表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/69

第30話 薬味準備

 宏明は妓楼の飯炊き係に頼んで、味噌と大根を分けてもらった。材料がそろったので早速調理を開始する。


 まずはクルミを包丁で細かくする。そしてすり鉢に入れてすりつぶす。


(汁の味はこんな感じかな?)


 辛汁と二番出汁を鍋に入れて味見をした。作るのは初めてなので記憶を頼りに味を整えていく。


 鍋を火にかけて、先ほどのクルミも混ぜ合わせる。


 再び味見をしてみると、だいたい予定通りの味になっていた。クルミの甘みとコクがきいた汁になっている。ただし、二十一世紀のクルミだれに近い味になっているので、江戸時代の人間の口に合うかどうかは不明だ。


 取りあえずクルミだれが完成したので、鍋を水の中に浸して冷ましておく。


 そして、次の薬味を作り始めることにした。


 もらった味噌をシャモジに付けていく。


(江戸味噌じゃなくて、できれば地方の味噌が欲しかったけど、贅沢言える立場じゃないよな)


 シャモジを炭火に近づけて、焦がさないように注意しながら焼き目を付ける。


「おい天狗、もうすぐそばの支度が終わるぞ。早くしやがれ」


 そばを茹でていた松三郎が急かしてきた。


「すみません! もう少し待ってください!」


「そばはそんなに長くは保たねえぞ」


「えっとぉ、大根をおろしてもらえませんか?」


「おめえ、オレに大根をおろさせようってか? ――まあ構わねえか。修行していた頃は嫌というほど大根とにらめっこしたんだ。久々にやってやるぜ」


「ありがとうございます!」


「どんな塩梅ですりおろせばいい?」


「できるだけ辛くお願いします」


「なんでえ、江戸のそば屋の大根おろしと一緒じゃねえか。任せやがれ」


 言うだけあって、松三郎は慣れた手つきで大根をすりおろしていく。


 宏明はそれを横目で見ながら、自分の仕事を進める。味噌に良い感じの焼き目が付いてきたので火から離し、皿に盛り付けていく。


 味噌の準備ができたので、クルミだれの鍋に戻る。水の中から取りだして軽く触ってみると、まだ熱い。


(この短い時間だと、さすがに粗熱を取り切れないか。仕方がない)


 これ以上のんびり待っているわけにはいかない。宏明は鍋の汁を猪口の中に注いでいく。


「大根をおろし終わったぜ」


「こちらも用意できました!」


「……焼き味噌と大根おろしは珍しくも何ともねえ薬味だから分かる。けど、その猪口の中身は何でえ? 薬味じゃなくて汁じゃねえか」


「そうです。うちの薬味を使って作った汁です」


「トンチをしている場合じゃねえだろ、べらぼうめ。――オレの知らねえ味だが、悪くはねえな。よし、三つとも出せ」


「はい!」


 これでおかわりに出すものが決まった。太めのそばと、二番出汁で薄めた汁。あとは宏明が作ったクルミだれ。薬味は本来のネギとクルミ、追加の焼き味噌と大根おろしだ。


「なんつーか、うちの店のそばとは大きくかけ離れちまったな――」


 膳の上にそろっている物を見て、松三郎が呆れたような声を出した。


「この際だから仕方ねえか。客がお待ちだ。このまま持って行け」


「はい、また若い衆の皆さんに手伝ってもらいます」


「そばを出すのにこんな不安な気持ちになるのは初めてだぜ。後は野となれ山となれってやつだ」

江戸時代の薬味の話です。

この物語では、1751年に刊行された「蕎麦全書」という本を参考に薬味を設定しています。70年ほどずれているので、考証が間違っている可能性があることをご了承ください。


蕎麦全書では、薬味の第一は大根の絞り汁とされています。江戸人はこれを汁に入れて食べていたようです。とにかく辛い絞り汁を用意することが重要だったようで、同書ではその方法が詳細に述べられています。

現代の信州そばの一部や越前そば等で大根おろしを使っているのは、江戸時代からの食べ方の名残かもしれません。

力屋古橋では大根を出していませんが、本文にあるように松三郎が修行したお店では大根を出している設定になっています。

幕末の書物「守貞謾稿」では薬味に大根おろしが付いてなく、明治から昭和時代を生きた老舗そば屋の旦那は大根おろしの作り方を口伝で残しています。どうやら幕末以降は、店によって出したり出さなかったりだったようです。

文化・文政期は、必須だった大根おろしが消え始める時期なのかなと筆者は勝手に想像しています。


蕎麦全書によるとネギも「絞り汁と同じく欠くべからざるの品」とされていますが、ネギが薬味として広く使われるようになったのは最近だとも書かれています。物語では、観桜庵が昔のやり方を貫いてネギを出していない設定にしました。


クルミはそばの消化が良くなるとされ、蕎麦全書の時代に流行り始めたようです。


焼き味噌は江戸時代前期の書物「本朝食鑑」にも書かれている伝統の薬味となります。現代の東京では、薬味ではなく酒の肴としてそば屋のメニューに並んでいますね。


現代のそばに欠かせないワサビですが、蕎麦全書では「大根の辛みなき時に用ゆるのそなえなり」とされていて、大根がない時の予備扱いだったようです。観桜庵では大根おろしとワサビを同時に出していますが、これは物語上の都合ということでご容赦を。


他にも、唐辛子・海苔・華鰹・陳皮・梅干しといった薬味が紹介されています。

江戸時代では様々な薬味が用いられていたみたいですね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 私の出身の群馬は茹でたナス刻んだキュウリミョウガインゲン茹でた鶏肉等薬味の種類がかなり多いです。両親どちらの実家でも麺類は大量の薬味と食べるのでお店はともかく家だと多分それが普通になってる…
[一言] 最近急に蕎麦食べたくなったのは多分この小説のせい
[一言] 現代の方が食文化は豊かになっているはずなのに、なんで蕎麦の薬味の幅は狭まったんでしょうね 本編とは関係ない感想で申し訳ない
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ