第37話 いつものように
「面目ないわ……」
鹿兵衛がガックリとうなだれた。
幸いなことに、彼の命に別状はなかった。襲撃を受けたが、運良く着物が刃から体を守ってくれたのだ。冬場ということで、厚手の綿が入っているものを着込んでいたのが彼の命を救った。ただし、刀傷は受けなかったが、その時に転倒して右腕の骨が折れてしまっている。
怪我の手当てと、自身番からの事情聴取を終えて、力屋古橋にたった今戻ってきたところだ。
店では、従業員全員が心配そうに彼を中へ迎え入れた。奥で休んでいたお藤も店に戻ってきている。
「辻斬りに襲われて命が助かっただけでも目っけもんだ。よくぞ無事に帰ってきてくれた」
松三郎がねぎらう。
「腕が折れたもんで、無事ってわけじゃないじゃんねえ。タバコの後に裏の厠へ向かっただけなのに、とんだ災難だけぇ」
「おめえ、誰かから恨まれるあてでもあるのか?」
「さっき自身番にも同じことを聞かれたけど、そんなもの全くないわ」
「本当か? また変な女に手を出したんじゃねえか?」
「いやいや、若い頃ならいざ知らず、嫁をもらってから一切そんなことはやってないけえ」
「じゃあ、本当に当てずっぽうで狙われたわけか。どこの武士だか知らねえが、迷惑極まりねえ」
「これも自身番に言ったけど、今日の辻斬りは侍じゃなくて町人だわ。長物(刀)じゃなくて匕首を振り回していたで。侍の辻斬りだったら、ワシは今頃お陀仏だったけえ。匕首だから斬りつけられても着物で止まってくれたけど、長物だったらきっと真っ二つになっていたと思うわ」
「匕首でも危なっかしいのは変わらねえ。顔は見てねえんだよな?」
「辻斬りは頬被りしていたもんで全く分からんかったわ」
「仕方ねえ。八丁堀の旦那が埒を明けてくれるまで、しばらくは気をつけなきゃならねえな」
八丁堀の旦那というのは、町奉行の与力・同心のことである。
辻斬りの犯人は未だに捕まっていない。走り去る大男の姿が目撃されたものの、その行方が分かっていないのだ。
「ともかくだ、鹿兵衛は腕が治るまで休め。たしか、おめえの女房の親父さんが体の具合を悪くしているんだよな? せっかくだから、夫婦で顔を出してやれ。痛む腕で常州(茨城県)まで行くのは大変だろうが、これも孝行だ」
「忙しい時期だってのに申し訳ないけぇ……。一つだけお願いがあるもんで、聞いて欲しいわ」
「言ってみろ」
「ワシがいない間、暗い気持ちにならないで、いつものように賑やかな店であって欲しいけえ」
「――笑う門には福来たるってやつだな。おめえの考えは受け取った。しみったれたことを抜かす奴がいたら、オレが怒鳴りつける。だから安心して休め」
「旦那、感謝するわ。みんなで乗り切ってもらうのがワシのただ一つの望みだけえ……」
鹿兵衛が頭を下げながらトボトボと店から出て行った。
「お父ちゃん、シカお兄ちゃん抜きで、店はどうするの? そばを打てる人がいなくなっちゃったよ」
「オレが板前に立つしかねえだろう」
そう言う松三郎に、お藤が目を丸くする。
「そばを打てるの、父ちゃん? 手を痛めているってのに」
この彼女の言葉に、宏明も驚く。
そば打ちというのは力が要る仕事で、体を痛めやすい。松三郎が、店では鹿兵衛に板前を任せきりにしていたのはこういう事情があったのだ。
「打てる限りやってみるさ。手に力が入らなくなったら店じまいだ」
吉原出張の時、松三郎は難なくそばを打っていた。少ない数ならこなせるのだろう。
「無理はしないようにね、父ちゃん」
「ここは無理をするところだ。弱音を吐いたら、鹿兵衛の思いを台無しにしちまうぜ。さて、今日は店を開けられねえ。人が足りなすぎる。明日からは新しい花番が入ってくるから、なんとかなるだろう」
「父ちゃんが板前に入っちゃったら、誰が釜前に立つんだい?」
「お藤、おめえが入れ」
「わたし?」
お藤が己の顔を指さして、首をかしげた。
「中台は天狗だ」
「はい!」
宏明が大きく返事をする。全員が与えられた役目をやりこなさないと店を開けないのだ。
「女の身でずっと火の前に立っているのは辛えだろうから、お藤と天狗とは交代交代で釜前に立て」
「は、はい!」
大役が次々に舞い込んできて、一瞬言いよどんでしまったが、宏明は気力を振り絞って返事をした。
江戸時代から明治時代までの間、そば屋の職制で一番地位が高いのは板前。その次が釜前で、三番目が中台なのだ。大正以降は道具の変化に伴い順番が入れ替わるが、現時点での重い役割を与えられてしまった。
「既に打っちまったそばがある。お藤と天狗は習練ということで茹でてみろ」
店主の指示に従い、まずお藤が釜の前に立った。そばを茹で始めるより先に、かがみ込んで竈に薪をくべていく。
釜前の仕事は、適切な火加減を調節することが非常に重要だ。これによってそばの出来が大きく左右される。江戸時代では、これを薪で行わないとならないので、ガス燃料を使う二十一世紀と比較すると難易度が高い。
しかし、薪にも良い面がある。適切な火力を作り出せれば、そばを茹でるのに最適な火加減となるのだ。
明治・大正・昭和と、燃料の変遷を経験してきたそば屋の旦那たちは、「薪を使って火を起こしていた頃の方が、ガスを使う今よりもそばが美味かった」と異口同音に述べている。
江戸時代にタイムスリップした宏明は、先人たちの言葉が正しかったと理解できていた。ガスは扱いやすい反面、火力が強く鋭すぎるのだ。相当に気をつけて火力調整しないと、そばの角が煮崩れてしまう。そして、煮崩れしたということで急いで釜からあげると、芯まで火が通っていない生煮えのそばとなる。
そばという食べ物は、薪で火を起こしていた時代で生まれたわけだから、薪の火が最適になるのは自然な話だ。ただし、火力が強すぎるというのは薪でも起こる話ではあるが。
ガスの火がそばに向いていないとはいえ、現代人だって諦めているわけではない。最適な火を作り出そうと職人は日々努力をしているし、そば釜も進化を続けている。遠くない将来、薪で茹でたものと変わらないそばを作ることが可能になるだろう。
竈の下を覗いていたお藤が立ち上がった。釜の蓋を取って湯を覗き込む。
「――よし」
そう言って、彼女がそばを釜にそっと入れた。
そこからの彼女の動きは正確だった。茹であがったそばを素早く笊ですくい上げ、ていねいにそばを洗い、そして水を切りながら溜め笊の上に乗せていく。
(お藤さんって、俺と同い年だよな?)
宏明が口をぽかんと開けて彼女の一連の動きを眺める。熟練の職人と比較しても遜色ない動作だったのだ。彼女は手習いを卒業して以来、毎日のように台所で働いているということで、宏明よりも多くの経験を積んでいるのは間違いない。それを差っ引いても、年齢にそぐわない腕前である。
「よし、久々のわりに上手くできたな、お藤」
完成したそばを一本すすりながら、松三郎が娘を褒めた。
「次、天狗やってみろ」
「はい!」
お藤と入れ替わりで、宏明は釜の前に立った。彼女が完璧にやってのけた直後なので、ものすごいプレッシャーがのしかかってくる。
(落ち着け。実家で茹でる作業を教わっているし、この店に来てからは名人の作業を目にしているんだから)
まずは竈の下を覗く。お藤が調節してくれたばかりなので、火の強さは問題ないはずだが、念のためである。
(奥の方で火が適度な大きさで燃えている。俺が手を出す必要ないな)
確認を終えたので、彼は立ち上がって釜の蓋を開けた。
「始めます」
宣言して、そばを静かに湯の中へ落とす。
そして箸を使って、そば同士がくっつかないようにほぐしてあげる。
そばがバラバラに離れたのを確認してから、素早く蓋をする。そばが入ったことで湯温が下がったので、再沸騰を促すためだ。
少し待つと蒸気で蓋がカタカタと動き始めたので、宏明は蓋を外して釜の中を見た。
湯の中では、そばがゆっくりと泳いでいる。完璧な火加減を作ってくれたお藤に心の中で感謝をしながら、そばを注視する。
ここから先の作業で重要になるのは、そばを鍋から引き上げるタイミングである。
上げるのが早すぎると、そばが生煮えとなり固さが残ってしまう。江戸そばでは、パスタみたいなアルデンテは求められていない。
逆に遅いと、そばが柔らかくなりすぎてしまい、そして旨みが湯の中に流れ出てしまう。
引き上げるのに適切なタイミングは「そばの色が変わる瞬間」だと宏明は父親から教わっている。
(今だ!)
そばの色が少し透き通ったように見えたので、宏明は笊で一気にすくい上げた。
ここからはそば洗いとなる。
家でやる場合も、店でやる場合も方法は全く一緒だ。きれいな水をかけて、水が入った桶の中で洗って、もう一回きれいな水をかけて、きれいな水にひたす、の四工程である。
(冷てえ!)
急速冷却のために、冷たい水が用意されているのだ。二十一世紀なら冷水器や氷水を使う。冷水器など存在せず、氷を手軽に使えない江戸時代では、冬の寒空の下にしばらく置いて冷やした水を使用する。宏明が聞いた話では、夏場は井戸から汲んだばかりの冷水を使うらしい。
そばが生温かいままだと、すぐにふやけてしまうので、そば屋は徹底的に冷たい水にこだわっているのだ。
あと、冷水で締めることにより、きちんと煮えたそばの表面に固さが出る。これを「腰が立った」麺と呼ぶ。歯で噛みしめる「腰がある」麺ではない。歯と唇で軽く挟むだけでふっつりと切れるのが、お江戸のそばだ。
宏明は洗い終わったそばを指の先でちょっとつまみ上げた。そして、上下に振って水気を飛ばし、溜め笊の上に置く。それを繰り返して、全てのそばを溜め笊に並べ終えた。
「終わりました!」
「よし」
松三郎が宏明の茹でたそばを口に運んだ。
「上出来だ。もうひと息かふた息早く釜から引きあげても構わねえんだが、これなら胸を張って客に出せる出来映えだ。早過ぎは決して許されねえけど、遅過ぎは少しくらいなら許されるわけだしな」
店主に褒められて、宏明はホッと息を吐いた。どうにか合格点をもらえたようだ。
「ところで少し気になったんだが、おめえの手の動きはうちの店のとはちょっと違うよな?」
「実家で習った動きが出ちゃっているかもしれません。直した方がいいですか?」
「別に直さなくても構わねえ。しかし、妙に江戸流っぽい動きをしているのが不思議だ」
「俺のジイちゃんが京橋(東京都中央区)の店で修行していたから、子や孫にその技が伝わっているのかもしれませんね」
「――は?」
松三郎が豆鉄砲を食った鳩みたいな顔になった。
「おめえの実家って江戸流のそば屋なのか?」
「あれ? 話していませんでしたっけ? ――そういえば話した記憶ないかも」
「初耳だ。おめえ、江戸にいるんなら、京橋の店へあいさつしに行ったんだよな?」
「行っても、そのお店はないと思います」
祖父が修行した店は明治時代初期に開業したと聞いている。まだ存在していないはずだ。
「もう店を畳んじまっているのか。せっかくだから、味を知っておきたかったぜ」
松三郎が時系列を勘違いしているが、店がないということは正しいので、宏明は特に訂正したりはしない。
「――ねえ、ヒロお兄ちゃん。実家が江戸そばを扱っているのを隠し続けるって、ちょっと人が悪いと思うよ?」
お梅が宏明の背中を突きながら苦情を申し立ててくる。
「江戸そば云々は言わなかったかもしれないけど、細くて長いそばを売っているって前に言ったよね?」
「細長いだけじゃ、江戸そばって言えないでしょ?」
「うっ……。確かに、江戸のそばには独特の特徴が他にもあるか。特に汁」
「ともあれ、ヒロお兄ちゃんの実家はうちの店よりも古い江戸そばを受け継いでいる由緒正しいお店なんだね」
「そんなに大層な店じゃないんだけどね。さっき話した通り、小さい店だし」
「謙遜は無用だよ。ますますヒロお兄ちゃんを逃がすわけにはいかなくなったね」
「猫じゃあるまいし、俺は脱走する気なんてないよ?」
「猫だったら家に閉じ込めれば済むけど、人はそうもいかないから厄介なんだよね。――お姉ちゃん!」
お梅が勢いよく姉の方に首を向けた。
「今すぐ明神様にお礼参りしに行こ。ヒロお兄ちゃんのこと、感謝の言葉をお伝えしないと」
「これまで何度もお参りしたでしょ。今さらどうして?」
「改めてお礼をしないといけないってば。江戸のそばの技を知る人を連れてきてくださったんだから」
「確かに、江戸のそばに詳しい人だったけど……」
「あと、ついでに願掛けしておこうよ。お姉ちゃんたちのことを」
「な、な、何を願掛けするっていうんだい!」
「分かっているくせに。お姉ちゃん任せだと、どうにもなりそうにないから、明神様に頼もうよ」
「ば、バカ言うんじゃないよ!」
姉妹が甲高い声で言い合いを始めた。
「うるせえ! うるせえ! おちゃっぴいども黙りやがれ! 鹿兵衛はいつも通りにしろって言い残したが、ご近所様に迷惑かけろとは言ってねえぞ!」
指で両耳をふさぎながら松三郎が娘たちを叱りつける。
(家族仲が良いってことかな?)
蚊帳の外状態になった宏明は、こう判断をくだした。
(ん?)
ふと、台所の隅で横たわるシロと目が合った。
「シロ、俺が茹でたそばを食べてみないか?」
溜め笊からそばを一本つまんで、白猫の前にぶらさげた。
対するシロは、少し匂いを嗅いで、すぐに顔をそっぽ向けてしまった。
「――じゃあ、お藤さんのはどうだ?」
お藤が茹でたそばをシロの口元に近づける。
すると、今度は美味しそうに食べ始めた。
「どういうことだよ? 一応、旦那から合格点はもらえたんだぞ?」
彼が文句を言っていると、ミケとトラが近づいてくる。
「お前たちのジャッジも欲しい。俺の茹でたそばはどうよ?」
二匹の猫は、宏明のそばを食べてくれた。
「なんかちょっと感激ちゃったぞ。うんと可愛がってやる」
宏明はミケとトラを全力で撫で回す。
そんな彼を、シロは青い瞳でジッと見つめている。
「いつかシロにも俺が茹でたそばを食べさせてやるからな。待ってやがれ」
白猫に話しかけるそんな彼の背中に、松三郎が呆れたような声で言う。
「何を猫たちと話してやがるんでい? おめえ、時折賢くなるけど、忘れた頃にバカになるんだな。本当に分からねえ奴だぜ」
主人公の実家のそばは、砂場系に近い味をイメージしています。




