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第23話 長屋でのそば振る舞い

「寒い寒い寒い! 雪はやんだけど、風がすごく強く吹き始めているし!」


 自宅にたどり着いた宏明は、腰板障子を勢いよく開けて長屋の中にそそくさと入った。


「狭い家ですけど、鉄爺さんどうぞ」


「お邪魔する」


 鉄爺を招き入れてから、宏明は提灯の火を利用して行灯あんどんや七輪に火を点けていく。


「――おい、そこのお猫様。特等席で俺が火を点けるのを待ち構えてるってか?」


 宏明がシロに苦言を呈する。


 シロがいるのは長火鉢の上だ。長火鉢には炭をくべるところがあり、隣に銅壺が置いてあって、その横に板が敷かれている。シロが陣取っているのは板の上である。


 宏明の文句に、鉄爺が座り込みながら首をかしげる。


「猫が猫板の上に陣取って何がおかしいんでい?」


「長火鉢のこの板も猫板って名前なんですか?」


「オレは長火鉢の猫板しか知らねえ。他にもあるのか?」


「そば屋の台所にも猫板があるんですよね」


「そいつは知らなかった。猫ってのは、とにかく火の近くが好きってことなんだな」


「そうなんでしょうね。――ところで、鉄爺さんはタバコ盆とか酒とか要りますか? 必要なら用意します。タバコ盆は応急的なものだし、酒は料理用の安酒ですが」


「オレはどっちもやらねえから、気を遣わなくて構わねえぞ。そばの支度を頼む」


「分かりました」


 鉄爺の前に白湯を置いてから、そばの準備に取りかかることにした。


 そばを茹でるための道具も全部損料屋から借りている。おかげで自宅でも問題なくそばを調理可能だ。


 鉄爺の方を見てみると、矢立やたて(筆と墨の携帯道具)と紙を取り出して、何やら絵を描いているようだ。そばができあがるまでの暇つぶしなのだろう。


 それを横目で見ながら、宏明は店からもらってきた鶏肉・ネギ・貝柱を焼き始める。これが今夜のそばの具材だ。


 そうこうしているうちに湯が沸騰したので、そばを湯に入れて、箸でほぐし、すぐに蓋をする。そして、少し待ってから蓋を開けた。


(まだ大丈夫だったな。そばが湯の中で回転してくれている)


 打ってから時間が経ちすぎたそばは、湯の中に沈みっぱなしになってしまうのだ。そうなる前に調理を始められたようなので、宏明は安堵した。沈みっぱなしだと、そば同士がくっついて塊になってしまうのだから。


 茹でている時間を利用して、水で溶いた葛粉を具材にかけてとろみを付ける。


 そばの茹であがりは早いので、具材を火にかけたままこちらに戻る。一気にそばを鍋からあげて冷水で洗い始めた。


 そば洗いの目的は「そばを急速冷却して締める」と「そばからぬめりを除去する」の二点に集約される。道具こそ変われど、江戸時代でも二十一世紀でも目的は全く同じだ。


 その工程を簡単にまとめると、「きれいな水をかける」「水が入った桶の中で洗う」「もう一回きれいな水をかける」「きれいな水にひたす」の四つだ。


 工程を手早く済ませた宏明は、頃合いを見て湯通しをする。次に湯を切ってからそばを丼に入れる。


 続いて温めた甘汁をそばの上からかけて、さらにその上からとろみの付いた具材を乗せて完成だ。


「お待たせしました、鉄爺さん。特製あんかけそばです」


「この寒い中であんかけとは気が利くじゃねえか。――こりゃあ、ずいぶんと豪勢なあんかけそばだな」


 鉄爺が筆と紙を置いて、あんかけそばを受け取る。


「店の残り物を乗せまくりましたからね。こんな贅沢なあんかけそば、うちの店では頼んでも出てきませんよ」


「美味えじゃねえか! 生粉打ちなのにツルツルしているし、どういうことでい?」


「上手な人が良いそば粉を使って打てば、小麦粉を入れないでもこうなります」


「こいつは考えを改めなきゃならねえな。出前はやっているのか?」


「うちの店は出前していません。のびやすいそばですしね」


「なら仕方ねえ。店まで足を運ぶしかねえな」


「食べに来てくれるんですか? ありがとうございます」


 フウフウと息を吹きかけて冷ましながら、鉄爺と宏明の二人はそばをすすっていく。


 温かいそばを食べて、身体の中からほてってきた。これで今夜は寒い思いをせずに眠れそうである。そばを洗うときに冷え切ってしまった手も温かさを取り戻している。


「――おいシロ。お前も食いたかったんじゃないのか?」


 小皿の上にシロの分のそばを置いたのだが、彼女は全く見向きもしない。


「俺みたいな下手くそが茹でたそばなんか食べたくないってか? 一応、鹿兵衛さんが打ったそばだぞ。お前、猫のくせに舌が肥えすぎだろ」


「なんでい、このそばが下手なのか? オレにはそうは思えねえが」


 鉄爺が不思議そうな顔をする。


「店では釜の前に立たせてもらえていませんからね。実力のほどはお察しください」


「ふうむ、そばの職人ってのも奥が深ぇんだな」


 感心したのか、老人がうんうんと頷く。


「まだそばが残っているので、おかわりはどうでしょうか? 次は具材なしのあんかけそばになってしまいますが」


「ありがたく頂こうか。――それにしても、一人で食うにしてはずいぶんと多く持って帰ってきているようだな」


「余ったら油で揚げて、明日以降のお菓子にするつもりでした」


「それもなかなか美味そうじゃねえか」


「今日のところはそばを使い切っちゃうし、うちの店では販売すらしていないから、他のところで探してください」


 言いながら、宏明はおかわりの準備のために立ち上がる。


 その時、鉄爺の傍らに置いてあった絵が目に入った。


「……鉄爺さん、ひょっとして絵師なんですか?」


 紙には猫板の上でくつろいでいるシロが描かれていた。短時間で描かれたものだけあって荒い線ではあるが、白猫が生き生きと描かれていて今にも絵の中から飛び出してきそうな迫力がある。


 素人の宏明でもはっきり分かるくらいに上手い。


「そんな大層なもんじゃねえ。オレは好きで絵を描いているだけのジジイだ」


「趣味でこんなにすごい絵を描けるんですか? 絵の世界やばい……」


「さっき、おめえさんはそばの茹で方が下手だと言っていただろ? オレからすると上等な茹で具合だってのに。あれと同じよ。絵も上を見たらキリがねえ」


「そういうものですか。分かった気がします」


「せっかくだから絵の天辺てっぺんを目指してやろうと思っているんだが、いくら描いても上手くならねえ。困ったもんだぜ」


「こんなに上手くても、もっと上があるだなんて、絵って本当にすごい世界です」


 絵の話を一旦打ち切って、宏明は再び台所へ戻った。鍋の湯を沸かしなおして、葛粉を水で溶く。


 台所で作業していると、部屋の方から鉄爺の声が聞こえてくる。


「どうしたニャンコ。腹が減ったなら、そばの皿はこっちだぞ。――おいおい、どこへ行くんだ?」


 どうやらシロが部屋の中をうろつき始めたようだ。


「引き出しを引っ掻いてどうしたんでい? 鰹節でもしまってあるのか?」


(ん? 引き出し? 俺の部屋にそんなのあったっけ?)


 調理器具の他に置いてある物は、行灯と長火鉢と屏風、あとは布団くらいだったはずだ。


(そういえば長火鉢に引き出しが付いていたな。……まずい!)


 引き出しの存在を思い出し、慌てて振り返ったが手遅れだった。


「――信じられねえ。なんでこんなところに転がっているんでい?」


 長火鉢の引き出しを開けた鉄爺が、中を見て絶句している。


 引き出しの中には、絵画展のチケットと千円札がしまい込まれていたのだ。


「いや、それは、その……」


 弁明しようとするが、言葉が上手く出てくれない。


「まあ、落ち着け。オレは別にお前さんを奉行所へ突き出すつもりはねえよ」


 引き出しから二枚の紙を取り出しながら鉄爺が言う。


「御禁制の南蛮絵が江戸に入ってきているのは知っている。オレもこの目で見たことがある。しかし、こんな裏店うらだなにあるとは思いも寄らなかったぜ」


 鉄爺の目はチケットに印刷されている風景画に釘付けされている。


「これには深いわけがありまして、できれば内密にお願いします」


 対する宏明は全身に冷や汗をかいている。歴史への影響くらいしか気にしていなかったが、まさか幕府に禁じられている代物だとは想像できていなかった。


「よく見たら、切支丹絵ではなさそうだな。これならお上も騒がねえかもしれねえ。まあ、どちらにせよ誰にも言うつもりはねえよ」


「御禁制じゃないんですか。少し安心しました」


「しかし、こんな小さい紙に事細かく絵を描くなんて、南蛮の絵師はどれだけすごい技を持っているんでい?」


 縮小印刷技術だなんて江戸時代の人間に言うわけにはいかないので、宏明は黙っておく。


 鉄爺が今度は千円札の方に注視する。


「こっちの絵もすげえな。細かい線が無数に書き込まれてやがる。描いた絵師も大概だが、彫り師もとんでもねえ仕事をしているじゃねえか。『野口英世』って名の絵師なのか? まさか本朝にこんな南蛮絵を描ける絵師がいるなんて、信じられねえ。心底頭にくるぜ」


 肖像画にひとしきり感心した後、千円札を裏返す。


「なんだこの綺麗な富士山は? そうか、南蛮絵の技を使うと、富士山はこういう風に描かれるのか。これを描いたのも野口の野郎か? ぶん殴ってやりたいぜ、こん畜生め。てか、どこに行けばこんなに富士山が美しく映る池があるんでい?」


 そして、再び絵画展のチケットに目を戻した。


「南蛮絵のことを詳しく教えてくれねえか?」


 質問を受けた宏明は困ってしまう。絵の技法のことも美術史のこともさっぱり分からない。絵を見ると、峡谷と崩れている橋が描かれているのは分かる。しかし、残念ながら宏明には「上手だなあ」としか感想が出てこない。


「『フランス風景画の時代による変遷』って書いてあるから、フランスの絵としか……」


「仏蘭西って名の国の絵は何枚か見たことあるが、こいつもなかなかの上物じゃねえか。この草木の描き方はどういう技を使ってるんだ?」


「すみません。絵のことは全く知らないので説明は無理です」


「知らねえのにこんな絵を持っているなんて――いや、深く尋ねるのは止しておく。わけありなんだろうしな」


「お気遣い感謝します」


 チケットと千円札は処分してしまおう。宏明は心の中でかたく決意した。


「話しているうちに鍋の湯が沸いたようだから、あんかけそばの支度を頼むぜ」


 鉄爺に指摘されて、宏明は急いで台所に戻った。


「こんな珍しい絵を見せてもらったんだ。さすがに礼をさせてもらう。どのくらい欲しい?」


 その背中に鉄爺が声をかける。


「さっき鉄爺さんが描いた猫の絵をください。それで十分です」


「お前さん、本当に欲がないな。オレの立つ瀬がなくなっちまうじゃねえか」


「お上に訴えないってことが既に大きなお礼になっていますし」


 言いながら、宏明はそばを茹でる。


「他にも、江戸に南蛮絵が入り込んでいるってことを教えてもらえて……。あ、そうだ」


 宏明の頭に新メニューのアイディアが浮かんできた。鉄爺と交わした会話の賜物だ。


「どうした?」


「いえ、こっちの話です。鉄爺さんとシロのおかげで、悩みが一つ解決しました」


「なんだかよく分からねえ話だな」


「それはさておき、あんかけそばのおかわりができました。さあ、温かいうちに食べてください」


 宏明が丼を持って部屋に入る。


「おいシロ。今度は上手く茹でられたはずだぞ。さあ、どうだ?」


 あんかけそばとは別に、猫用のそばも用意してみた。


 呼びかけられたシロは、素直に宏明が持ってきたそばに鼻を近づける。しかし、すぐにそっぽ向いてしまった。


「――お前、贅沢すぎじゃないか?」


 この様子を見た鉄爺が愉快そうに笑う。


「こりゃ手厳しいな。茹で具合の良し悪しに、ニャンコが物を申すのか。オレは気付かねえってのに」


「雪の町に放り出してやろうかって思っちゃいますが」


「お前さんの腕が上がるのを見守ってくれているんだろう。粗末に扱っちゃいけねえ」


「いつの日か俺のそばを食べさせられるよう、精進していきます」


 そばをすすりながら、宏明は決意するのであった。

お品書きの変更にともない、一部文章を訂正しました。

ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

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[一言] 偽装防止のすかしの存在に気がついたらどうなっていたことか
[一言] ああ、北斎か
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