第2話 江戸のそば屋
歩き始めて三十分程度、目的地に到着した。
「はい、ここがわたしの家だよ」
大通りに面した、こぢんまりとしたお店。そこがお藤の実家だった。
「ひょっとして、お藤さんの家っておそば屋さん?」
「あら、まだ看板が出ていないのに、よく分かったね」
店の中から、そば粉と鰹出汁の匂いが漂ってきているのだ。分からないはずがない。特にそば屋で生まれ育った人間ならば。
「さあ、入っておくれよ」
お藤が店に入っていったので、宏明も後ろから続く。
「ただいま。問屋さんから海苔を分けてもらってきたよ」
「お帰り、お藤ちゃん。これで今日も花巻(かけそばの上に焼き海苔を乗せたお品)を出せるな。――おや、後ろの人は誰だ?」
店の中にいた男が、宏明を不思議そうな目で見た。年の頃は三十歳前後か。背丈は一五五センチ程度でこの時代の男性の平均くらい。ただし、がっしりした体つきで筋肉隆々なので、そんなに小さく感じさせない。
「この人なんだけど、酔っ払って池に落っこちたみたいなんだよ。鹿兵衛兄さん、店の着物を貸してあげて」
「何だあ? お藤ちゃんは猫だけじゃなくて、とうとう人まで拾ってくるようになったんか?」
鹿兵衛が頭を掻きながら店の奥に行く。
「今の人ってお藤さんのお兄さん?」
「違うよ。この店の職人。わたしが小さい頃からずっと働いてくれているから、その時の呼び方が残っているだけ」
「ああ、なるほどね」
宏明は納得した。お藤と鹿兵衛は全く似ていないのだ。お藤の方は優しげな顔つきで、鹿兵衛の方はかなりの強面である。
「それじゃあ、わたしは荷を置いてくるから、ここで待っていておくれ」
そう言って、お藤も店の奥へ行ってしまった。
残された宏明は店の中を観察してみる。
それほど広くはない。入り口付近に木製の床几が置いてあって、奥には座敷がある。二十一世紀のそば屋と一番大きく違っているのは、ちゃぶ台やテーブルが一切置かれていないことか。
(看板が置いてあるな。なんて読むんだろう?)
入り口の近くにある看板へ目を向けてみる。草書体で書かれているので、非常に読みにくい。
(手打蕎麦で良いんだよな?)
最初の四文字はなんとなく読めた。機械製麺が存在しない江戸時代にも「手打ち」という言葉があったことくらいは、知識の中にあるので別に驚くことではない。
(力? 次の文字は全く分からない。四つ目は橋? ――無理だ。諦めよう)
宏明は白旗をあげた。おそらくは、この店の屋号が書かれているのだろうが。
「ともあれ、今後のことを考えよう」
少し気持ちが落ち着いてきたので、現状をまとめてみる。
(俺は二百年前の江戸に飛ばされた。原因は分からない)
唯一思い当たるのは、厨房内で聞こえた謎の声だが、正体が全く分からないのでどうしようもない。
(帰る方法は全く思いつかない)
もう一回不忍池に入るという案もあるが、失敗したときに備えてきちんと着替えを準備した上でやる必要があるだろう。
他の案は全く思い至らない。
(俺の財産は、この作務衣と草履だけ)
未来から持ち込めたのは身につけていた衣服だけである。江戸の町で作務衣を着ていると周囲から浮いてしまうので、できれば着たくはない。売れば多少のお金にはなるかもしれないから、これで当面の金策をするのも一つの案だ。
ポケットの中には、びしょ濡れになった絵画展のチケットと千円札が入っている。これも財産と言えば財産なのだが、この時代では明らかなオーパーツだ。歴史が大きく変わってしまいかねないから、衣服と違ってこちらは売る気になれない。
歴史が変わってしまったら、宏明の帰る場所がなくなってしまうのだ。
(第一目標は生き延びること。第二目標は未来へ帰ること。そのためにはまず衣食住の確保だな。となると、働いてお金を得るしかないか)
しかし、江戸時代で役に立つような知識や技術なんて思い当たらない。そもそも、働いた経験が実家のそば屋での手伝いのみである。
「帰れるかどうか分からないけど、不忍池に何回も飛び込んで、タイムスリップがまた発生するのを祈るしかないかも……」
そう考えるしかないくらいに、現状は絶望的だ。
「なんだあ? また池に入るつもりかやあ?」
ここで、鹿兵衛が戻ってきた。手には着物を持っている。
「何が楽しいのか分からんがやめとけ。濡れた着物で歩くのは、えらかっただらあ?」
「偉かった?」
「あー、江戸だと何て言うんだっけか? どうにも田舎言葉が抜けなくてなあ」
鹿兵衛が頭を掻いた。
「江戸言葉なら『疲れただろう』だな。これなら分かるだらあ?」
「なるほど、分かりました。俺も田舎の出なのであまり気にしないでください」
この時代だと、江戸の外は田舎呼ばわりされていたはずである。二十一世紀でも東京中心部の人たちから八王子は田舎扱いされているので、たいして気にならない。
「ほら、着替えだ。濡れた着物は早く脱いだ方が良いぞ」
着物を宏明に渡してから、鹿兵衛はまた奥へ行ってしまった。
宏明は言われた通り、着替えることにした。濡れた作務衣を床几の上に放り投げる。
「フギャー!」
床几の上で昼寝をしていたシロが抗議の鳴き声を上げた。
「悪い、驚かしちゃったな。――半纏ってどうやって着るんだ? こうかな?」
あれこれ試しながら、どうにかして見栄え良く着ることに成功した。
「着替え終わったみたいだね」
お藤が奥から膳を持ってきた。膳の上には蒸籠と徳利、猪口、薬味が入った器が乗っている。
「そばでも食べて待っていてよ。宏明さんの着物は裏で乾かしておくからさ」
「売り物なのにいいのかな?」
「お代は要らないよ。鹿兵衛兄さんが気を利かせて支度してくれたから、食べていって。本当は温かいそばを出してあげたいんだけど、汁の支度がまだできていなくてね。もりそばで我慢しておくれ」
「何から何までありがとう」
宏明はお言葉に甘えることにした。上がりかまちから座敷に上がり腰を下ろす。
作務衣を渡す前に、ポケットの中の紙幣とチケットはこっそり回収しておく。この時代の人には見られたくない。
「それじゃあ、ごゆっくりどうぞ」
彼女が濡れた作務衣を持って、再び店の奥へ消えていった。
「では、いただきます」
まず、徳利から汁を猪口に注いで、少しだけ口に入れてみる。
(……上手く出来た汁だ。当たりはキツめかな。となると、そばに付けるのはこのくらい)
箸でそばをすくって、三分の一ほどを汁に付けてから口に運んだ。
冷たさと汁の旨味が宏明の口内に広がる。続いて、そばの香りが口の中から鼻に抜けていく。
「美味い……」
宏明は思わず呟いてしまった。正直、江戸時代のそばがここまでハイレベルだとは思っていなかった。
(そういえば、江戸そばが完成したのはちょうどこの時期なんだっけ。現代人でも違和感なく食べられるわけだ)
麺状のそばは遅くとも織田信長の時代には存在していたわけだが、長らくは現代日本のものとは大きくかけ離れていた。
細長いそばを茹でて冷水で締める。鰹出汁と醤油・砂糖・味醂を加えた汁で食する。江戸のそばが現代のものとほとんど変わらない姿になったのは江戸時代後期、文化・文政時代(一八〇四―一八三〇年)だと、宏明の知識に存在している。
彼は再びそばを箸で持ち上げてみた。
(太さも長さも未来とほぼ一緒。これぞ江戸流のそば)
機械など存在しない時代だから、包丁で切った麺のはずである。それなのにそばの太さも長さも均一だ。これだけで職人の腕前の程が良く分かる。
味や香りだけではなく、食感にも集中して食べてみる。まず、そばの表面はきちんと角が立っているのを感じる。そして、前歯と下唇で軽く挟み込むだけで、そばがスッと切れてしまう。
(茹で方と締め方も百点満点)
宏明は三度そばをすくった。舌を使って喉の奥にたぐり込むと、全く引っかからずにツルっと流れていく。そばというものは、味だけを楽しむものではない。香りや、食感、喉ごしなども大切だ。
この店のそばには何も文句を付けられない。二十一世紀でも、この水準のそばを提供するのは、名店と呼ばれるごく一部の店だけだろう。
薬味にも箸をのばしてみる。この店ではネギとクルミのようだ。クルミの方は未来の日本で薬味に使われることは稀だから、宏明としては貴重な体験となる。
「ちゃんと食べられるみたいだな。体の具合が良さそうで何より」
宏明が感動しながらそばを食べていると、鹿兵衛が膳を持ってやってきた。
「ほれ、もう一枚持ってきたわ」
「ありがとうございます。ところで、そこの看板に『手打蕎麦』って書いてあるみたいですけど、これって生粉打ちなんですよね?」
「そりゃそうよ。看板に手打ちって書いておいて、割り粉を入れていたら騙りになるじゃん」
生粉打ちというのは小麦粉を入れないで作ったそばのことで、割り粉というのは小麦粉のことだ。
江戸時代における「手打ちそば」という言葉は、生粉打ちのそばを意味する。
(小麦粉を混ぜないで、ここまで細長くツルツルしたそばを打つなんて、並の技量じゃないぞ)
もはや感心するしかない。
「このそばって鹿兵衛さんが作ったんですか?」
「おうよ。汁は旦那に味見してもらっているけどな」
「ああ、なるほど。汁取りだけは店主の責任ですもんね」
店の味を決めるのは、そばよりも汁の方が重要度が高い。
そして、この店の汁は、非常に濃いものながら完璧なバランスで仕上がっていて素晴らしい出来だ。
「この店の旦那さんは名人さんなんでしょうか?」
「力屋古橋の松三郎と言えば、名が知られたそば職人だで」
看板の文字がやっと分かった。力屋古橋というのが屋号のようだ。
「やっぱり名人さんでしたか。鹿兵衛さんの腕も素晴らしいです」
「嬉しいことを言ってくれるじゃん。だけど、江戸では他にも美味い食い物がわんさかあるじゃんねえ。ワシも江戸に初めて来た時はたまげたわ」
鹿兵衛がニッと白い歯を見せた。
二人で話していると、お藤が戻ってきた。
「宏明さんの着物は洗って干しといたよ」
「わざわざ洗ってくれるなんて、本当にありがとう」
宏明は深々と頭を下げた。
「お藤ちゃん、こいつが店のそばを褒めてくれているぞ」
「お口にあったようで良かったよ」
我がことのように、お藤が喜ぶ。
「それじゃあ、ワシはタバコを吸いに外へ出るから、あとは任せるわ」
懐に手を入れながら、鹿兵衛が外へ出て行った。
すると、ほぼ入れ替わりで羽織姿の若い男が店に入ってきた。
「あら、若旦那じゃない。いらっしゃい。でもまだ看板は出していないよ」
お藤が男にあいさつをする。
「いえいえ、ちょっと通りかかったから寄っただけなんですよ」
若旦那と呼ばれた男が、持っていた扇子で額をポンと叩いた。年の頃は宏明よりも二つか三つくらい上だろうか。色白でなかなかに端正な顔立ちをしている。
「古橋さんの職人が足りていないって小耳に挟んだもので、心配になって様子をうかがいに来たんですけどね」
若旦那が宏明をチラリと一瞥した。
「どうやら、新しい人が入ったみたいで。アタシの取り越し苦労だったようですね。それではこれで。オホホ」
言いたいことだけ言って、若旦那は店から出て行ってしまった。
「今のはどちら様?」
置いてきぼりだった宏明がお藤に尋ねる。
「近所のそば屋の若旦那。うちの心配をして来てくれたみたいだけど、宏明さんをうちの職人と勘違いしちゃったみたいだね。店の半纏を着ているから」
改めて半纏を見てみると、『力』らしき文字が描かれている。これが力屋古橋の印なのかもしれない。
「なるほど。これを見て、俺がこの店の従業員だと――。あれ、また誰かが来たようだよ?」