デリート
<第一章> 純子の死
放課後の教室。
俺達「窓際部」のメンバー5人はいつものように窓際の席に集まりまどろんでいた。
体育館からはバスケのドリブル音が、グラウンドからは掛け声や、サッカー部のボールを蹴る音、また時折カキーンという野球の金属音が心地よく聞こえてくる。
俺達は各々、いつもの場所に座り、外を見たり、本を読んだり、居眠りしたり、思い出したように少し会話したりしている。俺たち以外に教室に残っている者はいない。
「窓際部」のメンバーを紹介したい。
まず俺は中上孝介、高校2年生。
自分で言うのも変だが、理論的な思考の持ち主で、悪く言えば理屈っぽいところがある。
推理小説も好きでよく読むが、たいがい最後まで読む前に犯人が分かってしまう。また、ちゃんと理論的に筋の通った結末でないと納得できないタイプだ。
次に中上玲奈、俺の双子の妹だ。兄の俺が言うのもなんだが、ルックスはかなり可愛いと思う。内気でおとなしいが、とてもやさしく純真で、すぐに人を疑ったり、傷つけたりしてしまう俺とは真逆の性格だ。そんな彼女を俺は誇らしく思っているし、彼女を守るのが俺の生き甲斐と言って良い。
俺が生まれてから一番の古い記憶は3歳ごろ、玲奈が父親から虐待を受けていたとき、玲奈を守るため父親に向かっていったことだ。勿論、勝てるわけもなく、散々打たれた記憶がある。
俺達は、幼稚園児のとき両親が離婚し、母に引き取られた。しかし母は俺達が中学2年生の時に亡くなり、その後俺達を預かっていた祖母も2年後に亡くなったため、今は児童施設に身を寄せている。
恵まれた環境では無かったが、俺達兄妹はお互いを励まし合い、亡くなった母や祖母に恥ずかしくない、まっすぐに生きてきたつもりだ。
里見紳一郎。こいつは俺達兄妹の幼稚園からの幼なじみで、何でも相談できる一番の親友だ。いつも俺とは冗談ばかり言っているが、真面目に相談すれば、すぐ切り替えてちゃんと真面目に答えてくれる。頭が良く、学校の成績も優秀なのだが、相談するといつも適切なアドバイスが返ってくるからとても信頼できるやつだ。
他には、加藤あやと武井菜々美。あやはコギャルみたいなところがあってやんちゃなイメージ、菜々美はいつもクールで冷静なイメージだが、二人とも根は心優しいやつだ。
あやと知り合ったのは母が死んで祖母に引き取られたとき、菜々美と知り合ったのが祖母が死んで施設に引き取られたときと重なったこともあり、二人は玲奈の良き相談相手となってくれた。
ちなみに「窓際部」というのはあやがふざけて付けた名なのだが、皆何となく気に入って自分たちのことをそう呼んでいる。
ある初夏の放課後、その出来事は突然起きた。
俺はいつもの席で、やさしい暖かさに誘われてウトウトしていたが、周りがざわざわと騒々しいことに気づいて目が覚めた。
いつの間にか教室の反対側、つまり廊下側に体育着やジャージ姿の生徒が集まり、廊下をあわただしく先生や生徒が行き来している。
「何かあった?」
俺は目の前に座っていた紳一郎に尋ねた。
「純子が倒れたって。救急車呼んでるけど、もう手遅れだって」
「どこで!?」
とっさに立ち上がろうとしたが、紳一郎が袖を掴んで制止した。
「行かない方が良い。中庭らしいけど。野次馬が増えると迷惑だろ」
「確かにそうだ」
俺は心の中で思い直し、席に座った。ただ心の中のざわつきは簡単には収まらない。
純子は俺達「窓際部」と同じクラスの生徒で、クラス委員をやっている。自己主張が強く、意見が食い違う相手には攻撃的になるところがあるので正直、俺は苦手だ。
そうこうする内に、担任の五十嵐先生が教室に入ってきた。五十嵐信也先生は高校1年から俺達の担任で、担当は国語。うちの学校は事情を抱える家庭が多く、カウンセリングの資格を持っている先生が多いのだが、五十嵐先生もその一人だ。俺は今のところ相談したことは無いのだが。
先生は努めて冷静に「学校に残っている生徒は速やかに、そしてなるべく複数人で下校するよう」指示した。俺も他の生徒も聞きたいことはたくさんあったと思うが、誰からも質問は無く、皆先生の指示に従った。
今思えば、この出来事をきっかけに俺達は奇妙で恐ろしい事件に巻き込まれていくことになる。
<第二章> あやの失踪
翌日になると、純子の件はある程度詳細に情報が伝わってくるようになった。
ただ自殺なのか、他殺なのか、事故なのか、まだ断定できないらしく、警察からの先生、生徒への聴取も本格化していた。
純子は中庭に倒れて死んでいた。おそらく3階か4階の渡り廊下から落ちたらしい。
ちなみに俺達の教室は3階、渡り廊下までは、間に教室が2つあるだけだ。
そんな近くで事件が起きていたとは!
事件発生当時、「窓際部」全員が教室にいたことを紳一郎と玲奈が証言し、俺達が疑われることはなかった。
残念ながら俺はうたた寝していたため、事件解決に繋がるような物音などは一切記憶がない。
起きていた紳一郎や玲奈も特に気付いたことは無かったようだ。
純子の事件の翌々日、あやが学校を休んだ。
そして次の日も、その次の日もあやは学校に来なかった。
「どうしたんだろう?」
3日も休んだことは今まで無かった。
「さあ」
紳一郎にも玲奈にも菜々美にも連絡は無いようだ。
あやも家庭の事情で施設から学校に通っている。心配なので一度行きたいところだが、施設の名称が思い出せない。
五十嵐先生に聞いてみたが「ちょっと体調が優れないだけ、心配しなくて大丈夫」と施設名は教えてくれない。
うちの学校は難しい家庭が多いため、プライベート情報には慎重だ。やむを得ない。
あやが休むようになって一週間が経ったころだ、俺はあやからの手紙を受け取った。
それは、俺の教科書に挟み込まれていた。
「ごめんなさい。どうしても我慢できなかった。多分私はこの世から抹消される。そしてあなたにも同じ災難が降りかかることになる。本当にごめんなさい。あや」
あやは字に特徴があるからすぐ分かる。間違いない、あやからの手紙だ。
だが内容はさっぱり分からない。分からないことだらけだが、とにかく恐ろしい内容だ。あやは何を謝り、何故抹消され、そして俺にどんな災難が降りかかると言うのか。
こういう時こそ冷静に考える必要がある。俺はざわつく心を押さえ、俺なりに考えを整理することにした。
まずあやが居なくなったタイミングから見て、純子の事件と関係があると考えるのが自然だ。
とすると、「我慢できなかった」というのは純子に何か言われて我慢できずに殺してしまった、ということか?
そうだとして、それが原因で「この世から抹消される」とはどういうことだろう。警察に狙われているのであればこの表現は違和感がある。恨みを持った人物に狙われているということか?
最後に、俺に同じ災難が降りかかるというのはどう考えるべきだろう。俺には誰かに恨まれるような心当たりは全くない。あやと仲が良かったというだけで標的にされてしまうということか?だとすると他のメンバーも危ないのではないか。
そういえば、あやはいつこの手紙を差し込んだのだろう。あやが学校に来なくなる前なのか、それとも後なのか。後だとすればあや以外の誰かが俺の教科書に入れたということになる。
いや待て。この手紙には宛先が無い。ひょっとすると間違えて俺の教科書に入れた可能性もある。
考えれば考えるほどまとまらない。これだけでは絶対的に情報が足りないのだ。
やはり紳一郎に相談しよう。巻き込むことになるかもしれないが、あいつのアドバイスはいつも適切で頼りになる。それにあいつもあやのことは心配なはずだ。
翌日の放課後、俺は紳一郎にあやからの手紙を見せ、俺なりの意見も伝えた。
紳一郎はさすがに一瞬動揺した様子を見せたが、黙ってしばらく考え、そして口を開いた。
「本当にあやからの手紙だろうか?」
「これはあやの字だと思うが」
「字を似せることは難しいことじゃない」紳一郎は自分の考えを整理しつつ話を進めた。
「純子の事件があった時、窓際部は全員教室にいた。これは間違いない」「第三者がこれを書いて孝介の教科書に入れたんじゃないか?」「問題はその第三者が何を期待してそうしたかだが、そいつは俺や玲奈の証言を疑っているのかもしれないな」「つまり窓際部の中に犯人がいると考えている誰かが仕組んだ」「もし犯人が窓際部の中にいたらこの手紙でかなり動揺するだろうからな」
なるほど、俺の中には無かった発想だ。そうであれば宛先が書かれていなかったことや恐怖感を与えるような書きぶりであることも納得がいく。
「どうしたら良いだろう?」
「無視するのが一番じゃないか」
紳一郎はすでにすっきりと答えが出た顔をしている。
手紙に対する対応は紳一郎の意見で異論はなかった。ただ、あやのことは心配だ。本当に体調不良なだけなら良いが、この手紙を入れた第三者に誘拐されたということはないのだろうか。
「明日、もう一度先生に聞いてみよう」
紳一郎と約束した。
<第三章> 孤独な戦い
翌日、約束通り紳一郎に声をかけた。
「あやのこと先生に聞いてみようぜ」
すると、紳一郎は想像もしなかった言葉を口にした。
「あやって誰?」
「あやはあやだよ。加藤あや」
「?」
紳一郎は不思議そうな顔をして俺を見ている。
「昨日、手紙を見せたじゃないか。今日、先生に聞いてみようって」
「手紙?」
相変わらず紳一郎は不思議そうな顔をして俺を見ている。
俺は動揺した。紳一郎の顔が冗談を言っている時のそれとは明らかに違ったからだ。
「え?本当に加藤あやのこと分からない?」
「うん。誰?」
俺はひどく怖くなってこれ以上聞くのをやめた。紳一郎の表情は嘘や冗談じゃない。本当に記憶に無いのだ。
頭が真っ白になった。俺の頭がおかしくなったのだろうか?
玲奈や菜々美にも聞いてみたが、紳一郎と同じリアクションが返ってきた。
五十嵐先生にも聞いてみたが同じだ。
加藤あやという人物はこの世に居なかったことになっている。
「あの手紙の通りだ」
俺は背筋が凍りつくような大きな恐怖に襲われた。
「そのうち俺も消されるのだ」
一人の人間を存在しなかったことにするなんて、そんなことが出来るのか。人の所業とは思えない。
「もはや受け入れるしかない」という諦めの気持ちと同時に、「どうせ消えるのなら真相を知ってから消えたい」という気持ちもふつふつと湧いてきた。
少なくともあやは消される前、何かを感じ取っていた。俺は手紙を読み返した。
手紙はまだ手元にあった。最後に「あや」としっかり書いてある。今となってはあやがこの世に存在していたという唯一の証しであると同時に、俺の頭がおかしいのではないという証拠でもある。
「やはり、純子が死んだあの日が全ての始まりなのだ」
俺は意を強くした。
しかしその時、俺は寝ていて記憶が全くない。いや、ちょっと待て。全くという訳でもない。うたた寝なので、ぼんやりだが記憶はある!
施設に帰り、自分の部屋で俺は必死に当時の記憶を呼び覚まそうとした。それこそ命がけなのだ。
暗闇の中、目を閉じて記憶を遡っていく。周りの騒がしさに目を覚ましたその前に、前に・・・
駄目だ。思い出すヒントのようなものは何か無いだろうか。音とか、匂いとか・・・
待てよ。俺が寝ていた席はかなり日差しが強く当たっていた。なのに俺にはそれがすごく暖かく、気持ち良く感じていた。これは日の当らない寒い場所から暖かい場所へ移動してきた感覚だ。
うとうとする前、俺は廊下側あるいは学校内の日の当らない場所にいたのだ。
俺は日の当らない場所を色々イメージしながら記憶を遡った。
「やはり渡り廊下だろうか」
渡り廊下の景色を強くイメージした。
その時一瞬であるが、信じられない絵が脳裏に浮かんだ。
純子だ!純子が渡り廊下の手すりに座って俺に何か話しかけている!
「まだ。もっとだ」
そんな絵が浮かんだことに驚きながらも俺は集中を続けた。
あやだ、あやがいる。純子が話しかけているのは俺にじゃない、あやにだ。
それに、視界の端で見切れてはっきりとしないが、玲奈と菜々美の気配もある。
純子が何を言っているのかは分からない。ただ「迷惑」という言葉を何度か繰り返しているイメージだけ伝わってくる。
その時、突然あやが純子の両足を勢いよく持ち上げ、純子が落ちた。
ここまで思い出したところで俺は力尽き、記憶の世界から引き戻された。
「あやが犯人だ。そして俺達もそこに居た」他の記憶とは違って明確なものではない。しかし何故かその信頼性には自信があった。
しかしそこから先は謎のままだ。あやは誰に消されたのだ?
いずれにせよ、危険は俺だけじゃない。玲奈と菜々美も危ない。
<第四章> 菜々美の言葉
しかし新たな記憶について玲奈には言いにくい。
なぜなら紳一郎と玲奈は警察に窓際部全員が教室にいたと証言している。多分、純子が酷いことを言い、かっとなってしまったあやや、その場に居合わせてしまった俺や菜々美を紳一郎と一緒に庇ったのだ。俺はおそらくショックから一部記憶を失ったのだろう。
しかし危機は迫っている。時間的な余裕はない。
俺はまず玲奈ではなく、同じく事件現場にいた菜々美と話をしようと考えた。
もう少し正確にその時の状況が分かれば、危険をもたらしているのが誰か分かるかもしれない。
学校に着くと、すぐに菜々美から近寄ってきた。
「放課後、二人で話したいんだけど良い?」
俺が言おうと思っていたセリフをそのまま菜々美が言った。4時に校舎裏で待ち合わせることとなった。
4時少し前に校舎裏に着くと、菜々美はすでにそこにいた。
「話って何?」
俺が切り出すと、菜々美は落ち着いた口調でこう返してきた。
「孝介はどこまで知っているの?」
事件当時の記憶のことだろうか?いや違う、菜々美はもっと別の何かを知っているのだ。
「菜々美こそどこまで?」
「私は本当に最近よ。それを知ったのは」
「それって?」
菜々美は答えなかった。
俺は少しもったいぶった言い方をしたことを後悔した。もとより菜々美には全てを話すつもりでこの場に臨んでいる。
俺は純子の事件当時の記憶が戻ったこと、あやからの手紙や、それを紳一郎に相談したことも話した。
「俺だけじゃない。君や玲奈も危ないんだ」
「その手紙を見せてくれない?」
「いいよ」
手紙を見せようと俺が菜々美に近寄った瞬間、キラッと何かが光った。反射的に体をかわすと、菜々美が更に腕を大きく振った。手にはナイフのような物を持っている。
「!」
驚きで言葉が出ない。
「ごめん!」
菜々美が突いてきた。俺は必死で菜々美の手首を掴んだ。
「なぜ!?」
菜々美は答えない。
「もしかして、あやも君が!?」
菜々美は無言のまま、手首を掴んだ俺の手をほどこうとしている。
「あっ!」
もみ合っているうちに、ナイフが菜々美の脇の辺りを切った。
「もうやめよう。ナイフを放してくれ」
俺は菜々美を強く突き放しながらそう懇願した。
しかし一度引き放された菜々美が、勢いをつけて飛び込みながら突いてきた。
二人はもみ合いながら倒れ、その時、ナイフが菜々美の胸に突き刺さった。
「なんで」
息を切らしながら俺が尋ねると、仰向けに倒れた菜々美の目じりを大粒の涙が伝った。
菜々美は何かを言おうとしたが、それを止め一言だけ言った。
「ありがとう」
そのまま菜々美は動かなくなった。俺は全ての気力が失せ、何も考えられないままその場を去った。
俺はそのまま施設に戻り、部屋で呆然としていた。
今頃、学校では大変な騒ぎになっているだろう。そして、そう時間も経たないうちに警察がここに来て俺は逮捕される。玲奈は悲しむだろう。
玲奈の悲しむ顔を思い浮かべ、俺はやるせない気持ちで一杯になった。
「でもこれで玲奈は安全だ」
そう思った瞬間、疑問が湧いてきた。
「本当にそう言い切れるだろうか」
菜々美があやを殺したのは間違いなさそうだ。あやが手紙に書いていた「俺に同じ災難が降りかかる」というのも事実だった。
だが理由が分からない。菜々美があやや俺を殺す理由が見当たらないのだ。
菜々美は純子と仲が良かったのだろうか?その恨みなのか?
いや、違う。
校舎裏で話した菜々美の印象は、そういう憎悪や恨みといった感情ではなかった。
「ごめん」と言いながら俺にナイフを向けてきた。そして最後に「ありがとう」と。
何か弱みを握られ、俺を殺すよう命じられた、そう考えた方が自然だ。
そこで俺は一つ疑問に感じた言葉を思い出した。
菜々美の「それを知ったのは最近だ」という言葉だ。
あれは何の事だったのだろう。菜々美は俺が「それ」を知っていると勘違いし、知らないと分かったら明らかに話をそらした。
「それ」を知ったことが彼女の「弱み」になったということだろうか。
その辺をはっきりさせたい。はっきりしないと玲奈が安全かどうか確信を持てないのだ。こんな状態で警察に捕まる訳にはいかない。
<第五章> 真実
外の車の音にびくびくしながら、悶々としているうちに夜が明け、朝となった。
学校に行こう。行って紳一郎と玲奈の前で全て話そう。玲奈は紳一郎に守ってもらうしかない。
そう覚悟を決めた。
学校に着いた。不思議なことにそこはいつも通りの時間が流れていた。俺は教室に入り、席に着いた。誰も菜々美の話をしていない。
「まさか、まだ誰も気付いていないのか?」
それはあり得ることだ。校舎裏はめったに人は行かない。そう思うと、俺は一日そのまま放置した菜々美に申し訳ない気持ちがこみ上げ、急いで校舎裏へ向かった。
しかし、校舎裏に菜々美はいなかった。
「死んでなかったんだ」
「今度は玲奈が危ない!」
俺はとっさにそう思い、急いで玲奈のいる教室に向かった。
玲奈がいない!
俺は慌てた。焦って大声で玲奈を呼びながら学校中を走り回った。おそらくちょっとした騒ぎになったのだろう。何人かの先生が教室から出てきて俺は捕まり、五十嵐先生が呼ばれた。そして、それらの先生に取り囲まれるように保健室に連れて行かれた。
「玲奈を探してください!」
「玲奈ならそこに居るじゃないか」
五十嵐先生の言葉に振り返ると彼女がいた。
心配そうに俺を見ている。
「良かった」
俺は本当に安堵した。
程なく紳一郎も現れた。
俺が落ち着いたのを確認すると、先生達は紳一郎に俺を任せて保健室を出て行った。
俺は二人に、菜々美に襲われ逆に刺してしまったこと、しかし菜々美はまだ死んでおらず危機は去っていないこと、を足早に話した。
二人は黙って聞いている。
俺は周りの安全を確認しつつ、二人は「あや」の存在を忘れてしまっているが「あや」は確かに存在し、あやが純子を殺し、菜々美があやを殺したことを話した。
その瞬間だ。何かとても冷たいものが背中から俺の体にグサッと入ってきた。
玲奈だ。玲奈が俺に体を預けている。
「ごめん。お兄ちゃん」
玲奈の小さい声が聞こえた。
「孝介」
正面に座っていた紳一郎が話しかけた。
「孝介、お前は俺の本当の親友だった。これだけは信じてほしい」
これだけ言うと、紳一郎は言葉を詰まらせた。
「ごめんお兄ちゃん。いま抜くね」
玲奈の小さい声が聞こえた。玲奈はうつむいたまま顔を上げない。ただ声は涙声だ。
「抜かなくていい」
今まで何となくあいまいに思っていたこと、それら全てが明確になった。
そうだ。俺は玲奈の別人格なのだ。あやも菜々美もそうだ。俺は父親から虐待を受けていた時、あやは母が死んだ時、菜々美は祖母が死んだ時、この世に「生まれた」。
純子の辛辣な言葉にあやが暴走した。それにより多重人格の危険性が顕在化し、玲奈と紳一郎は対応せざるを得なくなったのだ。
「生まれた別人格は自分で消えることはできない」
意識が遠くなりつつある俺に向かって、紳一郎が必死に話しかけている。
「お前だけは、玲奈も俺も手にかけたくなかった。だからごめん。卑怯なやり方だったが菜々美に頼んだ。本当に酷いことをした、お前にも菜々美にもあやにも」
「いいんだ」
紳一郎の気持ちは全て俺に伝わっている。俺は心配事が全てなくなり、とても穏やかな気持ちになっていた。最後にそのことを伝えようと言葉を探した。
「俺達は確かに存在した。そして良い記憶としてお前たちの心に生き続ける。そうだろ?」
僅かに開いた窓の隙間から春風がそよぐ。
グラウンドからはいつものように野球部やサッカー部の掛け声が響いていた。
-完-