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第18話 醤油問屋にて

地図の地形が現代のものですが、ご了承ください。

挿絵(By みてみん)


 日本橋。


 五街道の起点という陸路の中心地であると同時に、諸国から江戸に届いた物品が水揚げされる水路の拠点でもある。交通の要衝ということで、江戸の経済の中心地だ。


 魚河岸が置かれていて、新鮮な魚を客へ届けるために魚屋が走り回る場所でもある。呉服問屋が建ち並び、新たな着物を求める人々が列をなす場所でもある。


 そんな江戸屈指の繁華街に宏明は来ていた。


(すごい人の数だ。未来でも発展している場所だけど、江戸時代でも同じなのか)


 すっかり人酔いしてしまっている。


 好きでこんな場所に来たわけではない。お使いとして送り出されたのだ。店を開ける前に問屋へ行ってこいと、松三郎から指示が飛んできたのである。


 宏明が向かっているのは醤油問屋だ。日本橋には、銚子(千葉県銚子市)や野田(千葉県野田市)を始めとした、各地から届いた醤油を扱う問屋も建ち並んでいる。


「力屋古橋から来たんだけど、お店の人はいらっしゃるかな?」


 目的の店の前で水まきをしていた子供(丁稚)に声をかけた。


 すると、すぐに店内に案内をしてくれる。


 やっと人混みから逃れられて、宏明はひと息つけた。


「おや? 新しい職人の方ですかな?」


 羽織姿の初老男性が、宏明を見て質問をする。


「はい。九月から力屋古橋で働いています」


「これはこれは、寒い中ようこそいらっしゃいました」


 お互いに自己紹介を済ませる。羽織の男は問屋の旦那だった。


 あいさつはそこそこに、宏明は用件を伝える。


「ほう、醤油を急ぎで持ってきて欲しいと?」


「近頃客が増えていて、店にある醤油の量が心許ないそうです」


「よござんす。今日中にお届けに伺うと古橋さんにお伝えください。鴨もりというそばが評判になっていると聞いていますから、できる限り急がせて頂きます」


「鴨もりなんですが、もうそんなに出せなくなってしまいまして……」


 宏明が申し訳なさそうな声を出す。


 評判を呼んだ鴨もりだが、肝心の鴨肉がなかなか手に入らなくなってしまったのだ。


 鴨肉の代わりに鶏肉を使った「かしわ南蛮」と「かしわもり」を売り出してみたものの、残念ながらそこまで売り上げは伸びていない。鶏肉では鴨ほどの重厚な味わいが出ていないということを、客は敏感に感じ取っているのだろう。


 ただ、鴨もり目当てに来ていた新規客の中から一部はリピーターになってくれたので、そばが売れる数は増えていた。鴨がなくとも力屋古橋の味は本物なのだから、当然の結果である。そんなわけで醤油の追加発注が必要になったのだ。


「そうそう。せっかくだから、宏明さんにこれを持って帰ってもらいましょうか」


 旦那が店の奥から小振りの徳利を二つ取り出してきた。


「新しい醤油の取り扱いを始めるので、古橋さんに味見をお願いしてください」


 どうやら試供品のようだ。


「そば屋は醤油にうるさいから、新しい物に変えたりはしないと思いますが……」


「古橋さんは今までに何回か変えていますよ」


「え、そうなんですか?」


 宏明の実家では祖父の代から一貫して同じ醤油を使っている。毎日同じ味を作り出すためだ。


「古橋さんが仰るに『美味くなるなら客は文句言わねえだろ』ってことらしいですよ」


「すごい度胸ですね、うちの旦那。美味くなったとしても従来の味が好きな客が離れちゃうかもしれないのに」


「変えないそば屋も多いですけど、古橋さんは美味いそばを作るためならなんでもする人ですからね。少し昔話をしましょうか」


 問屋の旦那が懐かしそうに話し始める。


「古橋さんが店を出す前の話なんですがね、うちの店に来て『置いてある醤油を全部舐めさせて欲しい』と言ってきたんですよ。そういう客はたまにいるから別段珍しくもないのですが、『江戸中の醤油を全て舐めている途中だ』って続いたのには仰天しましたよ」


「どれだけ醤油にこだわっているんですか――」


「これが口先だけの話ではなくて、本当にあちこちの問屋を訪れて味見していたのだから二度驚きです。本当に全ての醤油を確かめたかどうかは分かりませんが、優に百は超える数を味見したでしょうね」


 自分の雇い主の情熱を聞かされて、宏明は脱帽するしかない。


「そんな古橋さんが手前どもの店の醤油を選んでくれたのは、まさに僥倖。それ以来の付き合いとなっています。とはいえ、より良い醤油が見つかったら古橋さんは移ってしまうでしょうから、こちらは常に新しく良いものを探さなければならないですが」


「お互いのプライド――矜持のぶつかり合いですね」


「まさにその通り。古橋さんのおかげで、手前の舌も鍛えられて、今となっては日本橋で指折りの醤油屋になってしまったのだから世の中ってのは不思議なものです」


「そんなことがあったんですね」


 そば屋と問屋の緊張感がお互いを高め合っているのだろう。実に素晴らしい関係である。


「ご迷惑でなければ、俺に醤油を舐めさせてもらえませんか? 買うお金なんて持ち合わせていないから完全に冷やかしになってしまいますけど」


「――ほう」


 問屋の旦那が興味深そうに宏明を見る。


「いやはや、さすが古橋さんのところで働く職人さんですね。どうぞどうぞ、気が済むまで味見してください。いつか店を出す時は、是非とも手前どもの店をご贔屓にお願いしますよ」


 旦那が店に置いてある醤油を片っ端から持ってきてくれた。


(この時代の醤油は基本的に味も色も未来より濃いな。けど、甘味と旨味の成分が少ないかも。これがお江戸の味か)


 舌に味を刻み込んでいく。好奇心でお願いしただけの味見だったが、大きな学びを得ることができた。


 問屋の旦那としても、勉強熱心な若者を応援するのが楽しいようだ。醤油の産地や特徴を事細かに教えてくれる。


「本日は、わがままに付き合って頂きましてありがとうございます」


 店の醤油を全て味見した後、宏明は深々と頭を下げた。


「お気になさらず。味を覚えてもらうのも仕事の内なので」


 笑顔の旦那に再度礼を述べてから、宏明は店の外に出た。


「寒いっ!」


 冷たい風が吹き付けてきて、思わず声が出てしまった。


 既に十一月の半ばにさしかかっている。寒さが本格化しているのだ。


 宏明は背中を丸めて力屋古橋に戻っていくのであった。

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