第33話 行列の理由
「疲れた……。今日の忙しさはなんだったんだ……?」
宏明がぐったりと台に寄りかかった。
結局のところ、客足は一向に途絶えなかった。力屋古橋の面々はずっとフルスピードで働き続けることになったのだ。
「汁がなくなって店を閉めざるを得ないなんて、ワシがこの店に来てから初めてのことだけぇ。まだ日が落ちて間もないってのに」
普段は疲れを見せない鹿兵衛もさすがに参っているようだ。
「みんなー、ご苦労様。今日は忙しかったねー」
疲労の色も見えるが、お梅は笑顔一杯である。
「今日に限って忙しかったわけなんだけどね、お客さんがさっき教えてくれたよ。地本問屋でこれが売り出されたんだって」
言いながら、彼女が一冊の本を古橋の面々に差し出した。
「借り物だから汚さないでね」
言いながら、頁を開く。
そこには見開きで浮世絵が描かれていた。
「――これってうちの店の絵?」
絵の片隅に「江戸名店 明神下 力屋古橋」と書いてあるのだ。楷書で書かれているので宏明でも読める。
高いところから斜めに見下ろす鳥瞰図で、店の全景と、従業員や客の様子が描かれている。
「この絵を描いた人って……」
心当たりがある。銭湯で知り合った鉄爺だ。
「鉄爺さんってやっぱり絵師だったのか。上手いもんなぁ」
「――ヒロお兄ちゃん、この字を読んでみて」
お梅が指さした文字は草書だ。宏明には読むのが困難である。一応、暇を見つけては長屋の大家に習っているのだが、なかなか身につかない。
「一番下の字は『筆』だよね。ということは、その上に作者さんの名前が書いてあるのかな? 『一』の字は分かる。その上は『為』? ……為一? 冗談でしょ?」
とんでもない事実にようやく気付いた。
「鉄爺さんが葛飾北斎だったのか。全く気付かなかった……」
「たぶん誰も気付かないって。人気絵師が粗末な着物をまとって町を歩き回るなんておかしいでしょ」
「お梅ちゃんの言う通りだね。何をやっているんだ、あの人は?」
葛飾北斎はかなりの変人だったという話を知ってはいたが、想像以上に変わり者のようだ。
「おい天狗、為一先生の住み処は教わっているか? 礼を言わなきゃならねえ」
「聞いていません。また店に来てくれるのを待つしかありませんね。ちょくちょく顔を出してくれていますし、近いうちにまたそばを食べに来てくれるかと思います」
「それじゃあ遅すぎる。明日一番に版元へ行って、先生の居場所を教わるか」
話をしている宏明と松三郎に、鹿兵衛が加わる。
「どういうわけなのか分からないけど、こうやって人気絵師がうちの店を描いてくれたもんで、明日からもお客たちが押し寄せてくるけえ。さすがにこの人数で店を回すのは辛いわ」
「確かにそうだな。オレがやどやに頭を下げてくらあ。天狗が長続きしているし、親分も折れてくれるだろ。ただ、あまり期待はするな。師走でどこのそば屋も職人を欲しがっている。やどやに一人も残ってねえかもしれん」
「そば屋が忙しい時期と、ちょうど重なったのは不運だけぇ……」
「他にも当たってみる。そばを打てなくとも花番なら素人でもすぐに仕事を覚えられるだろう。そしたらお梅の手が空くし、台所の手伝いも兼ねさせる」
突然の指名に、お梅が自身の顔を指さした。
「あたしが台所に?」
「いい機会だから、台所仕事も覚えておけ」
「ドンと来いだね。ところでお父ちゃん、明日は売れ切れにならないように、今から仕込みをやっておこうよ」
「汁が出来上がるまでに二晩かかるわけだから、今から作っても明日はどうにもならねえぞ。まあ、明後日のために仕込むとするか。この分だと醤油と味醂が足りなくなるから、問屋に頼まなきゃねらねえな。そば粉の方も、臼屋に多めに挽いてもらうぜ」
松三郎が動き始めたので、店の面々も準備に取りかかる。
そんな中、お藤だけが不機嫌そうに絵を見つめたまま、全く動こうとしない。
「お藤さん、どうかしたの?」
「この絵なんだけどさ、これって宏明さんだよね?」
「店の半纏を着ているし、総髪だし、たぶんそうだと思う。というか、俺以外あり得ない」
「そばを運んでいる童がお梅。帳場に座っているのが父ちゃん。店の外で煙管をくわえているのが鹿兵衛兄さん」
「そうだね。店のみんなのことも絵にしてくれているね」
「わたしは?」
「――あれ?」
改めて絵を見てみると、確かにお藤らしき人物が描かれていない。
「お姉ちゃんは台所にいるんじゃない? この絵には台所の中が描かれていないから、お姉ちゃんがいなくても仕方ないよ」
客席から台所は見えない構造だから、北斎は絵にすることができなかったのだろう。
「宏明さんと鹿兵衛兄さんはきちんと描かれているのに、どうしてわたしだけいないんだい?」
「ヒロお兄ちゃんは為一先生と話すために客席へ出たし、シカお兄ちゃんはたまたまタバコを吸いに外へ行ったんだろうね」
「だから、ずっと中で働いていたわたしだけが除け者になったってことかい! ああ、忌々しい!」
「そういうこともあるよ。お姉ちゃん、諦めて」
「何が忌々しいって、猫たちも三匹きちんと描かれているのに、わたしだけがいないんだよ!」
「運がなかったねー。また機会があったらお姉ちゃんも描いてもらえるかもよ。人気絵師に頼んで描いてもらうお金なんて、うちの店にはないけど」
「機会なんて金輪際あり得ないってことじゃない!」
お藤を慰める言葉が思いつかないので、宏明はそっと離れて仕込みの準備に取りかかるのであった。




