第22話 つなぎの話
感想で「さらしなそば(一番粉で打ったそば)はのびにくい」と感想をいただいたので、大きく加筆修正を行いました。
ご迷惑をかけて申し訳ありません。
数段ほど階段をのぼると、上から怒声が聞こえてきた。
「てやんでえ、べらぼうめ! ろくなそばを食ったこともない浅黄裏が分かったような口をきくんじゃねえ!」
この罵り声を聞いて、宏明の足が一瞬止まってしまう。
(浅黄裏って田舎侍に対する蔑称だったよな。江戸っ子と武士が喧嘩しているのかよ……)
とんでもないやっかいごとに首を突っ込んでしまったと後悔するが、勇気を振り絞って階上へ足を進める。
「もはや堪忍ならぬ! これまでの暴言の数々、あの世で悔いるがよい!」
宏明の予想は正解だった。二階の様子が見えるようになると、激高して腰の刀を抜こうとしている若い武士が目に入ってきた。
幸いなことに、付き添いと思しきもう一人の武士が仲間の抜刀を押しとどめているようで、まだ悲劇には至っていない。
「ヘッ、田舎侍は年寄り相手に大小(腰に差している二本の刀)を抜けないのかい。とんでもねえ腰抜け野郎だぜ。味噌汁で顔を洗って出直して来やがれってんだ」
怖じ気づくことなく悪態をついているのは、粗末な服を着た痩身の老爺だ。年齢は六十歳くらいだろうか。
武士が再び言い返す前に、宏明は喧嘩している二人の間に割って入って正座をした。
「お二人とも落ち着いてください。そば屋が通りがかりましたよ。どうか話を聞かせてください。風呂屋の二階は休憩所なのに、怒っていては何も休まりませんよ」
「――そば屋だと?」
怒りの形相だった武士の顔が少し緩んだ。しかし、右手は柄に置いたままである。
老人の方は、うさんくさそうに宏明の顔を見ている。
(来店時に刀を預けるルールにして欲しいぞ)
斬り捨て御免という言葉があるが、武士が町人を斬ることはめったにない。面倒なことになるからだ。と、一応は教わっているものの、感情にまかせて振り回されたらたまったものではない。
「お二方、まずは座ってください。そばのことなら何でもお答えしますから」
とりあえず喧嘩中の二人は双方とも腰を下ろしてくれた。
「ならばそば屋の若人に尋ねよう。江戸ではそばにうどん粉を混ぜておるな。これはいかなる了見であるか?」
武士の方がそばの話を切り出してきた。
宏明が答える前に、老爺が嘲る。
「田舎者にゃあ分かんねえかもしれねえが、江戸ではうどん粉を使うのが当たり前えなんだよ」
「そんなものはそばではござらぬ!」
「そば粉だけで打ったそばなんか舌触りが悪くて食えたもんじゃねえ。田舎者は田舎者らしく、黒いそばでも噛みしめてやがれってんだ」
再び口論が始まってしまった。
ただ、このやり取りのおかげで、喧嘩の原因が見えてきた。
(江戸時代でもこのくだらない論争あったのかよ……)
そば粉百パーセントのそばが美味いのか、小麦粉を入れたそばが美味いのか。現代日本でも似たような議論を耳にすることがある。
美味い不味いの基準は個人個人の好みなのだから、論争すること自体全く無意味なものだ。
バカバカしくなってきたが、ここは喧嘩の仲裁に努めなければならない。
「今から長い説明をするので、お二人とも落ち着いてくださいね。まず大前提として、そばには『つなぎ』を使うことが多いです。その理由は大きく三つ」
二人が素直に話を聞いているのを確認してから、宏明は話を続ける。
「そば粉に水を加えてそばを作るわけなんですが、これを『つなげる』作業と呼びます。粉の一粒一粒を水の力でつなげていくからです。でも、そば粉はせっかくつながっても、時間をおいたら切れやすくなる性質なんです。だから何かしらを混ぜて麺が短くなるのを防ぎます。つながっている状態を助けてくれる物を『つなぎ』と呼びます」
手振りを交えながら宏明は説明する。
武士と老人の表情を見るに、きちんと理解はしてくれているようだ。
「江戸では小麦粉が『つなぎ』として広く使われています。そばの味を損なわないうえに、手に入りやすいんだから、そりゃ選ばれますよね。これが一つ目のわけになります」
「ふん、短えそばをありがたがる田舎者には分かるめえ」
老人が鼻で笑うが、宏明は無視をして説明を続ける。
「つなぎを使うのは江戸だけじゃありません。各地で小麦以外の様々なつなぎが使われています。山芋・ヨモギ・山ゴボウの葉・豆腐、卵。他にもまだまだつなぎの種類はたくさんあります。全国どこの人もそばが切れないように苦労しているみたいですね」
「ふうむ、拙者の故郷のそばにも何かつなぎが使われているのかもしれぬのか」
納得したかのように、侍がうなずいた。
「つなぎを使わなくても長いそばを打つことはできますよ。家族や友人たちと食べるならそれでも構いません。ただ、店売りには向きません。店ではいつお客さんが入ってくるか分からないから、作り置きが必要になります。なので、つなぎを使います」
「ほう、拙者の故郷では作る数が事前に分かっていたから、江戸の店とは話が違うということか」
「二番目の理由としては、悪いそば粉は水だけだとなかなかつながりません。だからつなぎを入れます。『そばが切れないようにするつなぎ』ではなく、『そばをつなげるためのつなぎ』ですね」
「なんと、江戸では悪いそば粉を使っていると申すか!」
「そんな粉を使いたくないのがそば屋の本音なんですが、そうはいきません。秋に獲れたばかりのそばの実を挽くと良質の粉になります。だけど、夏になる頃には実が古くなってしまって、どうしても粉が悪くなっちゃうんです」
現代日本なら冷温貯蔵が可能になっているから、この問題はほぼ解決済みだ。一年中いつでも良い粉が手に入る。さらにこだわる店は、季節が真逆の南半球で育てられたそばを仕入れて、夏季でも新そばを出せるようにしているくらいだ。
「最後の理由になりますが、そばという食べ物は切れやすいだけじゃなくて、とてものびやすいんです。一番粉だけで打った御膳そばならばそうではないのですが、二番粉(一番粉にならなかった胚乳部分や子葉部の粉)・三番粉(甘皮部分の粉)を混ぜたそばはすぐにのびてしまいます」
「一番粉やら二番粉やら、拙者が知らない言葉であるが?」
「江戸では真っ白なそばを出しているお店があります。これが一番粉で打った御膳そばです。二番粉や三番粉を混ぜると、色が付いた一般的なそばになっていきます」
これらの粉をどのような割合で使うかは、そば屋それぞれの戦略に起因する。どのような形態の店を出すのか、どのような味にするのかで、ブレンド比率が変わってくるのである。
「つなぎの話に戻ります。のびやすいそばでも、つなぎを入れることで多少のびにくくなります。特に小麦粉はのびるまでの時間を稼いでくれるということで、江戸では小麦粉を入れる店が多いんです。江戸の町では、かけそばや出前が盛んなわけですし」
「かけそばと出前のためでもあるのか」
「お武家様は町人と一緒に何かを食べたりしないようなので、どうしても出前が多くなりますよね。小麦粉が入っているそばを多く口にされているのでしょう」
「うどん粉を使わぬそばを江戸で食する手立てはないのか?」
「生粉打ちのそば屋で、仕切られたお座敷がある店を探してください。あとは、生粉打ちの御膳そばを出しているお店を探して、出前を頼むという手があります。一番粉はつながりにくい粉なので小麦粉を混ぜることが多いのですが、この広い江戸ならどこかで生粉打ちも売っているかもしれません」
「座敷がある店であっても拙者たちが堂々と入るのは、少々はばかられる。となると生粉打ちの御膳そばを探すしかあるまい。そば屋の若人よ、そなたのおかげで合点がいった。礼を言う」
どうやらお侍様は頭が冷えてくれたようだ。仲間と二人で階段を下りていった。
喧嘩をおさめることに成功したので、宏明は湯屋の旦那に報告へ行こうと腰を浮かしかけた。
だがしかし、老爺に呼び止められてしまった。こちらの方はまだしかめっ面のままである。
「江戸のそば屋がつなぎを使うわけは分かった。だが、『一切混ぜ物を使っていない』って謳うそば屋もあるぜ。つなぎを使わずにどうやって長いそばを打っているんでい?」
「その件に関してもお答えします」
宏明は再び腰を下ろして、老人と向かい合った。
「そばがきをつなぎにして、そばをこしらえているんだと思います。これならそば粉だけで作っているわけですしね」
「そんな技があるのか」
「古くからある技法です。ただ、そば粉の性質を考えると、長く作り置けなさそうなので、店の人は相当に頑張っているでしょうね」
「なるほどな」
老人が腕を組んでうんうんと頷く。
「じゃあもう一つ尋ねるぜ。田舎のそばが短いのは職人の腕が悪いってことか? つなぎを使っているはずのに、ぶつ切れなそばだらけだぞ」
「江戸の外では、そばの実を粉にする際、殻ごと全部粉にするんですよ。殻が混じっているせいでそばが切れやすくなってしまうので、いわゆる田舎そばは短くなってしまうんです。江戸ではできる限り殻を取り除いた粉を使っているから長いそばを作れます。これが江戸とその他の地域の違いになります」
「田舎でも殻を取り除けば良いじゃねえか」
「そばの実の脱穀は米や麦と比較すると難しいんですよ。江戸近辺だと、中野(東京都中野区)の抜き屋さんが主にやってくれますが、地方だとそこまで手間をかけられないみたいですね」
「ほうほう、そういうことなのか。――それにしてもお前さん、やけに口が達者だな。職人ってのは言葉足らずな連中揃いだと思っていたんだが」
「俺が詳しいのはそばのことだけですよ」
「餅は餅屋、そばはそば屋ってわけか」
そう言って老人は壁にもたれかかった。
「田舎侍が江戸のそばを気に入らねえわけが分かったんだ。オレからも礼を言うぜ」
「俺が思うに、他所の土地の人が江戸のそばを気に食わない理由は、つなぎの問題ではないと思いますけどね」
「どういうことでい?」
「『そばは美味いが汁が合わない』って言葉があります。他所の土地のそばを食べた時に思う感想らしいです。結局のところ、そばじゃなくて、江戸の汁の味で引っかかっているのではないでしょうか? 正直な話、そばの味に差が出るのは、汁が主な原因なわけですし」
宏明自身の経験でも、地方のそばを食べた時に、麺の味ではなく汁の味に驚いたことがある。
江戸時代では、関東の人が好む味と地方の人が好む味が現代以上に違っていると考えられる。関東風のめんつゆが全国各地のスーパーマーケットやコンビニエンスストアに並んでいる現代日本でも、地方出身の人間が東京のそばに文句を言う光景が見られるのだから、今の時代ではなおさらだろう。
結局のところ、慣れ親しんだ味こそがその人にとって最高の味ということだ。
「麺の味はある程度許容できるけど、汁の味は一切妥協できない。まあ、小童の戯言として聞き流してください」
「いや、分かるぜ。オレは上方へ行ったことがあるんだが、そばやうどんの汁が不味くて困った。江戸に戻ってきた時は心底ホッとしたもんだぜ」
老人が関西地方の汁を悪く言っているが、逆の例もある。参勤交代で関西から江戸にやって来た武士が、日記で江戸の味を嘆いているのだ。
二百年後の関東人と関西人も似たようなことを言い合っているわけだから、お互いが理解し合える日は永遠に訪れないのかもしれない。
どちらにせよ、慣れない味を「不味い」と断じるのは不粋な話だ。宏明は老人の悪口を聞き流すことにした。
「上方はそばだけじゃなくて、醤油や味噌も酷え味で――」
老人がなおも話し続けるが、思わぬ声が遮った。
「ミャウ!」
窓際から聞き覚えがある猫の声が聞こえてきた。
「――お前、シロか? この寒い中散歩しているのかよ。おとなしくコタツで丸くなっていればいいのに」
宏明が驚く。まさかそば屋の飼い猫とこんなところで会うなんて思いもしなかった。
見ると障子が少し開いていて、どうやらここからシロが室内に入ってきたようである。
「お前さんの飼い猫か?」
「オレじゃなくて、店で飼っている猫です。――ってコラ! 何をやってるんだよ!」
シロが宏明の風呂敷の匂いを嗅ぎ、そしてひっかき始めた。
「その中に入っているのはオレの夜食のそばだぞ。お前はさっき店でたくさん食べたのにまだ足りないのか?」
宏明が風呂敷を抱え上げながら文句を言うと、シロではなく老人の方が反応した。
「お? その中にそばがあるのか?」
「はい。店の残り物ですが」
「一つ頼みがある。そのそばをオレにも分けてくれ。そばの出前を頼みたかったんだが、どこの店もやってなくて困っていたところなんだ。無論、礼はするぜ」
「うちの店は生粉打ちのそばですよ?」
「この際だ。そばなら何でも構わねえ」
「調理する必要があるから、俺のボロ長屋に来てもらうことになりますが、それでもよろしいですか? あとお礼は頂けません。店の残り物に過ぎないので」
ご馳走するくらいなら問題ないが、さすがに何かをもらったらダメだろうと宏明は思う。
「お礼が要らねえたあ、ずいぶんと無欲じゃねえか。で、お前さんの家はここから近いのか?」
「すぐそこです」
「ならお邪魔するぜ」
老人が破顔した。よほどそばを食べたかったのだろう。
「ただし、俺が風呂からあがるのを待っていてください。ついでに、この猫の面倒をお願いします。雪の中にほっぽり出すわけにはいかないので、うちに連れて帰りたいんです」
「お安いご用だぜ」
「ありがとうございます。――ええと?」
老人の名をまだ知らないことに気付いた。
「鉄爺だ」
「俺は宏明です。では、猫の世話をお願いします、鉄爺さん」
そう言い残して、宏明は階下に向かっていったのであった。




