第20話 無茶振り
「今日は大損だよ! そばだけじゃなくて、仕込んでおいた具材も捨てなくちゃならないし!」
仕舞いそばの最中、お梅が愚痴を言い始める。
「冬とはいえ、日持ちしないものが多いからねえ」
姉の方はそんなに気にしているそぶりを見せず、のんびりとそばを口に運んでいる。
「ワシらだけじゃ到底食い切れんけえ。ほかる(捨てる)のはもったいないし、猫たちにもっとあげよまい(あげようよ)」
「鹿兵衛兄さん、あまりたくさん食べさせるのも可哀想だよ。既に山盛りなんだし」
今日の猫たちの食事はとても豪勢になっている。量もそうだが、普段はなかなか回ってこない鶏肉や麩も与えられているのだ。三匹の猫は思わぬごちそうに舌鼓を打っている。
「なら仕方ない。ヒロ坊、もっと食え。若いんだから食えるだらあ?」
「さすがに無理なので、家に持ち帰らせてもらいます」
「いくらでも持って帰れ」
「家計が助かります」
店の人間が和気あいあいと話している中、お梅だけは不機嫌そうだ。
「数えたくない数えたくない。今日どれだけの損が出たかなんて」
「そうそう、辛汁も捨てちゃうよ。明日に回すのはちょっと厳しいからねえ」
「損失を増やさないでよ、お姉ちゃん! 汁を作るのに銭がかかっているのに……」
妹が頭を抱える。
この十二歳は金銭感覚が並のちびっ子とは大きくかけ離れている。短い付き合いながら、宏明は実感していた。客の支払代金を間違えたことは一度もないし、店の経理もきちんと把握している。
お金に関することならば、おそらくお梅が店の中で一番だろう。他の年長者たちが無頓着すぎるという面もあるが、年齢を考えると実に商才に恵まれた童女である。
「たまにはこういうこともある。お天道様が雪を降らせるのは誰にも止められねえ。諦めろ」
「仕方ないで済ませないでよ、お父ちゃん! 店がどれだけ損したと思っているの!」
お梅が松三郎に食ってかかる。
「そもそもの話、汁を作るのに銭を使いすぎなんだってば。味醂は三河、鰹節は土佐、砂糖は薩摩。どれも高いのにどうやって儲けるつもりなの? ついでにそばの実は山物(信濃・甲斐・武蔵西部で栽培されたそば。高品質)だし」
「醤油は地廻り(江戸近郊で生産された物品)を使ってるし、砂糖は昔からするとずいぶんと安くなってきた。別に高ぇもんだけ使っているわけじゃねえ」
「下りもの(京阪地方で生産された物品)よりは確かに安いけど、地廻りの中では高額だよね!」
基本的に、この時代の物品は関西地方のものが高級品で、関東地方で生産されたものは廉価品である。その関東の醤油の中では上等な品を、力屋古橋では使用しているのだ。
ちなみに、江戸っ子たちは醤油に関しては地廻り品を好んでいる。高いうえに、味が好みに合わなくなっているということで、下り醤油は劣勢だ。
江戸のそば屋が地廻り醤油を選ぶのも、そういう背景があるのだろう。
「文句があるなら、オレの前に安くて美味ぇものを持ってきやがれ。喜んで換えてやるぜ」
松三郎は自信満々に言い放ち、悠然と杯の酒を飲み干す。
(江戸中の醤油を味見するとか豪語する人なんだし、きっと全ての材料を吟味しているぞ)
宏明が推測する。
松三郎は損得とかあまり気にせずに、美味しいそばを作ることを第一目的にしているのだろう。採算重視の娘と衝突するのは仕方がないことだ。
お梅はなおも食ってかかる。
「高くて良いものを使って美味しいそばを作るのなんて誰でもできるでしょ? 安いものでも美味しく作るのが名人ってやつじゃないの?」
「悪いものでも美味ぇそばを作れる名人は、良いものを使えばとんでもなく美味ぇそばを作れるってことだ」
対する父親の方は涼しい顔だ。その顔は自信にあふれている。
二人の間に鹿兵衛が割って入った。
「お梅ちゃん、その切り口はデラ難しいで。おカミさんも同じことを言っていたけど、なかなか店の味を変えさせられなかったじゃんねえ」
「ふうん。なら、ここであたしがお父ちゃんを言い負かしたら、お母ちゃんを超えたってことだよね」
お梅はめげたりはしない。むしろ、不敵な笑みすら浮かべている。
「ヒロお兄ちゃん、お兄ちゃんの実家の汁を教えて!」
「お、俺?」
まさか自分に話が振られるとは思っていなかったから、宏明は戸惑ってしまう。
「ここにいるのは、みんなお父ちゃんの味しか知らない人ばっかり。でも、ヒロお兄ちゃんだけは他の味を知っているでしょ」
「材料は力屋古橋と似たようなものだよ。銚子の醤油と三河味醂。鰹節は土佐か薩摩のどちらか。砂糖は確か沖縄――もとい琉球だったはず」
しどろもどろに宏明が答える。ちなみに製法が全然違うので、汁の味はまったくの別物になっている。
「田舎のそば屋なのに分かってるじゃねえか。少なくともうちの小娘よりな」
松三郎がうんうんと頷く。
「ヒロお兄ちゃんも役に立たないとなると、別の切り口で行くしかないよね」
お梅はどこまでも強気だ。
「父ちゃんたちが飲んでいるそのお酒。どうしてわざわざ下りものなんか置いているの?」
「そりゃあ、おめえ、そば屋は下り諸白を置くって決まってるんでい。考えてみろ。うちの客は荒くれ揃いなんだから、安酒なんか出した日にゃ店を叩き壊されちまうぞ」
言いながら、松三郎がチロリから杯に酒を注ぐ。
(この伝統は現代まで続いているんだよな)
東京の老舗そば屋には関西の酒が置かれていることが多い。
どうしてそば屋に下り酒が置かれるようになったのかは知らないので、この時代の人間に理由を尋ねてみることにする。
「ねえお藤さん、どうして江戸のそば屋は下り酒を置いているのかな?」
「聞いた話だけど、そば屋はたいした料理を出さない代わりに良いお酒を客に出すらしいよ」
「納得。そばを作るのに忙しくて、つまみは簡単なものしか出せないもんね」
「あと、母ちゃんが生前言っていたことなんだけど、うちの店で一番儲けを出しているのはお酒らしいから、このあたりも関わっているのかもね」
「悲しいそば屋事情が見えてきたぞ……」
「ところで、宏明さんはお酒を飲まないのかい? そば屋なら味を覚えないといけないでしょ?」
「お酒もタバコと同じで、もっと大きくなるまで待つ必要があるんだよね。お藤さんは飲まないの?」
「わたしはお酒の味が好きじゃないからねえ。味醂なら飲めるけど、おめでたい時に口にするくらいだね」
味醂と聞いて宏明は一瞬驚いたが、味醂は単なる調味料ではなくお酒だということを思い出した。現代日本の甘党が果実酒やカクテルを好むように、江戸時代の甘党は味醂を愛飲するのだろう。
味醂ではない普通の日本酒も、江戸時代のものは現代よりも相当に甘口だという知識は頭に入っているが、残念ながら宏明自身がどちらの味も知らないので比較しようがない。
宏明とお藤が話している間も、松三郎とお梅の親子討論も続いていた。
「客に上酒を出すのは仕方ないってのは分かったよ。けど、お父ちゃんとシカお兄ちゃんが飲むのはおかしいよね?」
「旦那が酒の味見をしねえでどうするんだって話よ」
「味見なんて初めの一回だけで構わないよね? これから先、お父ちゃんとシカお兄ちゃんがお酒を飲むのは、酒屋さんが来てくれた日だけね。よし、これでお酒の無駄遣いが減った」
「おいおい、酒を飲むなってか?」
松三郎の顔が少し引きつった。呑兵衛には辛い宣告なのだろう。
「――まさか、酒を狙い撃ちしてくるとは思わなかったわ。お梅ちゃんは本当におカミさんを超えてしまったかもしれんじゃんねえ」
「よし、シカお兄ちゃんに褒めてもらっちゃった。お母ちゃんは酒飲みだったから手を付けなかったんだろうけど、あたしは別に飲まないもんね」
勝ち誇ったかのようにお梅が胸を張る。
「でも、地廻りの並酒ならお父ちゃんたちに飲ませてあげるよ。あたしも鬼じゃないからね」
「バッキャロー! 地蔵菩薩(悪酒のこと)なんて飲めるか! オレが怒りのあまり店を叩き壊しちまうぞ!」
「店の儲けが増えたら諸白を飲ませてあげるよ。ほらお父ちゃん、頑張って頭を使って」
「すぐにできるわけねぇだろうが!」
「そばを安く作るか、たくさん売るか。どちらかをするだけの話だよ」
「そんなことが容易くできるなら江戸中がそば屋の蔵で埋め尽くされてらぁ」
「じゃあ、当分は安酒だね」
「近々でっけえ儲け話があるんだ。細けえ銭勘定は止しやがれ」
「ふうん、そんな話があるんだ。じゃあ、その儲けが入るまでは並酒ってことで」
「このガキが……。おい天狗、この前みたいにおめえが新しい品を考えろ!」
突如として、宏明も巻き込まれてしまった。
「お、俺ですか?」
「明日までに考えてこい! できなきゃクビだ!」
「……理不尽の極みですね」
店の経営者が新人にメニューを考えさせるなんて、どういうつもりなのだろうか。一応、鴨もりで実績があるにしてもだ。
「宏明さん、酔っ払いの戯言なんて聞き流して構わないよ」
さすがにお藤がフォローしてくれる。
「というわけで、ヒロお兄ちゃんが何か思いつくまで、お酒は取り上げってことで決まりだね」
妹の方は父親の言葉に乗っかるつもりのようだ。宏明が新メニューを思いついたら儲けに繋がる。思いつかなくても経費削減になる。どちらに転んでもお梅の勝利確定だ。
「嫌だよ嫌だよ。実の娘の顔が羅刹女に見えてきたぜ、こんちくしょう!」
「お父ちゃん、飲み過ぎだね。今日のお酒はおしまい」
「酔ってねえよ、べらぼうめ!」
松三郎の叫び声が雪が降りしきる町に虚しく響いていった。
江戸のそば屋が下り酒を置いている理由は諸説あるようです。
個人的に一番好きなのは「そば屋の旦那が酒好きだから」ですね。




