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第31話 評価

「天狗、おめえが作った汁について教えやがれ」


 松三郎が切り出してきた。


 おかわりのそばの配膳が終わって、宏明が台所に戻ってきたところだ。


「あれですか? 信州に伝わるクルミだれです。武州の秩父地方や奥州の会津地方でも使われていると聞いたことがあります」


「真菅花魁の生まれがそこなら喜んでもらえるかもしれねえが、いくらなんでもそんな都合良く事は進まねえだろう」


「俺もそう思います」


「じゃあ、どうして作ったんでい?」


「何もしないよりはマシかなと」


「いい加減な話だな」


「クルミだれがダメだったとしても、焼き味噌がなんとかしてくれるんじゃないかと、甘い考えをしています」


「味噌が? たいして珍しくねえ薬味だろうが」


「少し長い話になりますが――」


 前置きをしてから、宏明が説明を始める。


「そば切り(麺状のそば)って、昔からずっと味噌だれで食べられていたはずです。でも、江戸では下り醤油が入ってきたり、地廻り醤油が作り始められたりで、味噌ではなく醤油を使うようになりましたが」


「確かにオレがガキだった頃は垂れ味噌でそばを食うことがあったな」


 一七五○年頃は、垂れ味噌の汁が江戸のそば屋の主流だったと文献に書かれている。


 時が進んで一七七○年代になると、下り醤油(淡口醤油)を使ったそば屋が出現する。高価な醤油を使っているということで、格上の存在であったようだ。


 そして一八○○年代の初め。文化文政年間と呼ばれる時代に地廻り醤油(濃口醤油)を基本としたそば汁が台頭し始める。地廻り醤油は江戸庶民の嗜好に合っていて、あっという間に垂れ味噌や下り醤油を駆逐してしまい、江戸のそば屋の大半が提供する味となってしまう。この味こそが現代まで続く江戸そばのルーツとなる。


「江戸そばでは醤油が主体になりましたが、醤油が手に入りにくい地域だと、まだ味噌でそばを食べているかもしれません。遊女のみなさんが焼き味噌を汁に入れて溶かしてくれたら、それっぽくなるんじゃないかなと。勝手に期待しているだけですが」


 この時代の郷土そばの味なんてサッパリ分からない。ただ、流通がそんなに発展していない江戸時代では、醤油ベースの汁がそこまで広まっていないのではないかと考えたのだ。


「ふむ、天狗の考えは筋が通っているが、正しいかどうかは女郎連中のみが知るってことだな。ここでオレたちがあれこれ話していても仕方ねえから、片付けでも始めるぞ」


 力屋古橋の二人の仕事は終わった。あとは妓楼の人々が食べ終わればお役御免である。


 宏明が釜を洗い始めてから少し時間が経った頃、台所に禿のおみつが顔を出した。


「おそば屋さん、真菅姐さんがお呼びでありんす。わっちに付いてきておくんなんし」


 彼女の言葉に、宏明と松三郎が顔を見合わせる。


「あー、仕方がねえ。花魁にお呼ばれされたからには行くしかねえな」


「俺も一緒に付いていっても構わないでしょうか?」


「文句を言われても反論はするな。この言いつけを守れるなら一緒に来い」


「はい、分かりました」


 客からの苦情には平身低頭謝る。現代でも江戸時代でも変わらない事情なのだろう。


 おみつに導かれ、宏明と松三郎は真菅の部屋に向かった。


(あ、すごく不機嫌そう)


 真菅は無表情で煙管をくわえていた。部屋に入ってきた者たちに目線を送ることすらせずに、窓の外の景色を眺めている。


 そんな部屋の主に代わって、振袖新造の蛍草が声をかけてきた。


「わざわざ足を運んでいただき、ありがとうござりんす。今日のそばについて尋ねたいことがありんす」


「何でもお答えしやす」


 松三郎が腰を下ろしながら答える。宏明も彼のすぐ後ろに座った。


「一枚目と二枚目のそばが違いんしたけど、どういうわけでありんしょう?」


「へえ。一枚目は店の味。二枚目は遊女の皆さんに喜んでもらえるような味。こういう狙いで出させてもらいやした」


「わっちたちを喜ばせる?」


「うちの店は男連中ばかり集まるもんだから、どうしても男が好む味になっていて、遊女の皆さんの口に合わねえかもと思って。てなわけで、二枚目は汁の味を変えてみやした」


「薬味が付け足されたのは、汁の味を変えたから?」


「そっちに関しては、うちの若え奴の考えになりやす」


 松三郎が宏明の方に目をやった。


 ここでしゃべって良いのか分からないので、宏明は取りあえず軽く頭を下げておいた。


「どうして意図でありんしょう?」


 蛍草が真っ直ぐに宏明の顔を見据える。


 対する宏明は答えて良いのか決めかねてしまう。


「正直にお答えしろ」


 松三郎に言われたので、彼は口を開いた。


「遊女の皆さんを喜ばせたいと思って、知恵をしぼっただけです。うちの旦那の考えと同じで」


 この言葉を聞いて蛍草は真菅の方に顔を向けた。


 どうやら、今までの質問は真菅の言葉をそのまま伝えているだけで、蛍草の言葉ではなかったようである。


「ふぅ……」


 真菅が軽く煙を吐いて宏明の方に目を向けた。そして、初めて言葉を紡ぎ出す。


「このクルミの汁も、わっちたちを喜ばせるつもりでありんしたか?」


 彼女の鋭い視線を真正面に受けながら、宏明は返答する。


「先ほど部屋をお伺いした時、真菅さんが薬味の皿を眺めていました。その時の様子から、クルミだれを出そうと思いつきました」


「薬味を見ていただけ。それが汁につながるとは思えんせん」


 真菅が宏明を訝しげに見る。


(出身地を知っているかもしれないと疑っているのかな?)


 彼はそう見当を付けた。出身地の云々の話には触れないように、話を続ける。


「うちの店の薬味はネギとクルミ。どちらを気にしているのか分かりませんでしたので、当てずっぽうでクルミを選びました。真菅さんがクルミを気にしているのなら、もっとクルミをたくさん出せば喜んでもらえるかもしれないと考えました」


「それでクルミを汁に?」


「はい。江戸では珍しいかもしれませんが、俺は田舎出身でたまたま知っていたので作ってみました。皆さんのお口に合わなかったのなら申し訳ありません」


「そういうことでござんしたか」


 言いながら、真菅は煙管を一口吸った。そして、その煙管を宏明の前に差し出す。


「ん? 俺はタバコを吸いませんよ?」


 よく分からないが、彼は煙管を受け取った。


 この二人の動きを見ていた蛍草が、すぐさま反応する。


「おみつ、下へ行って杯をもらってきなんし」


「あい! 行ってきんす!」


 指示を受けたおみつが小走りで部屋から出て行った。


「えっと、何が起こっているんでしょうか?」


 宏明はサッパリ状況が分からずに、首を左右に動かして部屋の面々の顔を伺うことしかできない。


 そんな彼の様子を見た松三郎が、大きなため息をつきながら口を開く。


「真菅の姐さん、野暮天ですまねえ。こいつは田舎から出てきたばかりだから、花街かがいのしきたりとか全く分からねえんだ。どうか勘弁して頂きたい」


「野暮天だなんてとんでもありんせん。まだ若いのにここまで気遣いができる男なんて、近いうちにすごい通人になりんすえ」


 真菅が宏明に流し目を送る。


 その視線にゾクゾクするものを感じながら、彼は松三郎に尋ねた。


「――つまり、どういうことなんでしょうか?」


「おめえが真菅の姐さんに気に入られたってことだよ」


「は?」


 その時だ。おみつが軽く息を切らせながら部屋に戻ってきた。


「お待たせしんした! お二人は夫婦の杯を交わしてくんなんし!」


「というわけだ。天狗は真菅の姐さんに可愛がってもらえ。店のことは気にするな。オレたちでどうにか回す」


 ここに至ってようやく宏明も事情がのみ込めた。みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。


「ちょっと! 俺はそんな大金を持ち合わせていませんよ!」


「そのくらい、わっちが出してあげんす」


 真菅が宏明の掌を軽くにぎり、妖艶な笑みを浮かべながら顔を近づけた。


 彼の顔がますます赤くなる。


 真菅は百戦錬磨の遊女だ。純情な中学生を手玉に取ることくらい容易いだろう。


「いや、あの、俺にはそんな覚悟がまだ……。そうだ! ご厄介になる代わりに、持ってきたお菓子を食べてください。それで十分です」


「――ふうん。菓子を食べるだけで構わないなんて風変わりなことを仰りんすね。本当に通人になりそうでありんす」


 真菅が名残惜しそうに離れていく。


「ついでにさっきのそばの感想を皆さんから頂けたら、なお嬉しいです。今後の参考にしますので」


「わっちはこのクルミだれをとても気に入りんした。蛍草、おみつ、二人も答えてあげなんし」


 真菅に振られて、まず蛍草が答える。


「二回目の甘い汁の方が美味しゅうござりんしたね。わっちは特に何も入れずに食べんした」


 続いておみつが元気一杯に話す。


「味噌を汁に入れるのが、一番でありんした! そしたら、母様のそばとそっくりの味になりんした!」


 どうやら大筋で狙い通りだったようだ。少なくとも、この部屋で食べた遊女たちからは好評を得ることができた。


「というわけなので、台所まで菓子を取ってきますよ、旦那」


 そんな宏明に松三郎は不思議そうな顔を向ける。


「おめえ、良いのか? 花魁に相手をしてもらうのを断るなんて」


「俺にはまだ早いと思うので」


「これから先、こんな幸運はねえかもしれんぞ。きっと後悔する」


「その時はその時。自分はバカだったと、思い切り悔やみます。じゃあ、台所に行ってきます」


 台所に戻った宏明は、持ってきた菓子を荷から取り出した。


 結局、前にお梅と話し合った菓子に落ち着いた。そば団子にカラメルソースをかけただけのシンプルな菓子だ。串に刺してすらいない。


 時間耐久性がそこそこあるのが採用の決め手となった。問題としては、そば粉の団子だから少々癖のある味になっていることだ。宏明の味覚からするとかなり微妙である。お藤とお梅の甘党姉妹が気に入ってくれたのは心強いのだが。


「お待たせしました。召し上がってください」


 団子を皿に盛り付けて、宏明は真菅の部屋に戻った。


「うわあ! キレイなお団子でありんす」


 おみつが驚きの声を上げた。


 飴がけしてあるので団子がキラキラと輝いているのだ。従来の団子のイメージとは異なるはずである。


「『飴団子』です。ご賞味ください」


 この身も蓋もない名前は松三郎がつけた。


「思ったよりも固うござりんす。楊枝をさすのに少し力が要りんすな」


 こう言う蛍草だけでなく、真菅もおみつも苦労しているようである。しかし、すぐに慣れたのか、団子を上手く口に運んだ。


「甘い! 何これ? 本当にお団子でありんすか?」


 おみつが目を丸くする。


 続いて、真菅が感想を述べた。


「――これは、わっちが知っている団子とは大きく異なりんすな。外側の飴がとても甘く、中の団子を噛むとそばの香りが口の中いっぱいに広がって、とても美味しゅうござりんす」


「ありがとうございます」


 宏明は素直にお礼を言う。


「この団子気に入りんした。ちょくちょく店の者に買いにいかせんす」


「そう言って頂けるのは嬉しいのですが、うちの店は吉原から結構遠いので……」


「なら、馴染み客たちに土産として頼みんしょう」


 花魁の気を引くために、男たちがプレゼントを贈るのは珍しいことではない。その贈り物の一つに力屋古橋の菓子が加わるのだ。かなりの売り上げが見込めそうなので、菓子の宣伝としては大成功と言って構わないだろう。




「――それにしても、おめえはすごいのかバカなのか分からねえな」


 胡蝶屋を後にして明神下まで帰る途上、松三郎がポツリと言った。


「今日は色々と出しゃばっちゃってすみません」


 宏明は雇い主に頭を下げた。


「それで上手くことが進んだわけだから気にすんな。肝が据わっているってことだけは覚えておくぜ」


「そんなに度胸があるとは思っていないんですがね」


「自覚はねえようだな。まあいい、とっとと店に帰るぞ」


「はい!」


 二人は早足に自分たちの店に戻っていったのであった。

この時代の地方のそば汁が味噌ベースという点と、クルミだれが存在していたという点は筆者の想像です。ご了承くださいませ。


以下言い訳です。

醤油の大量生産は江戸時代で既に始まっているわけですが、全国各地に広がったのは大正・昭和時代だったようです。醤油は重いので、物流網が整備される前は輸送が大変だったからなのでしょう。

ならば、醤油が手に入らない地域ではどうしていたのかと考えると、昔ながらの味噌を使っていたのではないかと思ったわけです。味噌なら各家庭で作れるわけですから。


クルミだれの方も全く証拠がありません。筆者が注目したのは、長野県東部地方と福島県会津地方という離れた地域でクルミだれがあるということです。この二つの地域、そばの歴史で大きな関わりがあります。

第三代将軍徳川家光公の御治世。将軍の異母弟保科正之は信濃国高遠藩主でしたが、幕府からの命により出羽国山形藩へ、その次は陸奥国会津藩へと転封となります。その際、正之公は高遠のそば職人を連れて国を移ったのです。当時のそば先進地域である信州の技が東北の地に伝わり、会津では「高遠そば」という名で現在まで残っています。

そんな高遠と会津の両方でクルミだれが存在しているのだから、正之公の国替えの時にクルミだれも一緒に伝わったのではないかと妄想したわけです。だったら、江戸時代後期にクルミだれが存在していても良いのではないか、と乱暴な考えで物語に出しました。


どちらも文献等の拠り所がない、完全な妄想です。あしからず。

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― 新着の感想 ―
[一言] 岩手(陸奥国)じゃ、古くから「胡桃」が料理に使われてるらしいですね。
[一言] 青森には、味噌の「すまし」をつかった蕎麦が残っている。 味噌仕立ての汁で食べる盛りそばも旨いんでしょうな。
[一言] フィクションとして楽しんでいるので、へぇ~って感じで読んでいます
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