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第11話 嫌がらせ

 九つ(およそ十二時)、この時刻になって力屋古橋は開店した。


(……暇だ)


 客はポツポツとやって来る程度で、台所の中は手持ち無沙汰になってしまっている。


 客席の方を覗いてみると、二人の客が座敷に上がって、松三郎と談笑している。客はその二人だけだ。


 三匹の飼い猫は仲良く床几の上でお昼寝していて、客席では人間の数と猫の数が全く同じという有様である。


(これなら、板前と釜前を兼任できちゃうわけだ)


 その役職をしている鹿兵衛はタバコを吸いに外へ行ってしまっている。


「ねえ、お藤さん。客足はいつもこんなものかな?」


 宏明は台所で同じく暇そうにしているお藤に話しかけた。


「いつも通りだよ。七つの鐘が鳴ったら(およそ午後四時)、忙しくなるけど」


「さすがに夕方になればお客さんが来るのか。安心したよ」


 このあたりは二十一世紀のそば屋事情と変わらないようだ。


「でも、昼飯時なのにお客が来ないのは不思議な光景だな」


「そう? お昼にそばなんてそんなに売れないよ」


「昼ご飯に食べたりしないの?」


「みんなお米を食べるよ。八王子は違うのかい?」


(日本人が麺類を主食として食べるようになるのって、もっと後の時代の話なんだっけ)


 この時代のそばは、おやつか酒の肴の扱いなのだ。


「じゃあ、今の時間は店を開けない方が良かったりしない?」


「少ないけど、お客さんは来てくれるしね。薪代くらいは賄えるから損していないらしいよ。江戸のそば屋はどこもこんな感じ。よっぽどの繁盛店なら別だけど」


「そういうものなのか。俺の感覚だと、この暇な時間に客を増やしたいなあ」


 二人でそんなことを話していると、お梅が台所へやって来た。


「ヒロお兄ちゃん、良いことを言っているね。こういう時にお客さんを呼び込まなきゃ。何か案がないかな?」


「うーん、やっぱり基本は広告じゃない? チラシを配るとか」


「ちらし?」


「例によって言葉が通じないか。えっと、銭湯の壁に芝居小屋とか薬とか歯磨き粉とかの宣伝が所狭しと貼ってあるじゃない? あれを紙にたくさん刷ってあちこちに配る奴なんだけど、上手いところ伝わっているかな?」


「ああ、引札ひきふだのことだね。報状ほうじょうとも呼ぶよ」


「江戸ではそう呼ぶんだ。勉強になった」


「うちでも配りたいんだけどねぇ」


 お梅が深々とため息をつく。


「難しいのかな?」


「とにかく銭がたくさん要るんだよ。まず、紙が高い」


 彼女が指を一本立てる。


「次に文を書くのに銭がかかる。人気のある戯作者げさくしゃとか役者に口上を書いてもらうのがしきたりだし。大きいそば屋は式亭三馬しきていさんばとか曲亭馬琴きょくていばきんとか使っているよ」


 言いながら二本目の指を立てる。


「絵も付いたら見栄えが良くなるよね。人気絵師の歌川豊国うたがわとよくにとか葛飾為一かつしかいいつ(北斎)が描いてくれたら、店に入りきれないくらいのお客が集まってくるだろうね。絵師に支払って三つ目。他にも版木を彫ってくれる彫師で四つ目、紙に摺る摺師にも払うから五つ目」


 指が一本ずつ増えて、とうとう五本の指が立ってしまった。


「うちが手配するんじゃなくて地本問屋を通すことになると思うけど、どれだけの銭を使うことになるのかちょっと見当が付かないかな」


「……すごく大変だってのが俺にも分かった。有名人の名前がポンポンと出てくるくらいだし」


 今は文政四年。歴史の教科書でいうところの化政文化の時代だ。江戸を中心とした町人文化がまさに大きく花開いている真っ最中である。


 引札の制作過程を二十一世紀に置き換えると、広告代理店に依頼して有名人を起用するという感じなのだろう。


「宏明さんの考えは面白いんじゃないかい?」


 横で聞いていたお藤が口を挟む。


「お姉ちゃん、うちのどこにそんな銭があるの?」


「文を載せるのは諦めて、絵だけなら少し安くなるんじゃない?」


「それでも払えないと思うけどね」


「絵が江戸中の話題になれば、あふれんばかりのお客さんが来てくれるさ」


「払えないって言っているのに。全く分かっていないようだね、この姉」


 お梅が呆れ返ってしまった。


 しかし、お藤は気にせず続ける。


「ほら、『お仙の茶屋』みたいに評判になれば、うちの店の前に毎日行列ができるでしょ」


 お仙の茶屋は有名な浮世絵だ。宏明の知識の片隅に入っているくらいに後世まで名を残している。水茶屋の看板娘お仙を描いた作品で、江戸中から男どもが彼女見たさに殺到するほど評判を集めた。


「ほうほう。お姉ちゃんがお仙さんくらいに美人だって言いたいのかな? たいした自惚れだけど、鏡を見て出直しておいでとしか言えないね」


「――このおちゃっぴいは、どうしてこうも口が悪いんだろうね?」


 お藤が引きつった笑顔で妹の両頬をギュウッと引っ張った。


「いひゃい、いひゃいよお!(痛い、痛いよう)」


「姉妹でそっくりな顔をしているってのに、よくもまあそんなことを言えたもんだよ」


「あたひは大ひくなったりゃ、お姉ひゃんよりも美人になりゅかりゃ(あたしは大きくなったら、お姉ちゃんよりも美人になるから)」


「こりゃまた、たいした自惚れだねえ」


「だから、いひゃいって!」


 姉が手の力をさらに強めたようだ。


「あー、俺は水を汲みに裏へ行ってくるから」


 宏明は桶を持って台所から出た。姉妹は本気でケンカしているわけではなく、じゃれあっているだけのように見えるので、放っておくことにした。


 上水井戸は裏通りにあるので、狭い路地を通り抜けていく。


(珍しく井戸端に誰もいないか。――井戸って呼んでいるけど、この下は水道なんだよな)


 初代将軍徳川家康の頃からの事業で、江戸には上水道が張り巡らされている。この井戸は、地面に埋められた上水道から水を汲み出す作りになっているのだ。


 宏明が桶を置いて井戸をのぞき込もうとした時、後ろから声をかけられた。


「もしもし、ちょっとよろしいでしょうか?」


 振り向くと、二人組の男が歩いて近付いてきていた。


「えっと……若旦那さんでしたっけ?」


 二人のうち、色白の男は見覚えがあった。宏明が江戸に飛ばされた初日、力屋古橋にやって来た男である。


「いやはや、覚えて頂いておりまして恐縮です。アタシはこの近くの観桜庵かんおうあんというそば屋の倅で萩右衛門はぎえもんと申します。お見知りおきを」


 にこやかに笑いながら、萩右衛門があいさつをする。彼の身長は江戸の男性平均よりも少し低い一五○センチ程度だ。


「で、一緒にいるのが、かつぎの柳介りゅうすけ


 柳介と呼ばれた男が軽く頭を下げた。こちらは萩右衛門とは対照的に背が高く、一八○センチを越えているであろう。しかもガッシリとした体型で、見るからに力持ちだ。


 かつぎというのはそばの出前係である。


「えっと、俺に何か用でしょうか?」


 そば屋の若旦那が、他店の下っ端にわざわざ話しかけてくる理由が思いつかない。


「いえね、ちょっとしたお願いがあるんですよ」


 と言いながら、萩右衛門は宏明の手に何かを握らせた。


「……これは?」


 紙製の小さな包みだ。中に何が入っているのかは分からないがずっしりと重い。


 訝っている宏明に若旦那が声をひそめて話し始めた。


「お願いというのはですね、古橋のお店を辞めて、やどやに戻って頂きたいんです」


「はあ?」


「いやはや、あなた様のご迷惑にならないように、こちらが色々と取り計らいますのでご心配は無用」


 萩右衛門がポンと自身の額を叩いた。彼はずっと笑顔のままだ。


「この事はご内密にして頂きたい。まだ足りないと仰るのでしたら、もっとお渡しさせて頂きますよ」


 この言葉で、宏明は紙包みの中身に気付いた。貨幣だ。


 そして、力屋古橋で職人が次々に辞めていった理由も同時に理解した。この男が裏で悪さをしていたのだ。


 全てが頭の中で繋がった瞬間、宏明は紙包みを投げ捨てて萩右衛門に掴みかかった。


「この卑怯者が! コソコソと何をやってやがる!」


「ヒ、ヒエエェェ!」


「なんだってこんな汚い真似をしているんだよ!」


 殴ろうとする宏明と何とか逃げようとする萩右衛門、もみ合っているふたりの間に柳介が体を割り込ませた。


「おいおい兄さん、暴力はいけねえなあ」


「邪魔をするな!」


 柳介は暴れる宏明の手首を握り、無理矢理若旦那から引き離す。見た目に反せず柳介は相当に力が強い。


「クソッ! 放せ!」


 宏明が手を振り払おうと暴れ続けたが、突如として首の後ろが掴まれる感覚に襲われた。


(――え?)


 次の瞬間、彼の体が宙に浮いた。続いて、背中から地面に叩きつけられる。


「グガッ!」


 全く受け身を取れなかった。背中全体に強烈な痛みが走る。


「何をやっとるだあ! このタワケが!」


 痛みに苦しんでいる宏明に向けて怒声が浴びせられた。力屋古橋の職人の鹿兵衛だ。どうやら、彼が宏明のことを放り投げたのだろう。


「若旦那、うちの若い奴が迷惑をかけた。後から謝りに行くで、訴え出るのは待っとってくれ」


 言いながら、鹿兵衛は宏明を起こして、店の裏まで引きずっていった。


「いきなりケンカするとは何を考えとるだあ!」


 鹿兵衛が思いきり怒鳴りつけた。


「すみません……」


 やっと宏明の頭も冷えてきた。同時にとんでもないことをしてしまったという実感が湧いてくる。


 この時代、連帯責任が当たり前なのである。ケンカしただけでも力屋古橋と口入れ屋に迷惑がかかる。


 そして、奉行所から取り調べを受けるとなると、身元を偽造したのがバレてしまうかもしれない。こうなると、宏明だけではなく偽造に加担した者も厳罰に処される恐れもある。


「若旦那に殴りかかったわけを話せ」


「実は……」


 宏明は先ほど起こったことを包み隠さずに話した。


「何だって? うちの新入り職人が次々に辞めていったのはあの若旦那のせいだってのか?」


「おそらくそうだと思います」


「悪いのは向こうなんだがなあ。殴りかかってしまったもんで、こっちが悪者になってしまったじゃんねぇ」


「本当にごめんなさい……」


「取りあえず、旦那のところに行こまい。話をせなならんで」


 二人は店の中へ戻り、松三郎に全てを話した。


「そういうことだったのか……あの小童が仕組んでいたとは気付かなかったぜ」


 聞いた松三郎は苦虫をかみつぶしたような顔で腕を組んだ。


「すまねえ、旦那。ワシの目が行き届いていなかったもんで、こんな厄介ごとを抱えちまった」


「済んだことは仕方ねえ。オレが観桜庵に行って話を付けてくらあ。店が忙しくなる前には戻るから、それまでは鹿兵衛が取り仕切れ」


 松三郎が頭をかきながら、店の外へ出て行った。


「おい、天狗。何をボーッと突っ立っているんだ。お前も一緒に来い」


「え? 俺もですか?」


「詫びを入れるのに当人がいなかったら話にならねえだろ」


「は、はい」


 宏明としては若旦那に謝ることに抵抗があるが、こっちはすねに傷を持つ身だ。頭を下げてでも奉行所沙汰だけは避けなくてはならない。


「江戸で店を出すと商売敵から嫌がらせが来るのは珍しくねえ。だからいちいち怒っていたら商売にならねえんだ。覚えておけ、天狗」


「え? こんなことがよくあるんですか……?」


「解せねえのが、何だって観桜庵がうちの店に喧嘩を売ってきたのかなんだが……」


 二人で話しながら歩いていると、見知った顔が道の向こうから近付いてきた。


「こんにちは。古橋さん」


 やって来たのは、口入れ屋のお菊だった。


「誰かと思えばお菊ちゃんじゃねえか。ちょうど良かった。この後、暇だったりしねえか?」


「はあ、ついさっきお使いが終わったばかりなので、少しくらいなら平気ですが」


「そいつは都合が良い。ちょっくら付き合って欲しい。ここにいる天狗が観桜庵の若旦那と喧嘩しちまって、今から謝りに行くところなんだ」


「……喧嘩ですって?」


 お菊の目がキリキリとつり上がっていく、そして、怒りを押し殺した声で宏明に詰め寄った。


「揉めごとだけは起こさないでって言いましたよね?」


「いや、その、ごめんなさい……」


 彼女の迫力に負けて、宏明は口ごもってしまった。色々なところに迷惑をかけてしまっていると改めて気付かされる。


「そんなわけだから、お菊ちゃんも一緒に来てくれると助かる。お代は天狗のツラを何発引っ叩いても構わねえってことで」


「行かざるを得ませんね。別に宏明さんを叩く気はありませんが」


 お菊と合流して、三人で観桜庵へと向かった。

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