第1話 不思議な声
「やべ、大失敗だ……」
望月宏明が呟いた。まだあどけなさを残す顔が引きつってしまっている。彼の手にはドロドロになってしまったそば粉がくっついていた。
今日は日曜日。中学校が休みなので、彼は実家のそば屋の厨房でそば打ちの練習をしていたのだ。
そして、その結果は見事に失敗だった。
どうしたものかと宏明が考えていると、背中から声をかけられた。
「水の入れ過ぎだな。もうどうにもならないから、捨てちゃえ」
振り返ると、六つ年上の兄があきれ顔で扉の前に立っていた。兄も宏明も同じデザインの作務衣を着ている。この店でのユニフォームだ。
「木鉢作業ってのは確かに難しいけどさ、そば粉を作ってくれた農家さんと粉屋さんには申し訳ないと思っておけよ」
宏明としても同感なので反論の余地がない。父親からそば打ちの方法を習ってから一年近く経つが、なかなか上達しないのだ。
「自分で責任を持って食べるよ。失敗したそばでも焼くなり団子にするなりで美味しく食べられるって、親父に教わっているし」
「一人じゃ食べきれないだろ。今日のおやつとして家族みんなで食べてもらおう。――そうだ、頼み事があるんだった」
「何?」
「再来週、じいちゃんとばあちゃんを絵画展に連れて行って欲しい。自分が行くつもりだったんだが、都合が悪くなっちまってな」
「分かった。俺が代わりに行くよ」
失敗したそばの処理に協力してくれるのだから、兄のお願いを断りにくい。宏明はうなずくことにした。
「助かる。小遣いも出すから、頼むぜ」
兄が絵画展のチケットと千円札を宏明に握らせる。
「こんなにもらえるなら喜んで――」
と、話しながらポケットにチケットと紙幣を入れたときだ。彼の耳元で女性の声が聞こえてきた。
――申し訳ないんだけど、ちょっくら手伝ってくれないかね?
宏明は周囲を見回したが、兄と二人きりである。厨房の中には女性なんかいない。
「兄貴、女の人の声がしなかった?」
「何を言っているんだ? ここには男が二人しかいないんだから、女の声なんかするはずがないだろ」
兄も不思議そうな顔をして、辺りを見回す。
「幻聴かな?」
宏明が首をひねっていると、またしても女性の声が聞こえてきた。
――少々厄介かもしれないけどね、お礼はちゃんとするから頼むよ。
もう一度厨房内を確認したが、やはり誰もいない。テレビやラジオの音というわけでもなさそうだ。
そう思った瞬間、突如として宏明に浮遊感が襲ってきた。続いて、自由落下の感覚が訪れる。
「な、何だあ?」
彼が叫ぶのと同時に、盛大な水音が上がった。宏明の全身が水に沈む。
突然のことだったので、水を大量に飲み込んでしまった。気管の方にも水が入ってしまったようで、水中で大きく咳き込む。
(こっちが下か)
上下の感覚を完全に失ってしまっていたが、偶然にも手が何かに触れた。柔らかい泥のようなので、おそらく地面で間違いないだろう。
その逆側に頭を進ませる。
「プハァ! ゲホッゲホッゲホッ」
なんとか水面から顔を出した宏明は盛大に咳きこんだ。
肺に空気を取り込めて落ち着いてきたので、現状の確認をすることにした。
幸いにも足が付く深さだった。宏明の腰辺りが水面である。
(池? それとも沼か?)
水草が多数生えている水面。少し離れたところに岸が見える。
後ろを振り返ってみると、小島があってそこにはお堂のようなものが建っていた。
そんなに大きな水たまりではない。池か沼で間違いないだろう。
「何がどうなっているんだ? 厨房にいたはずなのに、どうして……ハックション!」
盛大なくしゃみが出た。水で濡れているのもそうだが、風が妙に冷たい。今は六月のはずなのに変な気候だ。
(とりあえず、岸まで行こう)
このままだと、確実に風邪を引いてしまう。
「ミャウ、ミャウ」
岸まで歩いて近づくと、そこにいた白猫が宏明に向かって大きく鳴き始めた。
「怪しい者じゃないぞ。お願いだから、ひっかいたりするのはやめてくれよ」
彼は猫に話しかけた。どうせ言葉は通じないだろうが、これ以上酷い目に遭いたくないので、つい口が動いてしまう。
白猫は変わらずに鳴き続けている。宏明はなんとか猫を追い払おうとするも、なかなかにしつこい。
「シロ、こんな所にいたのかい」
猫相手に四苦八苦していると、小柄な女の子が早足で近づいてきた。この白猫の飼い主だろうか。
「おや、びしょ濡れじゃない」
女の子が宏明に気付いた。心配そうに声をかける。
「まだ若いのに世を儚んで身投げするなんておよしなさいな。生きていれば、きっと良いことがあるはずだから」
とんでもない誤解をされているようだ。
「いや、別に入水自殺しようとしているわけじゃないです。落っこちただけです」
まずは誤解を解いておく。そして、疑問をぶつけてみる。
「――ところで、お祭りか何かあるんでしょうか?」
女の子の格好が、まるで時代劇に出てくる町娘のようだったからだ。頭の上に結い上げられた島田髷に、地味な色合いの小袖。手には風呂敷で包まれた荷を持っている。こんな格好をするなんて、お祭りか仮装か撮影くらいしか思い当たらない。
「お祭り? この上野(東京都台東区)でそんなのがあるなんて知らないねえ」
少女が首を小さくかしげた。随分とのんびりとした話し方である。
「ま、待ってください。ここって西郷さんの上野なんですか? 八王子(東京都八王子市)じゃなくて?」
宏明が慌てる。彼の実家があるのは八王子なのだ。三十キロメートルくらいの距離を一瞬で移動してきたというになってしまう。
「西郷さん? 誰だいそれは? ほら、後ろを見てごらんよ。ここは上野の不忍池。島の上に弁天堂が見えるでしょ?」
女の子が池を指さした。
「本当に、上野なのか……」
「やれやれ、こんな昼間から酔っ払っているのかい?」
「いや、酒なんか全く飲んで――ハクション!」
またくしゃみが出てきた。身体がだいぶ冷えてきている。
「おやまあ、九月だってのに池なんかに入るからだよ」
「九月? 今って六月ですよね?」
「まったく、どれだけ飲んでいるんだい? こんなに寒い六月なんてありえないよ」
少女が元々大きな瞳をさらに大きく開いて、あきれ果てている。
宏明の方は完全に混乱してしまっている。何が起こったのかサッパリ理解できない。そういえば、そば打ちの練習をしていたのは午後四時頃だったはずだ。それなのに、空に浮かんでいる太陽は随分と高い位置にある。時間が完全におかしい。
(まさかと思うけど、タイムスリップって奴なのか?)
可能性に思い当たったので、さらに質問を重ねることにした。
「今って何年ですか? 西暦でも元号でも構わないから教えてください」
「せいれき? よく分からないけど、今は文政四年(西暦一八二一年)だよ」
(……有名な元号が出てきたな。二百年くらい昔に飛んだのか)
やはりタイムスリップしたということで間違いなさそうだ。まだ江戸幕府が存在している時代である。
これからどうすべきなのか思いつかない。未来に戻る方法のこと、心配しているであろう家族のこと。色々なことが頭の中をグルグルと駆け巡る。
呆然としている彼に、少女が心配そうに声をかけた。
「そろそろ帰って着替えたらどうだい? 身体に障っちゃうよ」
「帰る? そうしたいのはやまやまなんですが、いったいどうしたものか……」
「ったくもう。これだから、酔っ払いは嫌だよ」
少女が大きく嘆息した。
「うちに来るかい? 少し歩くけど、着るものくらいなら貸してあげるよ」
「良いんですか?」
「ここで会ったのも何かの縁。ほったらかしにして死なれたら目覚めが悪いしね」
「すみません、ありがとうございます」
宏明は頭を下げた。このまま濡れた服を着ていたら、少女が言うように命に関わるかもしれない。彼女は九月と言っていたが、もちろん旧暦でのことだろう。新暦では十月に相当すると思われる。
「わたしは藤、よろしくね。こっちの猫はシロだよ」
少女が名乗った。白猫の方は飼い主の言葉に反応せずに毛繕いをしている。
「俺は望づ……名字は禁止か。宏明だよ。年齢は……えっと、数えで十五歳かな」
「あら、同い年だね」
お藤が嬉しそうに微笑む。
彼女が猫を抱きかかえて歩き始めたので、宏明は後ろから付いて行く。
「ところで宏明さん、変な髪をしているし、変な着物を着ているし、何の仕事をしているんだい?」
「髪型はともかく、この作務衣って変?」
「ここいらでは見かけたことないねえ」
(作務衣って和服っぽいけど、まだ存在していないのかな? それとも江戸以外で使われている着物?)
宏明の知識では判別が付かない。
「月代を剃っていないってことは、宏明さんは学者さんか蘭方医かい?」
「学者ではないよ。らんぽういって何?」
「蘭学を習ったお医者様なんだけど、その顔だとどうやら違うみたいだね。随分と背が高いから、駕籠かきかい?」
彼女が宏明を見上げながら言った。
宏明の身長は一七七センチ。未来世界の日本人平均からしても高い方だ。この時代の基準なら相当な大男になるだろう。
一方、お藤の背丈は低く、一四五センチにも届いていなさそうだ。と言っても、周りを歩いている女性と比較してそんなに変わらないから、江戸時代基準では平均的な体格なのだろう。
「駕籠かきって、駕籠を担ぐ人のことかな? 触ったことすらないよ」
「そういえば、腕に彫り物が入っていないし、違うみたいだね」
ここで会話が途切れた。宏明は歩きながら、江戸の町を観察してみる。
(これが江戸の町か)
大通りの両側には商店がずっと先まで連なっていて、武士や町人が大勢歩いている。商人が威勢良く客を呼び込んでいたり、往来の真ん中でケンカを始めている輩がいたり、喧噪が絶えない。
宏明は祖父母の影響で時代劇をかなり視聴しているが、本物の江戸の方が活気にあふれている。
「お藤さんの家までは結構遠いのかな?」
「明神下だから、少し歩くよ」
「神田明神(東京都千代田区)のこと?」
「うん、そうだよ」
(ということは、上野から秋葉原まで歩くのか)
鉄道で二駅分の距離を歩くというわけだ。