第35話 女湯にて その2
「ふう、良いお湯――」
湯船につかりながら、お藤が大きく息を吐いて、腕をもみほぐす。
江戸の湯屋は湯温が高いことで有名だが、それは男湯の話であって、女湯の方はゆっくりとつかることができる程度になっている。
葛飾北斎の絵が売り出されてから四日経った。北斎の影響は絶大で、力屋古橋は営業時間内のほとんどで行列ができるようになっている。
従業員はほぼ全速力で働き続けることになっていて、お藤にもさすがに疲れがたまってきている。近頃は長くお湯につかって寛ぐのが、一番の楽しみになっていた。
「お姉ちゃん」
お藤の隣に座ってきたお梅が声をかける。
「新しい人が店に来るのって今日からだっけ?」
「明日だよ。今日いっぱいは五人で店を回さないとね」
「うへえ。一日勘違いしていたよ」
お梅が天井を見上げた。
ようやく新しい従業員が見つかったのだ。結局、そばを打てる職人は確保できず、そば店勤務の経験がない人に決まった。この際贅沢は言えない。人手が増えることを喜ぶべきである。
ちなみに、三十代後半の女性とのことだ。姉妹からすると、母親くらいの年齢の人になる。
「年が明けたら新しい職人さんを呼べるだろうから、もう少しの間だけ耐えようね、お姉ちゃん」
「煤払いと大晦日が峠だね。何とか乗り切らないと」
十二月十三日は煤払い、つまり大掃除の日である。武家・寺社・町人といった江戸中の人々が身分に関係なく一斉に建物の掃除に勤しむ。大掃除が終わったらそばを食べる習わしがあるので、そば屋が忙しい日でもある。出前をしていない力屋古橋はそこまで忙しくならないが、普段以上に客が来るのが例年のことだ。
大晦日もそばが売れる日だ。元々、毎月の晦日にそばを食べる風習が江戸にある。その中でも大晦日はさらに売り上げが伸びるのだ。
例年の力屋古橋だと、晦日で普段の三倍の売り上げがあって、大晦日はさらにその三倍となる。一年で最も客が入る日だ。
「そうそう。大晦日と言えば、借金を返す目処が立ったよ。お姉ちゃんも安心して」
「良かった。返しきれるだけの銭が貯まったんだね」
「残念ながら、そこまでは貯まっていないよ。けど、今の調子で稼げば、大晦日の前までに間違いなく貯まる。ヒロお兄ちゃんのおかげだね」
彼が来てから、力屋古橋の客数はどんどん増え続けている。宏明発案のお品が当たっているのもあるし、偶然とはいえ葛飾北斎を店に連れてきたのも彼だ。
「そのヒロお兄ちゃんなんだけど、近々お見合いをするらしいよ」
お梅が意外なことを口にした。
「おや、初耳だね」
「大家さんがヒロお兄ちゃんのことを気に入っているらしくてね。さっさと結婚させちゃおうって腹みたい。まだ、相手を探しているところらしいけど」
「働き者だからねえ。酒も変な遊びもやらないし、そりゃ大家さんは気に入るよね。八王子へ帰させずに、江戸に残したいんだろうねえ」
長屋の住民構成を考えるのも大家の役割の一つだ。見込みがある若者には早く所帯を持たせて、腰を落ち着けてもらいたいのである。
「変な遊びというか、全く遊んでいないらしいね。ヒロお兄ちゃんって、家にいる時、どこにも遊びに行かず、ずっとそばを打っているらしいから。とことん仕事好きなんだろうね。芝居小屋や高座を『渋い趣味だから分からない』って言うのはどうかと思うけど」
「『渋い』っていうのが分からないねえ。田舎から出てきた人も芝居小屋を好きになることは多いのに」
「大家さんが一番感心しているのは、毎月きちんと家賃を払っていることらしいよ」
「――家賃を払って褒められるとか、裏店の他の面々はどうなっているんだい。月に銀五匁(およそ九千円)くらいでしょ」
「うちの店も支払いが滞りがちだから、他所様のこと言えないけどね」
「そういえばそうだったっけ……」
「で、お姉ちゃん――」
お梅が姉の目を覗き込みながら、少し顔を近づける。
「今の話を聞いて、何か思うところはないかな?」
「そうだねえ、宏明さんは借金を抱えているから、嫁の来手を探すのを大家さんは苦労しちゃうかもね」
「そうじゃなくて、心が騒ぐとか、胸が苦しくなるとか、そういうのはない?」
「別にないけど?」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
お梅がガッカリした表情になって、湯の中に顔を沈めていった。
「どうしたんだい、お梅?」
「あのね、お姉ちゃん」
湯から顔を出した妹が、少し語気を強くした。
「あたしとお姉ちゃんは二人だけの姉妹なわけなんだよ」
「今さら何を言っているんだい」
「うちの店を続けていくるとなると、お婿さんをもらわないといけないわけ」
「そうだね。いつかはそういう話になると思うよ」
「――まだ分かっていないんだ、この長女」
「何を?」
「うちの店の跡継ぎにヒロお兄ちゃんをどうかって話。幸いなことに次男坊ということで、八王子の家を継がなくても構わないみたいだし」
「……宏明さんを?」
やっと、お藤にも話が見えてきた。
「真面目な働き者で、そばのことに詳しくて、甘いお菓子をたくさん知っている人なんだよ。ヒロお兄ちゃんが継いでくれたら、店は安泰だって」
「お菓子は違うんじゃ……。確かに売れているけど」
「そんなヒロお兄ちゃんをどこの者か分からない女に奪われたらもったいないでしょ。だから、お姉ちゃん頑張ってみてよ」
「え? わたしが?」
「あたしは『ろり』だからねえ。たぶん、ヒロお兄ちゃんの眼中に入っていない」
「ろり?」
「八王子の言葉で、年端のいかない小娘のことだと思う」
「そういえば、お梅のことをそう呼んでいたっけ。八王子の言葉は本当に難しいねえ――」
「というわけで、お姉ちゃんお願い。あたしよりは見込みあるでしょ」
「あるかな……?」
「もっと自信を持ってよ。お姉ちゃんはお嫁さんになるのに、ギリギリなんとか許されるくらいには届いているから」
「ギリギリってどういう言い方だい!」
「実際にそうだしね」
お梅が指を一本ずつ折りながら数えていく。
「掃除はできる。洗濯もできる。針仕事は、仕立ては無理だけど、縫い合わせくらいならまあなんとかできる。炊事は米を炊いて汁物を作るくらいはできる。そばに関わるものだけは得意。ほら、やっぱりギリギリでしょ? 特に料理」
「いやいや、ご飯と汁物が作れるなら十分でしょ」
お藤が言うように、江戸の下町の女性は基本的にそれくらいしか料理を作らない。おかずは買って済ませることが多いのだ。
裕福な家の女性の場合は人を雇うからそもそも台所なんかに立たない。
「ヒロお兄ちゃんが色々と料理を作れるからね。特に甘いもの。甘皮包みもすごかったけど、この間の『甘煮ミカン』もとんでもなく美味しかったでしょ」
甘煮ミカンとは、要するにジャムのことである。店ではこの名で呼ぶことに決まった。
「あれは本当にすごかった。信じられないくらいの甘さだったね。水菓子を砂糖で煮詰めるなんて、考えすらしなかったよ」
ミカンの甘酸っぱさを残しつつ、強烈な甘みが付け加えられた、糊状の液体。思い出すだけで、お藤の口中に涎がわいてきそうになる。
「甘いお菓子に関しては、ヒロお兄ちゃんに敵う人なんて、江戸中探してもほとんどいないと思うよ。お菓子の他にもきっと色々と知っているはず。ご飯と味噌汁だけのお姉ちゃんじゃあ相手にもならないってば」
「宏明さんが物知りなだけであって、別にわたしが劣っているわけじゃあ……」
「でも世間様は、嫁が婿より料理下手って思っちゃうよ」
「母ちゃんも、父ちゃんより料理が苦手だったわけだし……」
お藤の声がだんだん小さくなっていく。
江戸時代での価値観では、家事が苦手な女性というのはどうしても評判が悪くなってしまう。よほどのお金持ちならそうはならないのだが。
「夫が料理人なら、妻より上手なのは当たり前で――。って、ちょっと待ちなさい! いつの間にかわたしが宏明さんと結婚するように話が進んでいるじゃない!」
「頑張ってよ。何のために花魁の髪型を教わったの?」
「わたしがお洒落をしたいだけであって、別に宏明さんの気を引きたいわけじゃないし」
花魁の髷の形をそのまま真似るのは不可能だが、一部を取り入れることはできる。鬢や髱を最新の流行りの形にするのは、お藤にとって単なる趣味に過ぎない。
「結婚とかそんな話をしたら、また父ちゃんが大騒ぎするよ」
「平気だって。口には出さないけど、お父ちゃんはヒロお兄ちゃんのことを気に入っているはずだから」
「気に入っている? お梅はあの二人をどう見ているのさ?」
「だって、ヒロお兄ちゃんとお父ちゃんって似たもの同士だよ」
「どこが?」
「台所の中に関することだけがすごくて、他がてんでダメなところ」
「宏明さんはそんなにダメな人じゃ――。いや、かなりダメかも」
お藤は宏明の言動を思い起こして、妹の意見に納得した。松三郎とは方向性が違うが、ダメ呼ばわりされても仕方ない。
何せ、あまりにも世間の常識を知らなすぎる。他所の土地から来て江戸の風習に慣れていないとかそういう次元ではない。店で働き始めたばかりの頃は、銀貨や銭貨の数え方が分かっていなかったし、楊枝で歯磨きが上手くできずに口の中が血だらけになっていたりした。
今まで彼がどんな生き方をしていたのか、お藤には想像すらできない。
「――確かに似たもの同士」
「でしょ? 実際にお父ちゃんのヒロお兄ちゃんへの風当たりが前よりも弱くなっているし、あの二人は仲良くやっていけるって」
「そんな気がしてきたよ」
「お父ちゃんのことは埒が明いているから、何も心配しなくて平気だよ」
「そうは言ってもねえ……」
「そば修行を頑張るってことで、お姉ちゃんが色恋沙汰を遠ざけているのは知ってるよ。すぐに気持ちを改めるのは難しいかもしれないけど、店のためにヒロお兄ちゃんのことを前向きに考えておいてね」
そう言い残して、お梅は湯船から出て行ってしまった。
(わたしが宏明さんと……?)
残されたお藤は一人考えを巡らせる。店のためと言われてしまうと、考慮せざるを得ない。
しかし、今の今まで宏明を恋愛対象として捉えていなかった。
(悪い人ではないんだけど)
職人にありがちな粗暴な性格ではない。お藤からすると、全く恐さを感じず、一緒に働いていて気が楽な男性だ。
だからといって、恋愛感情を持つかどうかは別の話である。
(わたしが店のお内儀に?)
宏明を婿に迎えるということは、お藤がその立場になるわけだ。しかし、自分が帳場に座っている姿を想像できない。
今は松三郎が帳場にいることが多いが、彼は根本的に台所で働くのが好きな人間である。宏明もそば作りが好きだろうから、こちらも帳場に入るのを嫌がりそうだ。そうなると、お藤にその役目が回ってくる。
二年前までは母親がずっと帳場に詰めていたわけだし、宏明と結婚したらお藤の指定席はそこになるだろう。
(わたしなんかより、お梅の方が向いている気がするけど)
銭勘定に関しては、明らかに妹の方が得意だ。
母親も生前に、こう笑っていた。
『お梅の頭の良さは別格。わたしなんかじゃ到底敵わないよ。もう少し大きくなったら勘定を任せよう。そうすれば店は安泰だから、お藤は安心してそばの習練に励みな。まったく、トンビがタカを生んじまったよ』
母の言葉通りに、そば修行に打ち込んでいたわけなのだが、ここに来て突然結婚の話が飛び込んできてしまった。
(そもそもの話、宏明さんはわたしのことをどう思っているんだろう?)
気にしたこともなかった。本当に単なる仕事仲間としか思っていなかったのである。
(あれ? 少し目まいがする……)
長湯しすぎてすっかりのぼせてしまったお藤を、妹が発見するのはもう少し後のことになる。




