第29話 客を喜ばせるために
特に問題もなくそばの準備が終わったので、若い衆(妓楼で働く男性)たちに手伝ってもらって、三十人分のそばを届けた。
その際に、遊女は位ごとに住む場所が違うと宏明は知った。一定の階級まで上がると個室を与えられるが、格下の遊女たちは大部屋での共同生活をしている。
個室持ちは各々の部屋で、大部屋組は皆で集まって食事をするようだ。
そばを配り終わって若い衆も食べ始めたが、宏明はそのまま一人で妓楼中を歩き回っている。おかわりを出すタイミングを見計らうために、客たちの様子を窺う必要があるからだ。店では花番のお梅の役目だが、ここでは宏明が担当せざるを得ない。
花魁の部屋も覗くことが許されたので、お藤からの頼みもついでにこなすことができた。
(これが伊達兵庫って髪型なのか……)
二つに分けた髷を鳥の羽根のように大きく広げた髪型だ。髪飾りも下の位の遊女とはくらべものにならないくらいの数が使われていて、簪だけでも二十本近く挿さっている。この髪型にどのくらいの大金がかかっているのか、宏明には見当すらつかない。
(町娘がこんなのを真似できるのか? ……おっと、髪ばかり見ている場合じゃないんだっけ)
宏明は次の部屋に移動した。
筆頭遊女の真菅の部屋だ。
そっと覗いてみると、先ほどの花魁よりも豪奢な格好をした女性が目に入った。髪型は先ほどと同じく伊達兵庫。その髪に金・銀・べっ甲といった素材の髪飾りを所狭しと挿している。着ている物は蝶の模様をあしらえている打掛だ。年齢は二十歳前後だろうか。
部屋の中には、おみつと蛍草もいて、一緒にそばを食べている。
(あ、全然美味しそうにしていない……)
一応食べてはいるものの、真菅の表情は曇っている。時折、物憂げなため息をつきながら薬味の皿へ目を落とす。
他の二人の様子を窺ってみると、こちらも残念そうな顔だ。
ひと通り観察が終わったので、宏明は台所へ戻ることにした。
「どうだった?」
「そろそろおかわりの支度を始めたら、皆が食べ終わる頃に持って行けると思います」
「連中は美味そうに食っていたか?」
「えっと、その……」
「正直に言え」
「御内所や若い衆は喜んでいましたが、遊女の皆さんはほとんど良い顔をしていませんでした。真菅花魁もです」
「そんなこったろうと思ったぜ」
松三郎が頷いた。
「うちの店のそばは男どもが喜ぶ味だ。案の定、遊女の口には合わなかったか」
味覚というのは体が求めている栄養素によって変化する。欲しい栄養素を口にすると美味しく感じるのだ。
力屋古橋の客層は汗水流して働く肉体労働者が主である。こういう人たちは塩分がたっぷり入った濃い汁を美味く感じる。
しかし、家事なんて一切やらずに、客を取っている時以外はほとんど座ったままの生活をしている遊女には濃すぎる味なのだろう。
「天狗、持ってきた二番出汁(一度煮出した鰹節で、もう一回煮出したもの)を支度しろ」
「かけそばを作るんでしょうか?」
古橋の場合、もりそば用の汁を二番出汁で薄めて、かけそば用の汁を作っている。
「いや、もりそばだ。ただし、二番出汁で辛汁を薄めて出す」
「え? 店の味と異なっちゃいますよ?」
「それは仕方ねえ。オレたちは女郎どもを喜ばせるためにはるばるここまで来たんだ。店の味を気に入ってもらえねえなら、変えて出すしかねえだろ」
どうやら松三郎は自分の味にこだわるというわけではなく、あくまで客に喜んでもらうことが優先のようだ。
宏明としても主人の考えに賛同したい。
「でも、汁の味を変えたらそばとの相性が……。ああ、さっき太めのそばを用意したのは汁を薄めることを想定していたんですね」
松三郎の周到さに感服した。遊女たちの口に合わないということを予見していたのだろう。
そばが太い場合は汁を薄くする。細い場合は濃くする。汁を作る際の定法だ。
「辛汁を薄くしたら遊女たちの口に合うのでしょうか?」
「それは分かんねえ」
「ええ……」
「うちの女房も店の汁が口に合わなかったようで、いつも散々文句を言いながら二番出汁で薄めていた。オレにはこの手しか思い浮かばねえ」
「確かに味の好みは人それぞれだから、合わせるのは難しいですよね」
「せめて真菅だけでも喜んでくれれば、御内所に顔が立つんだがな」
「真菅花魁ですか……」
彼女の好きな味なんて想像すらできない。
「ところで、おカミさんって江戸の人だったんでしょうか?」
「おう、江戸の生まれだ。たいして料理が上手くないくせに、他人様が作った物の味には口やかましい女だったぜ」
「真菅花魁が江戸に近いところの出身なら、おカミさんと同じように薄めた汁で喜んでくれるかもしれませんね」
しかし、江戸近郊でなければ、舌に合わない可能性が高い。薄めたところで、結局は江戸という一つの地方の味だ。他所の土地出身者には美味しいと思ってもらえないだろう。
「真菅花魁の出身地を尋ねてみるって平気ですかね?」
「――おめえ、遊女の生まれを聞くなんて、野暮を通り越して論外だぞ。生まれを隠すためにわざわざ変な言葉で話しているってのに」
「失礼になっちゃうんですね。諦めます」
直接尋ねるのは無理として、どうにかして推測できないだろうか。宏明は少し考えてみる。
(手がかりになるのは、打ち立てのそばを望んでいたことくらいか。これだけじゃ特定なんか不可能だ)
そばを食する地域は日本中数え切れないくらいに存在している。そして、各地域ごとにそれぞれの味がある。真菅が好む味を予想するなんて、砂漠の中に埋まっている宝石を探すくらいに途方もない話だ。
でも、宏明は諦めずに考えを巡らせる。
さっきの真菅の様子を思い出してみるが、がっかりした顔でそばをすすっていたことくらいしか出てこない。あとは彼女が薬味の皿を残念そうに見ていたくらいだ。
(力屋古橋の薬味はネギとクルミ。江戸時代ではどちらもたいして珍しくない。――クルミ? ひょっとしてクルミだれを食べたがっているのか?)
彼の頭に考えがふと浮かんだ。長野県東部地方や埼玉県秩父地方、福島県会津地方で使われているそば汁だ。
宏明も家族旅行で長野県へ行った時に食べたことがある。
(でも、クルミだれ自体は古くからあるものらしいけど、店で売られるようになったのは昭和時代だって聞いたことがあるぞ。それ以前だと、各家庭の味になりそうだ)
いくらなんでも勝算が低い賭けだ。真菅が育った家がたまたまクルミだれを使っていた確証なんてない。
(考えても分からないから、クルミだれで決め打ちしちゃおうかな。俺が長野でそばを食べた時は、クルミだれの他に焼き味噌と大根おろしが付いていたから、こちらも一緒に添えて……)
この時代でも同じという保証なんて全くない。上手くいってくれることを祈るだけだ。
(――いや、待てよ。このやり方なら、ひょっとしたら他の広い地域のフォローもできるかもしれない。この時代の事情を踏まえると)
宏明の考えがようやくまとまった。
「旦那、俺に薬味を支度させてください」
「何を言ってやがる。元々おめえの仕事だろうが」
「そうじゃなくて、いつもとは違う薬味を支度したいんです。真菅花魁の口に合うかもしれない薬味を思いつきました」
松三郎が驚いたように宏明を見た。
「どうせ店の味と違うそばを出すんだ。好きにしやがれ。ただし、出す前にオレが味見をするぞ」
「ありがとうございます」
宏明は急いで準備を始めた。




