第14話 口止め
「おーい、天狗。おめえに客が来ているぜ」
松三郎が帳場から宏明を呼んだ。
「俺にですか?」
袖で顔を拭いながら宏明が立ち上がる。
宏明が暴行事件を起こしてから二日後。今は力屋古橋の営業時間前で、従業員たちが台所で開店の準備をしている。
宏明は竈の火力の調節方法を鹿兵衛に教わっている最中だった。
「天狗、顔がすすけているぞ。客にそんな顔を見せるんじゃねえ」
「江戸に知り合いなんていないはずですけど、どなたでしょうか?」
「やどやの親分の姪御さんだ。くれぐれも粗相のないようにな」
「ああ、お菊さんですか」
手ぬぐいでしっかりと顔を拭いてから、店の出入り口に歩き始める。
「店を開けるまでまだしばらくあるから、上野なり湯島(東京都文京区)なりに行ってゆっくりしてこい。大男と大女でお似合いだぜ」
「お父ちゃん、変に気を回さなくても平気だよ。ヒロお兄ちゃんとうちのお姉ちゃんの間には本当に何もないんだから」
「そ、そんなんじゃねえよ! 下らねえことを抜かすんじゃねえ!」
「はいはい、お父ちゃんはそばだけ作っていて。他は何もしないでいいから」
背中に親子の会話を聞きながら、宏明は表通りに出た。
「お菊さんお待たせしました」
「あら、旦那さんはどうされました? 私はお二人に話があると伝えたのに」
「……店の支度で忙しいみたいで」
勝手に雇い主のフォローをしておいた。本当の事情を伝える気にはならない。
「お忙しいなら仕方ありませんね。あとで言付けをお願いします」
「俺たち二人を呼んだということは、若旦那の件ですね?」
「こんなところでする話ではないので、宏明さんのお住まいにお邪魔しても構わないでしょうか?」
「――うちですか?」
女性を自宅に連れ込むのはさすがに気が引けてしまう。
「寄子の様子を見ておくのも、寄親の仕事のうちということで」
「お菊さんがそう言うのなら別に構いませんが」
「要らぬ心配は無用ですよ。私はそこらの町娘と違って武芸に覚えがあるので、そうやすやすとは宏明さんに負けたりしませんから」
「別に変な気を起こすつもりはありませんって。てか、どうして武芸を?」
「私がお屋敷に奉公していたという話は前にしましたよね。そのお屋敷は堅い気風で、男女問わずに全ての者が武芸を身につけるという決まりになっていたのです。女中だけでなく、奥様や姫様も日々鍛錬に励んでおりましたよ」
「太平の世にそんな厳しい武家があるんですね」
「姫様は親の目を盗んで貸本屋から読本をこっそり借りたりしていましたから、そこまで厳しくはないですけどね」
お菊が懐かしそうに微笑んだ。
そんなわけで、二人は宏明の家に向かった。
彼の現在の住まいは裏路地にある裏長屋だ。部屋の広さは四畳半で、土間兼台所が一畳半。狭いが、独身者が住むなら十分だ。
問題点として、遮音性と断熱性が極めて低いので、未来人の宏明としてはかなり辛い。近所の夫婦喧嘩の声が聞こえてきたり、隙間風に悩まされたりでストレスがたまる。現在の彼の境遇を考えると我慢するしかないのだが。
「木鉢? 宏明さんは家でそばを打っているんですか?」
部屋に入ったお菊がまず驚いた。
「損料屋(レンタル業者)に置いてあったので思わず借りちゃいました。のし棒や包丁もついでに借りています」
「家でも修行とは熱心ですね」
「店では触らせてもらえませんからね。当たり前ですけど」
「八王子に帰ったら家業を継ぐのでしょうか?」
「俺は次男坊ですから、継ぐのはたぶん兄貴でしょう。そば打ちの腕も俺よりずっと上だし……」
宏明の心にチクチクと痛みが走る。それを誤魔化そうと、彼は湯飲みに白湯を注いだ。
お茶なんてものは置いていない。実は金銭面で少し余裕ができているのだが、無駄遣いする気にはなれない。作務衣を質屋に持って行ったらそこそこ良い値段で預かってくれただけであって、結局は借金なのだから。
「タバコ盆の代わりになる物は……」
「宏明さん、私は吸わないからお気遣いなく」
「そうなんですか? 江戸の人はみんな吸っているって聞いていたんですが」
「私は喉が弱いからタバコが苦手なんです」
「言われてみたら、今までお菊さんが吸っているところを見たことありませんね」
今まで二回ほど一緒にそば屋へ入っているが、確かにお菊はタバコを吸っていなかった。
「では、お菊さんの話を聞かせてください」
二人で向かい合って座ってから、宏明が切り出した。
「若旦那から金子が届きました。要するに口止め料ですね」
「別に俺は口外する気なんてないんですけどね。騒ぎが大きくなったら、困るのはこっちだし」
「あちらは宏明さんが無宿人だと知らないわけですから」
「あ、そうか。それにしても、若旦那は親分さんの耳に悪事が入るのをずいぶんと恐がっていますね」
「うちの伯父さんに話が通ってしまうと、どうしても観桜庵の大旦那さんやお内儀さんに話が通ってしまうから、それが嫌なんでしょうね」
「やっぱり若旦那が勝手にやっていたんでしょうか?」
「私が見た感じでは、両親ともに全く知らない様子です」
ここで、お菊が湯飲みに口を付けた。
「若旦那の狙いは全く分かっていません。今後も古橋さんに何か悪さをするかもしれないので、気をつけておいてください。私もできるだけ注視しておきます」
「口止め料まで払っておいて、まだ何かしますかね?」
「念のためです。――では、これが宏明さんたちの分です。古橋さんにも渡してください」
お菊が包み紙を差し出す。
「……受け取るのは気持ち悪いですね」
「分かります。私の分はお寺に寄進してしまいました」
「俺もそうしようかな」
「宏明さんにお任せしますが、うちに銭を借りている身だということはお忘れなく」
「お金にきれいも汚いもないってことですかね……」
少し悩んだが受け取っておくことにした。
「せっかくだから、練習用のそば粉を買わせてもらいます」
「今度、私にごちそうしてくださいね」
「人に食べさせるほどの腕はありませんよ。近所の野良猫の餌がせいぜいです」
「お店の猫ちゃんじゃなくて?」
「店の猫は毎日上等なそばを食べているからなあ。俺の下手なそばなんて見向きもしないような気がします。試したことはありませんけど」
「では、宏明さんが上達した暁に、私や猫ちゃんがごちそうになるということで」
「江戸にいる間に、そこまで上手くなりたいですね……」
お菊に振る舞えるようになるのは、まだまだ先の話になるだろう。




