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第28話 包丁下

「ようこそおいでくださいました」


 二十代後半の小太り気味の男が笑みを浮かべて挨拶をする。彼が胡蝶屋の御内所だ。


「八つ(およそ午後二時)って話だったが、思ったより早く着いちまった。すまねえ」


 松三郎が御内所に返す。


「いえいえ。全く構いませんよ。うちの子たちは首を長くして古橋さんを待っているのですから」


「そういうことなら、早速台所を借りるぜ」


「どうぞ、お好きなように使ってください」


「そうそう、今度うちの店で菓子を売り出すことにしたんだ。そこで胡蝶屋の姐さんたちに味見をしてもらいてえんだが」


「お安い御用と言いたいところなのですが……」


 御内所が困った顔になる。


呼出よびだし(遊女の最高位)の真菅ますげが食べるものしか、うちの子たちは口にしないんですよ。別にこちらが決めたわけじゃないんですがね。皆が真菅を慕っているということなのでしょう」


「ふうん、真菅の姐さんってのは、てぇした人望じゃねえか」


「ところが、この真菅は好き嫌いが多くて、だいたい決まったものしか食べないんですよ。新しい菓子を口にしてくれるかどうかは、ちょっと分かりかねます」


「なら仕方ねえ。なに、こちらとしては物のついでだったんだ。気にしねえでくれ」


 松三郎はあっさりと諦めた。


 後ろで控えている宏明も、こんな話を聞かされたら諦めざるを得ない。新作のお菓子を背負って持ってきているのだが。


「じゃあ、台所への案内を頼むぜ」


 御内所に導かれて、松三郎と宏明は台所に入った。


 力屋古橋と比較すると広くて作業しやすそうな台所だが、そばを作るのに特化はされていない。当たり前の話ではあるが。


「とっとと終わらせて店に戻るぞ。天狗、そば打ちの道具を出せ」


「今さら言うのも何なんですけど、ここでそばを打つんじゃなくて、店で打って運んできた方が良かったんじゃないでしょうか?」


 荷を下ろしながら、宏明が松三郎に問いかける。


「オレもそうしたかったんだが、胡蝶屋は打ち立てのそばをご所望だ。ここで打つしかねえ」


「う、打ち立てのそば?」


 さすがに仰天する。打ち立てのそばを使うことは、東京のそば屋のタブーなのだ。力屋古橋も普段はこれを守っているのだが、この時代では別に使っても構わないということなのだろうか。


「そんなに驚くな。さすがに包丁下(包丁で切ったばかりのそば)を使うなんてあり得ねえ。あくまで打ち立てと見せかけるだけだ。御内所にもきちんとそう伝えてある」


 打ってすぐのそばを鍋に入れると、お湯の中で浮きっぱなしになってしまうのだ。こうなると、水面から出てしまっている部分が茹であがらなくなる。つまり、生煮えのそばになってしまう。故に打ち立てのそばを茹でるのは禁忌なのである。


 季節によって変わるが、十五分から三十分程度置いたそばなら湯に沈んでくれるので、東京のそば屋は少し寝かせたものを使う。


 打ち立てだと湯に浮きっぱなし、時間を置きすぎると沈みっぱなし。その中間のそばは、湯の中をクルクルと泳ぐ。そば粉と水の馴染み具合、含まれる空気の量の変化で、そばの動きが変わるとのことだが、宏明の知識では原理は詳しく分からない。


「これからそばを打つが、天狗は木鉢をしっかりと押さえておけ。万が一木鉢が動くようなことがあったら、お歯黒溝はぐろどぶ(吉原を囲っている堀の通称)に叩き落とす」


 店だと木鉢が動かないよう台座に固定されている。しかし、ここではそんなものはないので、誰かが押さえておかなければならない。


「始めるぜ」


 松三郎が宣言をした。


 彼がそばを打つのを見るのは、宏明にとって初めての経験だ。しかも、目の前でじっくりと観察することができる。こんなチャンスはめったにない。一部始終を目に焼く付けようと、宏明は集中する。


 松三郎がそば粉の入った木鉢に、卵水を垂らす。そして、両手で素早くかき回し始めた。


 そば粉全体に水を与えて、練り上げる作業を「木鉢作業」もしくは「木鉢」と呼ぶ。木鉢作業の前半段階は、そば粉に加水して攪拌する「水回し」である。


(速い!)


 店では鹿兵衛の手の動きに惚れ惚れしていたが、松三郎のそれは更に上回っている。


 素早いだけではない。そば粉の一粒一粒にきちんと水を与えている。


「ここから力をかけていくぞ。しっかり押さえておけよ」


「はい!」


 加水が終わった後は、後段作業であるそば粉の練り上げとなる。これを「くくり」と呼ぶ。


 松三郎が両腕に体重を乗せて、そば粉を練り始める。


 宏明はその力に負けないよう全身の力を振り絞って堪えた。


「上出来だ。力を抜いて構わねえぞ」


 くくりに入ってから五分くらいの時間だろうか。そば粉は円盤形の塊となっていた。


 ここからは「のし」になる。のし棒を使ってそば粉の塊を薄くのばし、重ねていくのだ。


 そして、最後が「包丁」。のしたそばを包丁で切り、ここでようやくそば粉が麺状になって完成となる。


 あまりに鮮やかな手つきに、宏明は感動してしまう。どの作業も完璧なのだ。


「よし、もう一回だ」


「はい!」


 力屋古橋のやり方では一度に多くのそばを打たない。三十人前となると、二回に分けて打つ必要があるのだ。


 二回目の木鉢作業も、松三郎は先ほどと変わらず、素早くていねいに完了させた。


 宏明は全身の力を抜いて大きく息を吐いた。なんとか役目を果たせたので安堵する。さすがに腕がだるくなっているので、プラプラと振って血を巡らせることにした。


 宏明が手を振っている時だ。台所の出入り口から甲高い声が聞こえた。


「わあ、そば粉の匂いだあ」


 宏明が振り返ると、可愛らしい花簪をつけた女の子が台所の中に入ってくるところだった。年の頃は七歳か八歳くらいだろうか。


「胡蝶屋までようござんした」


 女の子が目を輝かせながら、トテトテと宏明たちに近づいてくる。


「天狗、相手になってやれ。オレは仕事を続ける」


 松三郎にこう言われてしまったので、宏明は女の子と同じ目の高さになるまで腰を落として話しかけた。


「そばが好きなのかな?」


「あい! 母様かかさまはおめでたいことがあったら、いつもそばを打ってくれんした。そばを食べると嬉しい気持ちになりんす」


「お母さんのそばには敵わないかもしれないけど、楽しみにしていてね」


「郭の中のそば屋は打ち立てじゃないから、美味しゅうありんせん。今日のそばは打ち立てだから、楽しみでござりんす」


「――打ち立てが好きなんだ?」


 宏明の顔が少し引きつった。打ち立てのそばを茹でたりはしないなんて、正直に伝えるわけにはいかない。


「あい、真菅姐さんも楽しみに待っておりんす」


「花魁さんも打ち立て派なんだ……」


 宏明が戸惑っていると、また出入り口から声が聞こえてくる。


「これ、おみつ。お邪魔するのはやめなんし」


 おみつと呼ばれた女の子はビクリと肩を震わせた。そして、出入り口に向かって頭を下げる。


「すみませぬ、蛍草ほたるぐさ姐さん」


 出入り口には振り袖を身にまとった、宏明と同年代の少女が立っていた。


「おそば屋さん、おみつがご迷惑をかけんした」


 蛍草がゆっくりと頭を下げる。


「迷惑だなんてとんでもない。おみつちゃんは別に何もしていませんよ」


「それは幸いでござりんした。――おみつ、真菅姐さんが探しておりんす。部屋に戻りなんし」


「あい!」


 小走りで、おみつが台所から出て行く。


 それを見送った蛍草も一礼してから離れていった。


「あの、旦那。どうしてあんなに若い女の子たちが妓楼にいるんでしょうか?」


「おみつって娘は禿かむろ。蛍草の方は振袖新造ふりそでしんぞう。どっちも遊女見習いだな」


 松三郎が生地を包丁で切りながら答える。


「ところで天狗、何だって連中は打ち立てのそばを求めるんだ? オレには全く考えが及ばねえ。生煮えのそばをありがたがるなんてどこの田舎の習わしでい?」


「俺も分かりませんが、客側からすると『挽き立て』『打ち立て』『茹で立て』のそばが美味しいって考えがあるようですね」


 挽き立て・打ち立て・茹で立てを合わせて「三立て」とし、これを標榜している店が宏明の時代に存在している。江戸時代でも似たような考えがあるのだろう。


 江戸ではないどこかの地域の言葉だと思うが、宏明の知識では正確な場所は不明だ。


「『挽き立て』は分かる。そばの実の具合にもよるが、臼で挽いたばかりのそば粉は繋がりやすいし、香りも残る。『茹で立て』も、うちみたいに水をひと切りだけして出している店もあるから分からんでもねえ。けど、『打ち立て』だけはサッパリ分からねえ。ずる玉なら包丁下でも茹であがるが、結局美味くならねえしな」


「『打ち立て』と言いながらも、少しは寝かせていると思うんですよね。あくまでなま(茹でる前のそば)にヒビが入る前に使えってことかと」


 宏明の狭い常識に照らし合わせると、こう答えるしかない。


「そういうことなら納得だ。どれ、打ち立てが食べたいだなんて花魁様のわがままだろうが、付き合ってやろうじゃねえか」


「花魁の?」


「昼見世を休みにしたうえに大金でオレを呼んだんだ。妓楼としてはとんでもねえ大損よ。御内所がそんなことを認めたのは、稼ぎ頭の真菅のためくらいしか思い当たらねえ」


「なるほど。好き嫌いの多い花魁さんがわがままを言っているってことですか」


 宏明の中でやっと話が繋がってきた。花魁の真菅のわがままだとすると、この奇妙な仕事の理由が理解できる。


 打ち立てのそばが食べたいと真菅が言う。しかし、そんなものを出すそば屋は江戸に存在しない。仕方がないので、打ち立てと見せかけたそばを作って欲しいと、胡蝶屋の御内所は親交のある松三郎に依頼する。


 そんな経緯だったのだろう。


「考えていても詮がねえ話か。オレたちはやるべきことをやるべえ。そろそろ鍋を呼ぶぞ。天狗、火を起こせ」


「はい! ――って、あれ? 旦那、その太さは?」


 作業を見ていた宏明が声を出す。松三郎が切っているそばは、店で作っているものよりも少し太いのだ。


 太いといっても、江戸のそばの標準ではある。力屋古橋の普段からすると太打ちということだ。


「ちょっくら思うことがあってな」


「店の味と変わっちゃいますけど大丈夫なんでしょうか?」


「仔細は後から話す。おめえは早く火を起こせ」


 よく分からないまま、宏明はそばを茹でる準備を始めるのであった。

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