第8話 女湯にて
「ねえ、お姉ちゃん」
お梅が話しかけた。
「何だい?」
さな粉(そば粉をふるいにかけた時、落ちずに残った粉)が入った袋で二の腕をこすりながら、お藤が返事をする。
「ヒロお兄ちゃんがうちの店で働くのって今日からだよね?」
「そうだね。やどやからはそう聞いているよ」
宏明が江戸に来てから三日経っている。この間、人別帳を偽るために口入れ屋の方で手続きが行われていたとのことだ。そして、とうとう彼が働き始められるようになったと、お藤は昨日教えてもらった。
今は朝の五つ(およそ午前八時)。お藤とお梅の姉妹は湯屋(銭湯)に来ていた。
江戸で朝風呂に入る女性は少ない。たいていは朝の家事で忙しいからだ。それなのにどうして姉妹が湯屋に来ているのかというと、二人がそば屋の娘だからである。
そば屋と湯屋の営業終了時刻が暮れの五つ(およそ午後八時)で同じなのだ。防火の観点から、火を扱う店の夜間営業時間を幕府が規制しているのである。それを無視して夜に営業をしている夜鷹風呂というものもあるにはあるが、若い娘がわざわざ危険な夜道を歩くものではない。
というわけで、姉妹は朝風呂を浴びることにしている。女湯の中には二人の他に客はおらず、またこの湯屋は三助(浴場内のサービス係)を置いていないので、完全に姉妹の貸し切り状態だ。
「とりあえず、お姉ちゃんには伝えておくね」
お腹の辺りを洗いながらお梅が言った。
「一体何をだい?」
お藤が妹に目を向ける。
「ヒロお兄ちゃんが長続きしなかったら、うちのお店は潰れちゃうよ」
軽い口調ではあったが、とんでもない言葉が妹の口から出てきた。
お藤はそれを理解するのに数呼吸ほどかかってしまった。
「……どういうこと?」
「どうもこうもないよ。そのまんま。もしも、ヒロお兄ちゃんがすぐにやめちゃったら、借金を返せなくなっちゃうってこと」
「詳しく話しなさい」
「手短にまとめるとね――」
体を洗う手を止めてお梅は説明を始めた。
「うちって職人さんが足りないのが何ヶ月か続いていたでしょ。そのせいで店が回らなくて売り上げが落ちるわ、悪評が広まるわで散々だよね」
「そうだね。よく知っている」
「てなわけで、毎月の掛け払いはともかく、年末の大きな支払いが厳しいんだよ。それまでヒロお兄ちゃんが店に残ってくれて、なおかつお客さんが戻ってきてくれたら何とかなるかなって具合。今までは身内頼りで乗り切ってきたけど、もう誰も貸してくれないと思うよ。まともに返していないわけだし」
「そんなことになっていたんだね……。父ちゃんがのん気に構えているから平気なもんだと思っていたよ」
「お父ちゃんは楽天家だからね。一応、色々と動いてくれてはいるけど」
「わたしも父ちゃんのこと言えないね。のん気過ぎた。勘定のこと手伝おうか?」
「それはあたしがやるから、お姉ちゃんは台所の方をお願い」
「平気なの?」
「お互いの向き不向きを考えたら、この方が上手くことが進むでしょ。ともあれ、こんな時にヒロお兄ちゃんがよくぞ来てくれたものだよ。店に連れてきたお姉ちゃんのお手柄だね」
「わたしというよりもシロなんだよね。あの子が店の海苔を食べちゃったからわたしは上野へ行ったわけだし」
「そっか、シロに海苔をご馳走しよう。安いのを」
「――ご褒美なら吝いことを言っていないで良い海苔をあげなさいな」
お藤が小言を飛ばす。
「ひょっとしたら、ヒロお兄ちゃんを江戸に運んできたのって、天狗様じゃなくて明神様だったのかも」
「明神様がどうして?」
「きっと、明神様が困っているあたしたちを助けてくれたんだよ。うん、そうに違いない」
「うちの店は助かったかもしれないけど、故郷から江戸に連れてこられた宏明さんはとんだ災難だね……。ところで、明神様って男の神様じゃなかった? 女の声を聞いてから江戸に来たって、宏明さんは言っていたよ」
「神様だって女声を出したりするんじゃない? 女形みたいにさ」
「……明神様を芝居小屋の役者と一緒にするんじゃないよ。なんてバチ当たりな」
「明神様うんぬんは置いといて話を戻すよ。ヒロお兄ちゃんには長く働いてもらわないと困っちゃう。というわけで、お姉ちゃんはお世話をよろしくね」
「――何だってわたしが宏明さんを?」
妹から思わぬお願いが来て、お藤が戸惑う。
「だって、ヒロお兄ちゃんは台所で働くだろうし、お姉ちゃんも台所にいるんだからお父ちゃんを見張れるでしょ」
「待ちなさい。父ちゃんのせいで職人がやめているわけじゃないからね。そりゃあ、そばのことには口うるさいけど、近頃は控え気味だし」
「じゃあ、シカお兄ちゃんが悪いの? いじめはないと思うんだけど。あの人ってすごく面倒見が良いし」
「うん、鹿兵衛兄さんのせいで新入りさんがやめるなんてありえないよ」
「――なら、どうして職人がすぐに逃げ出しちゃうんだろ?」
「わたしにも分からないよ」
そうなのである。揉めごとやらがあったわけではない。それなのにどういうわけか職人が急にやめてしまうのである。
「ともかく、ヒロお兄ちゃんのことはお姉ちゃんにお任せするからね」
お梅が軽い口調で言って、再び体を洗い始めた。
「ちょっと大変かもしれないけど、店を守るためだから」
「店を守る……」
妹の言葉が胸に突き刺さる。
二年前に死んだ母親の遺言なのだ。何があっても店を守って欲しいというのが。
「じゃあ、あたしはもう一度湯に浸かってくるから」
お梅が小桶に入ったお湯を体にかけて、柘榴口(浴槽への入り口)の方へ歩いて行ってしまった。
(店のためにわたしも頑張らなきゃ)
残された姉は心の中で決意を新たにする。
「けど、そもそも宏明さんはきちんと来てくれるのかねえ……」
まずそこから心配しなくてはならないお藤であった。




