第9話 初出勤
「よし、今日から頑張ろう!」
大声を出して、宏明は気合いを入れた。
今日から力屋古橋で働き始めるのだ。既に店の半纏を着ている。
未来に帰るという目標は当分封印することにした。借金を返し終わるまでは江戸に残り続けるつもりだ。恩を受けたわけなのだから、きちんと報いると心に決めた。
指定された出勤時刻は朝の四つ(およそ午前十時)。二十一世紀のそば屋と比較するとずいぶん遅い。これは江戸のそば屋の慣習というわけではなく力屋古橋の経営方針とのことだ。
江戸時代の商家で働くのは住み込みが当たり前と思っていたが、力屋古橋にはそのスペースがないらしい。店舗兼住宅に暮らしているのは松三郎たち親子三人だけで、他の従業員は外から通っているとのことだ。
なので、宏明は近くの長屋に居を構えた。店までの通勤時間は徒歩で三分程度。目と鼻の先である。
口入れ屋の宿で暮らすという選択肢もあったが、店から遠いうえに大部屋での共同生活ということで、こちらは選ばなかった。
「おはようございます!」
店の前で掃き掃除をしていたお藤に、元気よくあいさつをした。
「おはよう、宏明さん。良かった。来てくれたんだ」
お藤がホッとしたような顔であいさつを返す。彼女は小袖をたすき掛けにしていて、腰に前掛けを身に付けている。働きやすい格好だ。
「――来てくれたってどういうこと? いくらなんでも初日からバックレたりはしないよ」
「ばっくれって何だい? ともかく、職人が初めの日から来ないってのはよくあることだから、心配していたんだよ」
「江戸の町はバイト以下の人が多いのか……」
「ばいと?」
「俺の口から田舎言葉が出ることがあるけど気にしないで」
「八王子も江戸も同じ武州なのに、随分と言葉が違うんだねえ。ともあれ、中に入ってよ」
お藤が宏明を店の中へ招く。
「ヒロお兄ちゃん、今日からよろしくね」
店内を掃除していたお梅が弾けるような笑顔で迎えてくれた。
「……チッ、来やがったか」
松三郎は苦虫をかみつぶしたような顔でのお出迎えだ。
(どうにも、やりにくいなあ)
雇い主から良く思われていないとなると、働くにあたって精神衛生上よろしくない。
「……父ちゃん、看板を出すまでは一切口を開かないで。宏明さんは台所へどうぞ。鹿兵衛兄さんも待っているよ」
父親に冷たく言い放ってから、お藤は台所へ案内する。
「待ってたで、ヒロ坊。まさか一緒に働くことになるとは思っていなかったわ」
台所では鹿兵衛が愛想良く声をかけてくれた。
「はい、今日からよろしくお願いします!」
「話は聞いとる。やどやからどえらい金を借りとるみたいだが、のんびりと少しずつ返していけばええ」
「そうですね。そのためにも仕事を教えてください」
宏明は台所を見回してみた。
まず目に入ったのは、そば打ちをするための「のし台」だ。木鉢やのし棒や包丁も一緒に置いてある。
次に目を引くのは、のし台の近くにある大きな竈だ。無論、そばを茹でたり、出汁を引いたりするための場所だろう。
その隣に木製の流し場があって、脇には桶が並べられている。
桶の隣には七輪と、調理・盛り付け用の台が置いてある。
(道具は違うけど、配置は未来のそば屋とほとんど一緒だな)
そばを作る工程順に並んでいる。動線を意識したレイアウトを追求すると、こういう形に行き着くのかもしれない。
ここで、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
「ちょうど四つか。じゃあ、今日の仕事を始めるで。ヒロ坊は釜下を見られないってお梅ちゃんが言っていたが、やっぱりできないのか?」
「できません!」
宏明は正直に答えた。
火打ち石の使い方は練習したので、火を起こすくらいならできるようになった。しかし、適切な火加減を作り出す方法なんてサッパリ分からない。
「なら、鰹節を削れ。できるか?」
「やり方を教えてください」
「お藤ちゃんに習え。鍋を呼ぶ(鍋に湯を沸かす)のはワシがやっとく」
鹿兵衛がお藤に視線を送る。
「はいよ。宏明さん、まずは鰹節を洗ってカビを落とすよ」
お藤のやり方を真似しながら、宏明も鰹節を順に洗っていく。
カビといえば食品にとって悪い印象があるが、鰹節の表面に付いているのは良いカビで、これにより旨味が増して生臭さが減るのだ。関東圏ではカビの付いた鰹節がおおいに好まれ、問屋がわざとカビを何度も付けているくらいである。
もちろん、悪いカビが付くこともあるので、削る前によく見る必要がある。
「洗い終わった鰹節は竈の上に並べて温めるよ。そうすると柔らかくなって削りやすいんだよ」
お藤が手慣れた様子で鰹節を並べていく。
彼女の動きを観察していた宏明だったが、視界の片隅で何かが動いたのでそっちに目をやる。
そこには、三毛猫がのんびりと歩いていた。
「にゃん」
三毛猫は宏明を胡散臭そうに見て、ひと鳴きした。そして、竈の方へ向かっていく。
「コラ、どこから入って来た? 猫が入って良い場所じゃないぞ」
「何を言っているんだい、宏明さん。この子もうちの飼い猫だよ」
「……え? シロだけじゃないんだ?」
「うちでは三匹飼っているよ。ほら、噂をすればもう一匹来た」
今度は茶トラ柄の猫がやって来た。三毛猫の隣に座り込む。
その様子を見ていた鹿兵衛が楽しそうに話し始めた。
「うち店の猫はどの子もお藤ちゃんが拾ってきたんだ。人に慣れとるで、怖がらんでいいぞ」
「増やしすぎだって父ちゃんに叱られたから、四匹目は難しいんだよねえ。――ミケ、トラ、宏明さんにあいさつしなさいな」
しかし、二匹の猫は見向きもせず、竈の近くで丸くなってしまった。
「――猫の名前がとっても分かりやすいことこの上ないんだけど、お藤さんが名付けたのかな?」
「うん、覚えやすいでしょ」
「なるほど、お藤さんのネーミングセンスが理解できたよ。って、そんなことよりもさ、猫が台所に入っているけど、追い出さないの?」
「追い出すなんて可哀想じゃない。火を使っているここが暖かくて居心地が良いんだろうし」
「飲食店の調理場で猫が許されるんだ。江戸ってのはすごい町だな……」
宏明が驚く。二十一世紀の日本で同じことをやったら、保健所から指導が入るだろう。
そんな彼に鹿兵衛が声をかけた。
「ヒロ坊、あの板を見てみろ」
「板というと銅壺の隣のやつでしょうか?」
銅壺というのは、釜の横に備え付けてある湯煎用の容器だ。この中に水を入れておいて、釜の余熱で温める。
「板の名を知っとるか?」
「分かりません。うちの店にはあんな板は置いてありませんし」
銅壺は宏明の実家にもある。しかし、木の板は付いていなかった。
「あの板は猫板って名だ。猫が上によく乗っかるで、そう呼ばれるようになったんだとさ。だもんで、昔から猫が台所に出入りしていたはずじゃんねえ」
「台所用品に猫の名前が入っているなんて、江戸の町には驚かされっぱなしですよ」
「八王子じゃあ猫を台所に入れんのか? となると、ネズミが住み着いてどえらいことになりそうだな」
「猫がいなくてもネズミが出ないように工夫していますよ。脅威ですからね」
害獣対策は古今東西全ての飲食店に共通する課題だろう。江戸ではそれを猫に頼っているようだ。
「ふーん、猫を置いた方が手っ取り早いと思うけどな。ワシの田舎でも、台所に猫なんて珍しくもなかったし」
鹿兵衛が不思議そうに首を傾げる。




