第34話 萩右衛門と柳介 その4
「こりゃすげえ。とんでもねえ人だかりだ」
柳介が驚きの声をあげた。
「何なんですか、これは! まったくもって信じられませんよ!」
その隣で萩右衛門が歯噛みしている。
葛飾北斎の本が発売された翌日、観桜庵の二人は力屋古橋の様子をこっそり見に来ているのだ。
「葛飾為一が力屋古橋の店を錦絵にしたってのは、やっぱり大きいっすね。うちの店でもあんなに並んだのは見たことねえ。いったい何人いやがるんだ? ひい、ふう、みい……」
「人気絵師に頼むお金なんてどこに隠していたんですかね! まったくもう!」
「金だけの話じゃありやせんで。葛飾為一はとんでもない偏屈者で、気に入らねえ仕事はどれだけ大金を積まれてもやらねえって噂を聞きやすし。版元はどうやって奴さんを口説き落としたのやら」
「地本問屋も本当に余計なことをしてくれましたね! よりにもよって葛飾一門の頭領に絵を頼むなんて! 版下絵師にでも描かせればいいものを!」
二人は、力屋古橋が正規の依頼手順を踏んで北斎を起用したと考えているのである。
「向こうが葛飾なら、こっちは歌川一門に頼みましょうぜ。歌川豊国を引っ張り出せれば、力屋古橋にも負けねえくらいの行列が観桜庵にもできるはずっす」
「頼んでどうするんですか! うちが繁盛しても仕方ないんですよ!」
「いやあ、大旦那には聞かせられない言葉っすね」
柳介が頬をかく。萩右衛門は怒りを爆発させているが、柳介としては知ったことではないというのが本音だ。どちらかと言えば、行列ができているせいで力屋古橋の菓子が手に入りにくくなってしまうかもしれないということの方が気がかりである。
「飴団子って菓子も当てているし、力屋古橋がつぶれるのはもうあり得ねえっす。素直に諦めましょうぜ、若旦那」
「まだですよ。まだ打つ手は残っていますとも」
萩右衛門の瞳に暗い炎が宿っている。
「しつこいっすね。そういえば、前に何か企んでいやしたよね? あれはどうなりやした?」
「その件は進めていますが、まだ少し時が要るかもしれません。江戸の外でやっていることですし」
「田舎で何をやっているんすか? そんな悠長に構えていると、借金を返し終えちまいますぜ」
「ですので、別に一つ柳介に働いてもらいますよ」
「へぇへぇ。もらえる物をもらえるのなら、若旦那のお望み通りに働くっすよ。力屋古橋が潰れようが、娘が女衒屋に売り飛ばされようが、あっしにはどうでもいいっすから」
お小遣いをもらえるとなれば、柳介もやる気が出てくる。
「あ、どうでもよくないか。前にも言いやしたけど、古橋を潰した後に菓子の作り方だけは教わってくだせえ」
「菓子でもなんでも聞いておいてあげるから、きっちり働きなさいよ」
二人は観桜庵へ戻り、悪巧みの相談を始めるのであった。




