第32話 昼間の異変
「ヒロお兄ちゃん、飴団子二箱追加だよー!」
力屋古橋の台所に、お梅の元気な声が響いた。
「店を開けてからずっとお菓子作りばかりだ……」
団子を丸めながら宏明が愚痴をこぼす。
「それだけ売れているってことだよ。もっと喜んで」
「俺はお金を稼ぐためだけじゃなくて、そばの勉強がしたくて古橋で働いているのに、何だってこんなことに……」
「そばなんかよりもお菓子の方が儲けが大きいから、頃合いを見計らって菓子屋に移行したいところだね。そうすれば、夜に働かなくてもよくなるし」
「とことん家業を否定しまくるな、このロリっ子は!」
今は月が変わって十二月に入っている。
吉原出張の効果は予想以上であった。
真菅が美味しいとした菓子の評判が、吉原全体に広がり始めた。そうなると、遊女の気を引きたい男連中は、プレゼント用として力屋古橋の菓子を買い始める。
同時に、流行の発信地である吉原で話題になったということで、流行りに敏感な江戸っ子たちが自分で食べるために飴団子を求めて力屋古橋に押し寄せているのだ。
先に売り出した甘皮包みことそば粉クレープも好評を維持している。温かいうちに食べて欲しいと客側に伝えているが、店の中で食べずにお土産に買っていく人も多い。
おかげで菓子を取り扱っている昼間は、宏明を始めとする店の従業員たちはお菓子作りばかりやる羽目になっているのだ。特に宏明は発案者なので、優先的に菓子作りへ回されている。
「自分でまいた種だけど、こんなことになるならお菓子なんて提案するんじゃなかった……」
「店は儲かっているんだから胸を張ってよ。重畳重畳」
満面の笑顔をたたえながら、お梅は客席の方へ戻っていった。
「宏明さんは不満があるだろうけど、日が暮れたらお菓子作りをやらなくて済むし、我慢しておくれよ」
宏明の隣でカラメルソースを作っていたお藤が慰める。
「そうだね。夜はそば修行に専念できるんだから、前向きに考えるよ」
「今日は珍しく昼間からそばがそこそこ出ているから、多少はそば修行できているしね」
二人で話しながら仕事をしていると、お梅が再び台所に戻ってきた。
「ヒロお兄ちゃん、やどやのお菊さんが来ているよ」
「はいはい。挨拶に行くよ」
手を洗ってから彼は客席の方へ向かった。
「いらっしゃい、お菊さん。この間はわざわざありがとうございました」
お菊が以前奉公していたお屋敷に、飴団子の試供品を持って行ってもらったのだ。どうやら、向こうの口に合ったようで、使いの者が古橋の菓子を買い求めてくるようになった。さらに、武家社会の間でも話題になっているみたいである。
「お役に立ててなによりです。古橋さんのお菓子が当たったのを見て、他のそば屋も真似を考え始めているようですよ」
「これからは、やどやで菓子職人を置くことになるかもしれませんね」
「伯父さんはさっそく探し始めています。――それにしても、噂には聞いていましたが、本当に店の中が女だらけですね」
「これでも今日は男の割合が多いくらいですよ」
「そうなんですか。でも、他所のそば屋より断然入りやすいです」
お菊がほぼ満席の店内を見回す。今日の男女比は半々くらいだろうか。お菓子目当ての女性客や、親子連れが目立つ。
「おっと、今日の私は客として来たのでした。甘皮包み一つと、飴団子を三箱ください」
「全部持ち帰りですか?」
「いえ、甘皮包みだけはここで食べていきます。できたての温かい菓子をお店で食べられるのだから、町娘に生まれて良かったと思います」
「武家の人だとそれができないですもんね。すぐに注文の品を用意するので少し待っていてください」
言い残して、宏明は台所に戻った。
「宏明さん、そろそろ十三里がなくなりそうだよ。甘皮包みが次々に売れているもんだから」
お藤が状況報告をしてくる。
「そんなに減っているんだ?」
「今日はなんとか足りそうだけど、明日からは厳しいね。問屋の方も残りが少ないらしいし」
「サツマイモを使うのは諦めた方が良さげだね。中身を柿かミカンに切り替えようか?」
「柿はそろそろ終わりかも」
「じゃあ、ミカンにしよう。たっぷりと買いこんでも構わないよ。もちろん、店に置ける程度ね」
「ミカンは十三里より傷みやすいから、多く買わない方が賢明だよ」
「余ったらジャムにするから平気。甘皮包みにジャムを塗って売るのもありだしね」
「『じゃむ』ってなんだい?」
「えっと、水菓子(果物)を砂糖で煮込むことなんだけど、江戸だと何て呼ぶのかな?」
「水菓子を甘く煮るなんて聞いたことがないね。豆の甘煮はあるけど。あとは小魚とか貝とかを甘辛く煮る佃煮くらいかな」
どうやら江戸の人間はジャムを作っていないようである。
(ジャムってガレットより古い料理のはずだし、作っても問題ないかな? そもそもこんな単純な料理、江戸にはないとしても、日本のどこかで既に作っていそう。砂糖と果物があるわけだし)
楽観的に考えて、ジャムなら大丈夫だろうと宏明が思った時だ。松三郎が台所に入ってきた。
「オレが釜前に立つ。鹿兵衛はそばの追い打ちに入れ」
「どうしたんだい、父ちゃん? まだ日は落ちていないよ」
「どういうわけなのか分からねえが、今日は客が多い。外に行列が出来はじめやがった」
「近くでお祭りとかあって人が出ているのかねえ? そんな話は聞いていないけど」
ここで、お梅が焦った表情で台所に駆け込んできた。
「誰か来て! 外で並んでいるお客さんたちが喧嘩を始めそうだよ!」
「天狗、行ってこい。ついでに行列が近所迷惑にならないようにしておけ」
松三郎に指名されてしまったので、宏明はしぶしぶ外へ向かうことにした。
「どうして江戸っ子は喧嘩をしたがるかな……」
「火事と喧嘩は江戸の華よ。こちらの言うことをどうしても聞かねえようなら、自身番に突き出せ」
自身番は江戸の町の自警団だ。幕府公認なので、現代日本の交番みたいな役回りである。
「――どういうことだよ、この人だかりは?」
店の外に出て彼は驚いた。二十人ほどの行列ができているのだ。忙しい時間帯でもこんなに並ぶのは珍しい。
「喧嘩はやめてくださーい! そばは逃げたりしませんから、おとなしく並んでいてくださーい!」
幸いにして、宏明の声で喧嘩はおさまってくれた。
しかし、客たちから次々に文句を浴びせられる。要するに、怒りの矛先が宏明に向いただけのことだ。
「兄ちゃん、いつになったらそばを食えるんでい? この寒空の中、延々と待たされるのは耐えられねえぜ」
「忙しい中、足を運んでいるんだ。早くしやがれ」
「こちとら江戸っ子よ。あんまり長く待たせるんじゃねえぞ」
元々、ガラの悪い男たちが力屋古橋の主な客層なのだが、今日はさらに輪をかけて荒っぽい客が集まっているようだ。
「今から急いで用意するので、お願いだから静かに待っていてください。店の人間が外で整理なんかしていたら、皆さんにそばを出すのがもっと遅くなってしまいますよ」
なんとか客たちをなだめて、宏明は台所に戻った。
「宏明さん、戻ってきてくれたんだね。早速だけど手伝って!」
案の定、台所は大忙しになっている。
「はいはい。お待たせ。まだ昼間なのに、そばを欲しがるお客がこんなに来るなんて想定外だね」
気持ちを入れ直して、彼は脇中の仕事に入るのであった。




