第36話 上の空
(明らかにおかしい)
宏明が訝しんだ。
何がおかしいかというと、お藤がである。
考え事でもしているのか、今日の彼女は仕事に全然集中できていない。箒を持てば同じ所をずっと掃き続けるし、包丁を持てば食材を必要以上に切り刻んでしまうしで酷い有様だ。
現に今も――。
「お藤さん、鍋を温めすぎだよ。あと、炭が多すぎ。すごい勢いで煙が出ている」
「え? ええっ? 本当だ!」
彼女が慌てて鍋を七輪から外したが、手を滑らしたのか床に落としてしまった。ガチャンと金属音が台所に響く。
「ひょっとして、体の具合が悪い? だったら休んだ方が」
「へ、平気だよ! さっき長湯して疲れちゃっただけだから」
早口でこう返してくるが、彼女の顔は宏明と話しているうちにどんどん紅潮していく。どう見ても平気ではなさそうだ。
「おい、お藤。店を開けるまでまだ間がある。天狗が言うように奥で休んでおけ」
「だけど……。うん、看板を出すまで横になっておくよ」
父親にも言われてしまい、お藤は肩を落として台所から出て行った。
その背中を眺めながら、お梅が大きな嘆息をする。
「お姉ちゃんに任せっきりなのはダメみたいだなあ……」
「ん? お梅ちゃん、どういうこと?」
宏明の疑問にお梅は答えず、逆に質問をしてくる。
「ヒロお兄ちゃん、今のお姉ちゃんの様子を見てどう思う?」
「そりゃ、お藤さんの体調が心配だよ」
「それだけ?」
「うん」
「――ヒロお兄ちゃんもダメだね」
「どうして俺にダメ出しが来るのよ!」
「どうしようもないくらいにダメ。おかげで色々と考え直しに迫られるよ」
お梅がこめかみを揉みほぐす。そして、真剣な瞳で宏明を見上げた。
「ヒロお兄ちゃんってお見合いするんだよね。日取りとか決まっているの?」
「知っていたんだ。耳が早いね」
「近所の噂話って広がるのが早いよ」
「そんなものなのか。で、お見合いの話だけど、断ったよ」
「本当に?」
「うん、まだ結婚するつもりなんてないし」
江戸時代に骨を埋める覚悟をまだ持っていないのだ。そんな大事を抱え込むわけにはいかない。
お梅の方は何やら複雑な表情になっている。
「うーん、半分は良しってことかな」
「半分ってどういうこと?」
「こっちの話。ところで、ヒロお兄ちゃんって本当にそば屋の子なの?」
「正真正銘そば屋の倅だよ。久々に疑われる理由あったっけ?」
「やどやのお菊さんが言っていたんだけど、ヒロお兄ちゃんってそば職人っぽくないんだよね。あたしも同感」
「そば職人っぽい人ってどういう人?」
「そりゃあ、気に食わないことがあったらすぐに怒鳴りつけたり、殴りかかったりする人だよ」
「江戸の職人連中どれだけ短気なんだよ――」
この時代に来てから一回揉めごとを起こしているので、宏明もあまり威張れたものではない。
「やどやの親分はそんな職人たちをまとめないといけないんだから、大変な仕事なんだろうね」
「俺はまだ親分さんに迷惑はかけていないから、マシな部類なのか」
揉めごとを起こした際、親分まで話が行かなかっただけではあるが。
「ここまでの何ヶ月かで、一度も親分の世話になっていない職人は、ヒロお兄ちゃんだけかもしれないね」
「江戸っ子ども、少しはおとなしくしてあげろよ……」
世代が下になるたびに日本人はどんどんおとなしくなっている。宏明は祖父のそんな言葉を思い出していた。
昭和時代と令和時代でも道徳観念や社会通念が大きく異なっているらしい。現代の数十年間でも違いがあるのなら、江戸時代と令和時代の二百年間ではさらに大きな差があるのかもしれない。
「お菊さんが言うには、ヒロお兄ちゃんってお屋敷の若様に似ているらしいよ。見た目じゃなくて、物腰とか気性とかの話ね」
「俺はそんなに立派な生まれじゃないんだけどなぁ……」
「ヒロお兄ちゃんはそばに関して色々と詳しいし、仕事も手慣れているから、そば屋の子ってのは間違いないとあたしは思っているよ。お菊さんの話と合わせて、ヒロお兄ちゃんは八王子の大店の生まれと見た。どう、合っている?」
「大きな店じゃないんだよなあ。うちの実家って、力屋古橋よりも小さいし」
「うちの店より狭いって、それで成り立つの? 江戸でうちより小さいそば屋なんか、きっと屋台くらいだよ?」
「そのあたりは機械化やら何やらによる、省人化と省スペース化のおかげなんじゃないかなと」
「相変わらず八王子の言葉は難しいよぉ。――ところで、ヒロお兄ちゃんは実家を継がないんだよね?」
「……ほぼ間違いなく兄貴が継ぐ。兄貴の方が圧倒的にそば作りが上手いし。俺は実家からのれん分けしてもらえるよう腕を磨かないといけないね」
「ということは、ヒロお兄ちゃんは江戸に残っても別に構わないわけなんだ?」
「江戸で暮らしていくことも考えてはいるけど、せめて家族に別れのあいさつくらいはしたいなあ……」
そんなことを話していると、にわかに店の外が騒がしくなってきた。
「どうしたんだろ? また喧嘩かな? うちの店の前だったら、ヒロお兄ちゃんよろしくね」
「息を吐くように喧嘩する江戸っ子いい加減にしやがれ。俺はもう仲裁なんかしたくないぞ」
外で起こっている事態は喧嘩ではなかった。もっと大きな事件であったのだ。
「辻斬りだあ! こんな朝っぱらから刃傷沙汰を起こすなんて太え野郎だ! 必ず捕まえてお奉行に突き出せ!」
「――嘘でしょ? まだこんなに明るいのに辻斬り?」
いつもは気が強いお梅も、さすがに外から聞こえてきた声に怯えたような顔になった。
「店の中にいれば大丈夫だと思うよ」
宏明が彼女の不安を取り除こうとした時だ。中年男性が店に駆け込んできた。
「大変だ、古橋さん! ここの鹿兵衛さんが辻斬りにやられちまった!」




