第12話 観桜庵
(ここが若旦那の店?)
宏明は驚いてしまった。予想をはるかに上回る大きく立派な店だったのだ。そば屋というよりも、高級料亭みたいな店構えである。
「ちょっくらゴメンよ。通しておくんなせえ」
けんどん箱を担いだ男が、入り口から出てきた。そばの出前に行くのだろう。
男を通してあげた後、松三郎が店の中に入っていった。
「おう、お邪魔するぜ」
「あら古橋さんじゃない。お久しぶり」
恰幅の良い中年女性が出迎える。
「お内儀、若旦那はいるかい? ちょっくら用事があるんだ」
「外に出ているけど、もうすぐ戻ってくると思うよ。お待ちになる?」
「じゃあ、奥の座敷で待たせてもらうぜ。空いているかい?」
どうやら空いていたようで、宏明、松三郎、お菊の三人はお内儀さんに案内されて席に着いた。
(なんだこの素晴らしい庭は……)
座敷からは手入れが行き届いている日本庭園が見える。店の外はすごい雑踏だったのに、中はまるで別世界のようだ。
「待っている間に、どうして喧嘩になったか聞かせてもらいましょうか」
もりそばを注文した後、お菊が質問をしてきたので、宏明が先ほどのことを伝える。
「……若旦那がそんなことを? 一体どうして?」
話を聞いて、彼女が眉根を寄せて考え込んだ。
「お菊ちゃんも知っているだろうが、そば屋同士でもめ事を起こすのは珍しくねえ。ただ、観桜庵とうちの店は争うことはないはずなんだ」
「そうですね。近所とはいえ、客はかぶっていないはずですから」
「さっきのお内儀の顔を見るに、何も知らなさそうだったから、若旦那が勝手にやっているだけかもしれねえな」
松三郎とお菊が色々と意見を言っているうちにそばが届いた。
「お待たせしました」
そばを見てみると、太さも色も標準的なものだ。水切りはしっかりとされている。
「おい天狗、おめえは薬味を使わずに食べろ」
「はあ、別に構いませんが……」
観桜庵の薬味は、大根おろしとワサビ、陳皮(みかんの皮を乾燥させたもの)だ。
使うなという指示は意味不明だが、特に逆らう理由はない。宏明は汁をつけてそばを口にした。
(美味い)
王道のど真ん中を狙ったそばだ。悪く言えば特徴が少ないそばだが、客に長く愛されるそばでもある。
(そばの系統も違うし、確かにここの若旦那が力屋古橋に喧嘩を売る理由なんて全くないよな)
古橋のそばは、水切りを必要最低限だけ行い、客に提供するまでの時間を短くしたものだ。その分、濃い汁を提供して多少水で薄まっても問題がないようにしてある。狙っている客層は気が短い江戸っ子だ。小規模な店舗で回転率重視ということで、二十一世紀でのファストフード店みたいな経営戦略になっている。
対して、水をきちんと切ったそばを出す観桜庵は、時間に余裕がある人を客層として想定しているのだろう。店が広いのも、客が長居しても問題ないようにしているからだと思われる。ゆっくりと美味しい料理を楽しむレストランみたいな戦略のはずだ。
出前の方も、力屋古橋は全くやっていないわけだから、客の取り合いは一切ない。
つまり、古橋と観桜庵は近所のそば屋同士でありながら、きちんと共存できているのである。若旦那の動機が全く分からない。
三人が一枚目のもりそばを食べ終わったちょうどそのころ、萩右衛門が座敷にやってきた。
「いやいや、お待たせしちゃいました。まさか古橋さんがおいでになるなんて思いもしませんでしたよ」
にこやかに笑いながら座敷の隅に座る。
「うちの若い奴が若旦那に迷惑をかけたそうだな」
「そうなんですよ。急に掴みかかられて、いやはや恐かったのなんの」
萩右衛門の物言いに、宏明はカチンと来たが何も言わずに我慢をした。
「というわけだから、天狗は目をつむって口を開け」
「はあ……。こうでしょうか?」
何をしたいのか分からないが、宏明は松三郎の言う通りにした。
「ムグっ!」
次の瞬間、口の中に何かが飛び込んできた。
「吐き出すな! そのまま味わえ!」
松三郎に怒鳴られて、異物を舌で転がしてみる。辛さが口内の粘膜を強く刺激してきて、鼻の奥にツンと突き抜ける香りを感じた。
ワサビだ。
宏明は確信した。松三郎が薬味のワサビを放り込んだのだろう。
「ゴホッ、ゴホッ! 食べ終わりました」
涙を流しながら宏明が報告する。
「うちの若ぇのが酷い目に遭ったってことで、若旦那も許してくれねえか?」
「何を言っているんですか、古橋さん! この程度じゃ済みませんよ!」
「そうか。だったら仕方ねえ。やどやの親分を通して詫びるしかねえな。この天狗はやどやに入っているわけだし」
「お、親分ですか……?」
今まで威勢が良かった萩右衛門の声が小さくなった。
口入れ屋という第三者が入ってきて、萩右衛門の方が悪いと認定されるのを恐れているのだろうか。宏明はそう目星を付けた。
「運が良ぇことに、ここに親分の姪御さんが来ている。お菊ちゃん、頼まれてくれるかい?」
「この場でおさまらないのなら、伯父さんに頼むしかないですね。気が進まないけど致し方ありません」
頷くお菊を見て、萩右衛門が驚いた顔になった。
「親分の姪御さん?」
「初めまして。菊と申します」
「いやはや、気付きませんでしたよ」
若旦那が額の汗を拭った。
「分かりました。古橋さんの謝罪を受け入れましょう。こんな些事で親分の手をわずらわせるのは申し訳ありませんし」
早口でそう告げると、萩右衛門は逃げるかのように部屋から出て行ってしまった。
ほぼ同時に、おかわりのそばが届く。
「これで喧嘩の件は埒が明いたということでしょうか?」
お菊が疑問を口にした。
「若旦那が謝罪を受け入れると言ったわけだから、そうだろうな。こっちもすねに傷がある身だ。あまり大ごとにはしたくねえ。ただし、この後もグタグタ抜かしてくるようなら、本当に親分に頼むしかねえな」
「その時は私が話を通します」
「すまねえ。迷惑をかける。――しっかし、若旦那は何をやっているんだか。こんなに美味いものを作れるってのに」
松三郎がそばをすすって、不満そうな声を出す。
「あら、これは若旦那のそばなのでしょうか?」
「観桜庵の大旦那は近頃体の具合が悪いらしく、汁取りを若旦那に任せているようだぜ。お菊ちゃんは知らねえかもしれないが、あの若旦那は神童と呼ばれていたくらいにそば作りの才に恵まれていたんだ」
「あの若さで汁取りを任されるなんて、この江戸の中に何人いるのかってくらいにすごいことですよ。驚きました」
お菊だけでなく、宏明も驚いていた。
そばを作るにあたって、最も重要かつ最も難しいのは汁を作ることなのである。
(こんなに素晴らしい汁を作れる人がどうしてあんな姑息なことを?)
謎が深まるばかりだ。
宏明が考え込んでいる間も松三郎とお菊の会話は続いている。
「何でもすぐに身につけられるってのが悪かったのか、若旦那は慢心しちまって修行を怠るようになったらしい」
「出来が良すぎるというのも考えものですね」
「近頃は悪い遊びを覚えたらしく、汁取りだけやって、ほっつき回っているってぇ話だ。そば屋の旦那ってのは、店のことを女房に丸投げして遊びほうけるのが相場だが、いかんせん遊び始めるにゃ若すぎだぜ」
「頼もしい跡取りになるはずが放蕩息子になってしまうなんて、なんてもったいない」
「まったくだ。遊び回っているくせにこれだけの汁を作れるんだ。本腰を入れて修行に励めば江戸で一番の腕前になれるかもしれねえのに」
「宝の持ち腐れというやつですね。重ね重ねもったいない」
お菊が嘆息した。




