第16話 仕舞いそば
夜の五つ(およそ午後八時)。営業時間終了の時刻である。
店を閉めたら、力屋古橋では売れ残りのそばを従業員全員で食べる。仕舞いそばという慣習だ。
客席の中央に溜め笊(そばの水切り用の円形の笊)を置いて、一同が円座して食べるのが古橋でのやり方だ。三匹の猫もそばを分けてもらって、部屋の片隅で食べ始めている。
「疲れた……。もうくたくただよ……」
お藤がぐったりと座り込んだ。
「頑張ったお姉ちゃんのために、いつもの煮豆売りさんから豆を買っといたよ。これを食べて疲れを癒やして」
「この豆があるなら、わたしは生き返ることができるよ」
食べるのはそばだけではない。遅い晩ご飯も兼ねているので、お茶漬けや味噌汁、おかずも用意されている。もっとも、営業時間にこれらを準備できるはずがないので、朝方に作っておいたものと、棒手振り
(行商人)から買ったものだが。
「ヒロお兄ちゃんもどうぞ」
お梅が皿に取り分けてくれたので、宏明も煮豆に箸を伸ばした。
「――甘っ!」
思わず声が出てしまった。まるで砂糖の塊を食べているみたいな甘さだ。
「やっぱり男の人の舌には合わないのかな? 美味しいんだけどなあ」
お梅は平気な顔で煮豆を食べている。
松三郎と鹿兵衛の方を見てみると、煮豆には一切見向きすらせずに酒を飲んでいる。この味をすでに知っているのだろう。
「今日は鴨南蛮がそこそこ出たけど、思っていたほどじゃなかったね」
お梅が切り出した。
仕舞いそばの時間は、従業員同士のミーティングの時間でもあるのだ。
「結局、もりそばが一番出るんだもん。こんなに寒くなったんだから、種物(かけそばの上に具をあしらったもの)をもっと頼めばいいのに」
「うちのそばは、もりで食べるのが一番美味ぇんだ。客はよく分かっているぜ」
松三郎がうんうんと頷く。
古橋のそばは生粉打ちなのでのびやすい。かけそばにはあまり向いていないのだ。客が手早く食べきってくれるなら問題ないのだが、酒のツマミとしてのんびり食べようとするとフニャフニャになってしまう。
「もりそばは儲けが少ないんだよ。お父ちゃん、どうにかしてよ」
「どうにもならねえな。客が頼むものをオレは決められねえ」
「うー、役に立たない。次、シカお兄ちゃん!」
お梅が番頭に話題を振る。
「ワシは頭が良くないからなあ。全く思いつかんわ」
「シカお兄ちゃんもダメなの? じゃあお姉ちゃん――に聞いてもしょうがないから、ヒロお兄ちゃん!」
宏明が指名されたが、答える前に一つ言っておきたい。
「なんでお藤さんを飛ばすの?」
「甘い物を食べている時のお姉ちゃんに話しかけるだけ無駄だもん」
お藤の方に目をやると、彼女は煮豆に夢中な様子で、なるほど確かに周りの音が耳に入ってなさそうだ。ものすごく幸せそうな表情なので、無理に声を届けようという気もなくなる。
視線をお梅の方に戻して、宏明は提案してみる。
「一番簡単に儲けを増やすなら、そばの値上げでしょ」
「ちょっと前にもりとかけを十四文(およそ二百八十円)から十六文(およそ三百二十円)に値上げしたばかりなのに、またやったらお客が逃げちゃうよ」
「――それは確かに厳しいね」
値上げの難しさは江戸時代でも一緒のようである。
屋台のかけそばが十文(およそ二百円)とか十二文(およそ二百四十円)で売っているのだから、値上げしすぎると価格競争で劣勢になってしまう。提供しているそばの質が違うとはいえ、価格差が大きいと客がそちらに流れてしまう恐れがある。
「そうだお父ちゃん、天ぷらそばっていう新しい種物が近頃流行り始めているよね。あれをうちでもやろうよ! きっとうちでも人気の品になるから!」
お梅が勢いよく松三郎の方を向く。
(天ぷらそばってこの頃に誕生していたんだ)
江戸時代とは知っていたが、正確な時期までは知らなかった。
天ぷらの屋台は宏明も江戸の町で何度か見かけている。そばとの出会いも既に果たしているようだ。
「だから、うちのそばは種物に向かねえって言っているだろうが」
「合わないなら、どうして客に出しているの?」
「オレは出したくなかったんだが、おめえのお袋に言い負かされたんだよ。腹立たしいことに」
「――お母ちゃん、すっごく良い仕事をしてくれていたんだ。ありがとう」
「だいたいなあ、天ぷらってのは魚や貝にうどん粉の衣を付けて揚げたもんだろ。店にうどん粉なんて置いたら『力屋古橋は手打ちの看板を掲げながら割り粉を入れている』って悪評をばらまく輩が出るに決まってらあ」
「せっかくだから、これから割り粉を入れちゃおうよ。そしたら種物に合うそばになるし」
「かあぁ、嘆かわしいねえ。まさかそんなことを言われるとは思わなかったぜ」
よっぽどショックだったのか、松三郎は床に背を付けて寝転んでしまった。
「まるでおカミさんのようで、懐かしいわ。見た目といい、物言いといい、お梅ちゃんは本当に生き写しそのものじゃんねえ」
鹿兵衛が嬉しそうにお梅を見る。
一度も会ったことないのに、宏明にもお梅の母親の人となりが想像できた。
横目でお藤の顔を窺ってみると、こちらはまだ煮豆に夢中のようだ。姉の方の性格は母親に似なかったようである。
「ねえ、ヒロお兄ちゃんも割り粉を使って構わないと思うよね?」
「お、俺に話を振ってくるの?」
さすがに困る。粉の割合を変えるということは、汁の味も変える必要が生じるので、そば全体の味が変わってくる。店の味を決めるのは旦那の仕事なのだから、雇われ人が口を出すものではない。
ここは話題を変えて逃げることにする。
「天ぷらって作るのが大変だし、お藤さんと俺だけじゃ回らないよ。もう少し職人を増やしてからにして」
「うー、職人を増やすなんてできないよ……」
「このまま美味しいもりそばを売ればいいんじゃない?」
「それじゃあ儲けが少ないんだってば」
「前にも言ったと思うけど、昼間のお客さんが少ない時間にもっと呼び込むとか、手は色々あると思うよ」
「どうやって客を増やすの?」
「この店の客って男ばかりだし、女性客を増やすのを目指すとか?」
「……何を言っているの?」
お梅が心底あきれた顔になる。
「そば屋の娘が言うのもなんだけど、女がそば屋に入るなんてあり得ないよ。食べたくなったら出前を頼むのが当たり前。男連れならかろうじて行けるかもしれないけど」
これを聞いた松三郎が、起き上がりながら話を付け足す。
「そば屋の旦那が言うことじゃあねえが、娘がそば屋に入っていくのを見かけたら厳しく叱りつけるぜ。田舎じゃどうだか知らねえが、江戸ではどこでも同じだ」
「……どれだけそば屋の印象悪いの?」
たしかに力屋古橋で女性客を見たことは一度もない。しかし、ここまで言われるほどとは思っていなかった。
二十一世紀なら、女性だけでそば屋に客として訪れるのは珍しくもなんともない。この後の時代のそば屋が女性でも入りやすい店作りの努力をしたのだろう。
「そば屋に女を呼ぶなんてあり得ないよ。まさに『女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る』ってやつだね」
「……すごいことを口走ったぞ、このロリ」
「三つともあり得ないものだよ。それを集めて謡われているんだ」
「解説ありがとう。俺が驚いたのは別の理由なんだけどね」
十二歳の女の子から「女郎」なんて言葉が出てくるとは思わなかった。意味を分かっていないのか、それともお梅がませているだけなのか。確かめる気は全く起きない。
「女性客を集めるのは難しいって分かった。じゃあ、もりそばに何かを乗せて高く売るのはどうかな?」
宏明の頭に妙案が思い浮かんだ。
「もりそばに? 何を乗せるの?」
「たとえば、海苔をきざんでかけるとか」
「いいね! 花巻と同じ二十四文(およそ四百八十円)で売りだそうよ!」
「使う海苔の量は花巻よりも少ないんだから、それは強欲すぎでしょ。俺の実家のざるそばは――」
ここまで言って、失言に気付いた。もりそばにきざみ海苔を乗せるいわゆる「ざるそば」は明治時代に登場するものなのだ。些細なことかもしれないが、歴史が変わってしまうかもしれない。
タイムスリップしてしまったということで、歴史への影響は免れられないだろう。しかし、時代を先取りしているのが明らかな事柄は、なるべく秘匿しておきたい。口から出る単語ならすぐに消えてしまうが、作る物品はずっと残ってしまうわけだから可能な限り配慮すべきだと考えている。
宏明が一人で慌てていると、思わぬところから救いの手が伸びてきてくれた。
旦那の松三郎だ。
「バカヤローが。海苔なんてかけたら、そばをたぐり込む時に引っかかちまうじゃねえか。汁を吸って海苔が柔らかくなる花巻みたいにはいかねえぞ。これだから田舎者は分かってねえ」
「そうですよね。俺がバカでした。今の話はなかったってことで」
これ幸いと、思い切り頭を下げて発言の取り消しをした。
宏明の頭の中には、この時代に存在しないレシピが多数入っている。二十一世紀のそば屋のメニューは、数々の品との競争で勝ち残った味だ。美味しいに決まっているのだが、使いどころが難しい。
「海苔がダメということで、別のを作ってみます」
立ち上がって、彼は台所に入る。
未来のレシピを使うにあたって、宏明は心の中で一定の基準を設けた。
一、江戸の町に存在していても不自然ではない。
二、誕生した時期が、確実にこの年代以前。もしくは不明確。
(これなら大丈夫なはずだ。たぶん)
まず辛汁を水で少し薄める。
(江戸の人が好みそうな味はこんなものかな?)
現代と比較すると、江戸時代の味付けは全般的に濃い。冷蔵庫が発明される前なので、食料の保存に調味料を多く使う必要があるからだ。
宏明は汁の味見をしてから、火にかけて温める。
次に鴨肉とネギを切って別の鍋で焼く。
焼き上がった肉とネギを、温まったそば汁に入れて完成だ。あとは人数分のお椀に取り分ける。
「できました。この汁でそば食べてみてください」
宏明がお椀をそれぞれに配っていく。
「なんだ? 鴨を入れた汁で食えってか? いかにも田舎料理だな」
松三郎が眉根を寄せた。
「ワシも初めて見るな」
「鴨南蛮は美味しいけど、もりそばに鴨なんて合うのかな?」
鹿兵衛とお梅も首をかしげている。
半信半疑な面持ちながらも、三人は宏明が作った汁にそばを付けて口に運んだ。
「なんだこりゃ。美味いじゃん」
まず驚きの声を出したのは鹿兵衛だった。
続いてお梅が甲高い声で騒ぎ始める。
「お姉ちゃん、現に戻ってきて。ヒロお兄ちゃんのそばが美味しいんだってば」
そう言って、姉のおでこを叩いた。
「アイタッ! 何をするんだい!」
「いつまでも呆けていないで、ヒロお兄ちゃんが作った汁でそばを食べてみてよ」
「え? 宏明さんの汁? ――あら美味しい」
どうやら好評のようだ。
それもそのはずで、二十一世紀でも生き残っている「鴨もり」もしくは「鴨せいろ」という食べ方なのである。鴨肉とそば汁の相性は抜群で、もりで食べてもかけで食べても美味しい。
「お父ちゃん、何か言ってよ」
お梅がずっと黙ったままの松三郎をせっつく。
「まったくもって腹立たしいぜ」
松三郎はお椀をじっと見つめながら口を開いた。
「何でえ何でえ、大江戸八百八町とか言って気取っている連中の誰もが思いつかなかったそばが、田舎に転がっているたぁ心底たまげたぜ。しかも、江戸にある食い物を使って作りやがった。これを腹立たしいと言わずに何て言うんでい」
「やっぱりお父ちゃんも美味しく思ったんだね」
「オレはそばに関してだけは嘘をつかねえ。田舎料理を美味いって言う羽目になるなんて思いもしなかったぜ」
江戸っ子としてのプライドが傷ついてしまったみたいだが、素直に味を認めてくれた。
「おい天狗、このそばは何て名だ?」
「鴨もりです」
「良い名じゃねえか。覚えやすい。今のオレは酒が入っていて舌がいかれている。明日、酒が抜けてからきちんと味を調えて客に出す。このままでも美味いのは確かだが、江戸っ子の好みからは少し外れている」
これを聞いたお梅が驚いた顔になる。
「田舎料理を出しちゃっていいの? 美味しいのと店に出すのは別でしょ?」
「美味いものがあったら取り入れるのが江戸っ子ってやつよ。そば湯を飲むってのは元々は信州(長野県)の習わしだったそうだ。それが今となっては江戸中の店が出しているだろ」
「へえ、そば湯って信州の風習だったんだ」
「しっぽくそばは長崎の料理を上方(京阪地方)のうどん屋が取り入れて、それを江戸のそば屋が真似たらしいぜ。美味い食い物は素直に認めるもんだ」
「やった! 鴨もりで儲けられそうだね! もりそばを三十六文(七百二十円)で売れるんだし」
はしゃぐお梅を、宏明はすかさず制止する。
「ちょっと待て、そこの強欲ロリ。使う鴨肉が少ないはずなのに、鴨南蛮と同じ値段はぼったくりでしょ」
「ぼったくり? ヒロお兄ちゃんの言っていることが分からないから、三十六文で構わないよね」
「言葉が分からなくてもニュアンスくらいは伝わるでしょ!」
「ぬあんす? 八王子の言葉は難しすぎて分からないよ」
ニュアンスをどう日本語に訳そうと宏明が考え始めたその時、お藤が彼の袖を引いた。
「よく分からないけど、このそばを店で出すのかい?」
「旦那がそう言っているんだし、出すことになるよ」
「そう、とても美味しいからお客さんもきっと喜んでくれると思うよ」
邪心が一切ない彼女の笑顔を見て、宏明の心は洗われていくかのように平静さを取り戻した。
「――申し訳ないことに、お藤さんに一つ悲しいお報せがあるんだけど、聞いてくれる?」
「何だい?」
「鴨もりを売り出すとなると、中台のやることが今よりも増えて、もっと忙しくなると思う」
「……え?」
お藤の笑顔が真冬の朝の氷のごとく強烈に凍りついた。
天ぷらそばの登場時期ですが、1827年以前であるのは間違いないのですが、物語の1821年に存在していたという証拠はありません。
しかし、この物語では誕生していたという体で書いています。ご了承ください。




