてない。
しかし、新人さんはそば屋勤務こそ初めてだが、水茶屋で接客をしていた経験があるということで、すぐに一人立ちしてくれそうである。
「じゃあ、今日一日の辛抱か。今ちょうど暇になったから、オレが焼き鳥を焼く。天狗は菓子だ」
「はい!」
「一昨日までとくらべたら、そばの出方が少ない。何かあったのか?」
松三郎が首をかしげる。
「鉄爺――じゃなくて、葛飾北斎さんの絵の効果が落ち着いてきたのかもしれませんね」
「何を言っているの、二人とも?」
お梅が台所に顔を覗かせて言ってくる。
「昨日、辻斬りがあったばかりなんだよ。明神下の人通りそのものが減っているし、うちの店に来るお客も減っているわけ」
「あー、そりゃそうだよね。言われてみれば当たり前のことだった。お梅ちゃんに言われるまで気付かなかったよ」
「肝が据わった人たちは変わらずに来てくれているから、感謝しないと」
「早いところ犯人が捕まって欲しいなあ」
そうは言うものの、宏明たちにできることは何もない。町奉行の頑張りに期待するしかないのだ。
「客足が辻斬り前くらいに戻るのは、考えものかもしれないね」
お藤が円錐型の振り笊を上下に振りながら言う。
「仕事に入って気付いたけど、この人数だと水汲みに行く暇を誰も持てないよ。宏明さんがうちの店に来る前みたいになっちゃってる。手が空くとしたら、お梅になるんだろうけど、あの子の力じゃねえ。――はい、花巻お待たせ」
そば屋という商売はとにかく水をたくさん使うから、上水井戸まで何度も往復しなければならないのだ。蛇口をひねればすぐに手に入る二十一世紀とは事情が大きく異なる。
鹿兵衛がいた頃なら、宏明が手の空いた時に水汲みへ行けたのだが、中台か釜前に入るとなると簡単には持ち場を離れられない。
営業開始前に汲み置きできれば問題は解決するが、多量の水を置いておくスペースがない。そば洗い用を冷やしておくのがせいぜいなのである。
「水のことが頭から抜け落ちていたな。こりゃあ、もう一人増やさなきゃならねえか」
「父ちゃん、できれば男の人が欲しいよ。男と女とじゃ水汲みの速さが違うから」
「うちみたいに夜遅くまで慌ただしく走り回る店は嫌がられる。江戸っ子で我慢強え奴はそんなに多くないわけだから、あまり期待はするな」
「たしかに、近頃のうちの忙しさを見たら、すぐに辞めちゃうかもしれないねえ」
長女も父親に同意した。
「取りあえず、やれることを一つずつ片付けていくべえ。しばらくは仕込みと仕入れの量も見直さなきゃならねえな。ほれ、焼き鳥ができあがったぞ」
松三郎が、焼き鳥を皿に盛り付け始めた。
結局の所、明神下近辺の人通りはずっと少ないままで、夜になるとほとんど誰もいなくなってしまった。
当然ながら、それに連動して力屋古橋の売り上げは激減した。暇になったおかげで松三郎の腕の痛みが出ることもなく、水汲みをする時間も確保はできたが、どちらも売り上げが落ちたことの副産物だから喜ぶべきではない。
先行きに不安を抱えたまま、営業再開の初日は終わったのであった。




