第3話 江戸のそば屋②
店の入り口から小さい女の子が入ってきた。
「今さっきバカ旦那とすれ違ったんだけど、まさかうちに来ていたの? 塩をまいておこうよ」
「――お梅、帰ってきた早々になんてことを言うんだい!」
悪態をついた女の子に、お藤が強い口調で注意をした。
「バカをバカと言って何が悪いの?」
女の子も負けじと反論する。
「……お藤さんの妹さんだよね?」
宏明がおずおずと質問をした。
女の子の顔立ちがお藤そっくりなのだ。背丈が同じくらいなら一卵性双生児だろうと思えるくらいに似通っている。今度こそ血の繋がりがあるはずだ。
「そうだよ。わたしの三つ下の妹。お梅、あいさつくらいしなさいな」
「あれ、お客さん? ――って、ひょっとして新しい職人さんが来てくれたの?」
ようやくお梅が宏明に気付いたようだ。上がりかまちに手をついて、身を乗り出す。若旦那を罵っていた時のしかめっ面から、客に向ける営業スマイル、宏明が着ている半纏を見た瞬間のびっくり顔、そして職人と判断した歓喜の顔。お梅の表情が次々に変わっていく。
「そうじゃなくて、この人は池に落ちて……」
いきさつを姉が説明する。
「なあんだ。そういうことだったんだ。店の半纏を着ているからてっきり新しい人かと思っちゃった」
お梅が露骨に肩を落とした。
「いつになったら、新しい職人が来てくれるんだろ……」
「もうすぐ店を開けるんだから、ブツブツ言っていないでさっさと支度をしなさいな」
「どうせまともにそばを出せないじゃない。本当に猫の手でも借りなきゃ話にならないよ。シロにそばの茹で方を仕込もうか?」
姉妹が口論を始める。
話題の白猫様は、我関せずとばかりに床几の上でお昼寝を継続中だ。
「あのー、人が足りていないんだったら、俺を雇ってくれないかな?」
宏明が自分の顔を指さして提案した。そば屋で働くなら、持っている知識が多少は役に立つだろう。あてもなく江戸の町で職を探すよりも良いかもしれない。
あと、お世話になった恩を少し返したいという気持ちもある。人手が足りずに困っている様子であるし。
「俺って、ちょうど無職なんだよね。そちらさえ良ければお願いします」
「宏明さん、うちなんかで働きたいのかい?」
「曲がりなりにもそば屋の倅だし、猫の手よりはマシだと思うよ」
これを聞いて、お梅が顔を輝かせた。
「本当に? 犬も歩けば棒に当たるって言うけど、お姉ちゃんが歩いたらそば屋の息子さんに当たったんだね!」
「不思議な縁ってのがあるもんだね」
お藤も目を丸くしている。
「お兄ちゃんってどのくらい仕事できるの? 板前は?」
勢いよくお梅が質問をする。板前というのはそば屋の職制で、そばを打つ職人を指す。
「そば打ちはできないよ。――さっき、大失敗したばかりだし」
後半は誰にも聞こえないような小声でつぶやく。
「じゃあ、釜前に立てる?」
「江戸ではガスじゃなくて薪でそばを茹でるんだよね? 釜下を見ることすらできないと思うよ。そば洗いくらいならなんとかできるかもね」
釜前は、その名の通り釜の前でそばを茹でたり洗ったりする職制のことである。釜下というのは、釜の火加減のことだ。
「がす? どこの出なのか知らないけど、変わったものを燃やすんだね」
お梅が首をかしげた。
「お兄ちゃんの家が江戸じゃないってことは、黒くて短いそば屋さんか。でも、江戸で通用する技とかあるよね。きっと」
「うちは白くて長いそばを売っているよ」
「田舎で? どうやって?」
不審そうな目をお梅が向ける。
(しまった。うっかりしていた)
現代と江戸時代のそば粉事情が違うことを失念していた。
白く長いそばを作るのには、きちんとそばの殻を取る除くことが必要だ。その脱穀技術は江戸近郊が他の地方の追随を許さないくらいに秀でている。よって、その脱穀された実が手に入る江戸では白く長いそばが盛んになり、それ以外の地域では黒く短いそばが作られているのである。
「抜き屋さんが丸抜きを八王子まで持ってきてくれるんだよ。そんなわけで、うちでも江戸みたいなそばを売れるわけで……」
しどろもどろになりつつ、宏明が言い訳をする。
抜き屋というのはそばの実を脱穀する商人のこと。丸抜きは脱穀後のそばの実である。
「ふーん、抜き屋ってずいぶんと手広く商売をしているんだね。八王子くらいまでなら頑張って運べるのかな?」
なんとかお梅に納得してもらえたみたいだ。
「ともあれ、お兄ちゃんがそば屋の子ってのは嘘じゃなさそうだね。重畳、重畳。ぜひともうちで働いてね」
「……お梅ちゃん、俺のことを疑っていたの?」
「うん、都合の良い話がそうそう転がっているわけじゃないしね」
無邪気な笑顔であっさり認める。
「あのー、今の話でどうして宏明さんがそば屋の息子って分かったんだい?」
お藤が申し訳なさそうに口を挟んだ。
「……お姉ちゃん、たまには頭を使おうよ。板前だの釜前だので話が通じる人が、そば屋じゃなかったら何者なの?」
「ああ、なるほど」
ポンと手を合わせて納得をする。
どうやら、ここの姉妹は妹の方がしっかり者のようである。
「お兄ちゃんを雇うのは決まり。取りあえず、住んでいるところを教えてよ」
「す、住んでいるところ? 俺はさっき八王子から来たばかりで……」
「そうなんだ。じゃあ、往来手形か道中手形を見せて」
「手形って関所を通る時に必要なやつ?」
「関所だけってわけじゃないけどね」
「持ってないよ」
「――ひょっとして無宿人?」
「無宿人って何?」
「……ねえ、ふざけている場合じゃないよ。石川島(東京都中央区)の人足寄場に送られたいの?」
「ふざけていないんだけどなあ。どういうことなのか俺に教えてよ」
「物を知らないにもほどがあるでしょ……」
ため息をついてから、お梅が説明を始めた。
どうやら、往来手形と道中手形は二十一世紀でのパスポートに該当するらしい。無宿人というのは戸籍に記載されていない人間で、人足寄場は無宿人を収容する施設とのことだ。
要するに、時間旅行者である宏明は、江戸の町では不法滞在者という扱いになる。
「マジかよ……。ハハハ……」
あまりにも理不尽な境遇に、乾いた笑いが出てきた。
「宏明さん、八王子に帰った方が良いんじゃない? 江戸で無宿人を雇う店はないよ。もちろんうちの店も」
お藤が心配そうに声をかけてくれる。
「帰るといっても、俺は無一文なんだよね」
仮にお金があったとしても、八王子へ行ってもどうしようもない。今の時代では知り合いなど一人たりともいないのだから。
「どうしてそんな有様になるんだい? 胡麻の蝿にでもやられたの?」
「胡麻の蝿って?」
「旅人の振りをした盗人のことだよ」
「盗まれたってわけじゃないんだよね。実は……」
宏明は己の身に起きた不思議な出来事を話した。そば打ちの練習をしていたら不思議な声が聞こえたこと。続いて、八王子から江戸に一瞬で移動して不忍池に落ちたこと。
一応、タイムスリップのことだけは黙っておくことにした。時間移動の話をしたらややこしくなりそうだからだ。
「……天狗様にさらわれたのかねえ。なんてむごい話なんだろう」
お藤が目元を拭いながら同情してくれる。
「……嘘ならもう少しありそうな話を作ろうよ」
一方、お梅の方は疑わしそうな目で宏明を見ている。
この姉妹、顔は似ているが性格は全く似ていないようだ。
「まあ、嘘でも構わないか。うちの店がお兄ちゃんを使いたいってのは変わらないし」
「俺のことを買ってくれてありがとう。と言わせてもらうよ」
「そば屋の倅じゃなかったら、叩き出しているけどね」
「やたらと発言が黒いな、このロリっ子は!」
「お上に気取られないように無宿者を雇う手立てを考えないとね。ほらお姉ちゃん、泣いていないで一緒に考えてよ」
妹が姉をつつく。
「え、わたしも考えるの?」
「お姉ちゃんも店を潰したくないでしょ? ほら、知恵を出そうよ。お父ちゃんが帰ってくる前に話をまとめて――。遅かったみたいだね」