7.もうこの子を見たくない
「ゾフィー。貴女にろくな教育を施せなかったのはこちらの不手際だったけど、これだけは言わせて貰うわ。
貴女がこの学園から勝手に逃走した後、クルーガーの皆は貴女の心配をしていたわ。
特におばあ様がね。……そのおばあ様が天に召されたわ」
「…………え? てんにめされた? って、何?」
「もうこの世にはいらっしゃらないという事よ! 亡くなったの! ある日突然、何かを探しに外へ出たってメイド長のテレーゼが言ってたわ。いつもは邸内から出ないおばあ様がっ! 誤って用水路に落ちたのっ! すぐに助け出されたけど、人を呼ぶのに時間がかかってしまったって。冷たい水の中に落ちたショックで、心臓発作を起こしたのだろうって」
泣きながらわたくしに謝るテレーゼの姿を思い出す。自分がもっと早く大奥様に追いついていればと泣き崩れた。用水路に落ちた成人女性を老齢の彼女一人で助け出すなど至難の業。わたくしはテレーゼの肩を撫でて一緒に泣く以外、どうしたらいいのか判らなかった。
だってわたくし自身は遠く離れた王都に居て、葬儀にも間に合わなかったのだから。緊急事態時に特別に飛ばされる鳩のお陰で知った訃報。急ぎ帰郷したけれど、どんなに急いでも一週間以上かかってしまう距離が恨めしかった。
ゾフィーは目を丸くしてわたくしを見上げる。思ってもいなかった事実を聞かされた、という表情。
これは演技? それとも本当?
「三ヵ月前のことよ! おばあ様は貴女の名を呼んでいたって、テレーゼは言ってたわ。貴女のこと、可愛がっていらしたからって。でも! まさか貴女がクルーガーの本邸にいたなんて!」
本邸に忍び込んで盗みを働いたゾフィー。
何を思ってそんな事したのか判らないけれど、人目を忍んで行動したのでしょう、盗み目的なら。勝手知ったる場所で隠れ進む事など容易かったでしょう。誰もゾフィーが居たなんて知らなかった。誰もゾフィーの姿を見なかった。
でも、彼女の姿を見た人間がいたのだわ。
おばあ様が、彼女を見たのだわ。
もう認知症でボケていたけど。
可愛がっていたゾフィーの姿を見かけたから、探したんだわ。泣いて自分の処に逃げ込むゾフィーを覚えていたからこそ!
誰かにいじめられたと泣く子どもを保護しようとして、外に出たのだわ!
そしてご自分が、誤って用水路に転落してしまった………。
「ばかっ! ゾフィーのばかっ! どうしていつもみたくおばあ様の処に行かなかったの? どうしてこっそり本邸に忍び込んで盗みなんてしたの?! あなたのせいで……っ」
いいえ。
確実ではない。
ゾフィーのせいではない。
おばあ様の死の真相は、わたくしが推測しただけ。
でも!
それでもっ!
温かい腕が後ろからわたくしを抱き留める。
「泣くな、ブリュン」
耳元でオリヴァー様の柔らかい声が囁く。大きく温かい手が宥めるみたいにわたくしの頭を撫でる。
……わたくし、泣いていたのね。
「おばあさま、しんじゃったの?」
どこか、あどけない声でゾフィーが呟いた。
もうやだ。もうこの子を見たくない。庇いたくない。関わりたくない。
この子を可愛がっていた温かい記憶もあるけれど。
もう、いやだ。
わたくしはゾフィーから顔を背け、頑是ない子どものようにオリヴァー様の胸に顔を埋めた。
「ゾフィー・エーレと言ったか。お前が持ち出したこの書類はな、大陸公用語で、こう書かれているんだよ。“雇用契約書”って」
「こよう、けいやくしょ……? って、何?」
「ここに名前を書いてある人間を、正式に雇います、って書いてあるよ。住み込みです、給料は…あぁ、5歳の幼児にこの金額か。破格の待遇だね。それを今まで積み立てたのならそれなりの金額になっているね。なんて、君に優しい契約書だろう! それに自分で言っていた通りだとすれば、君自身が契約違反をしているね。労働拒否して女主人の元に侍っていたのだろう? それを許される環境に居たのに、いじめられていたって? 甘やかされていたの間違いじゃないのかい?」
どこか嘲るような響きでジークフリート殿下が追求しています。
「その上、高等部から入学を許されたなんて、平民の子どもに対してなんて好待遇だ! だというのに、勝手に学園から逃げ出したって言ってたな? そうして雇い主の屋敷に忍び込んで書類を盗んで? 公の場で雇い主とその令嬢の名誉棄損か? お前、どれだけ犯罪の上塗りをしたら気が済むんだ? しかも俺のブリュンを泣かせたな。その罪、天井知らずだな!」
「落ち着け、オリヴァー」
「お兄さま、私怨は別にして下さい」
もう、わたくしはゾフィーを見たくない。
だからオリヴァー様の胸元しか見えません。
そんなわたくしを抱き締めて抗議してくれたオリヴァー様。
そして、そんなオリヴァー様を諫めるジークフリート殿下とイザベラ。
わたくしには、わたくしを気遣ってくれる人たちがいる。
「おねえさまは、やっぱりズルい……」
あの子の声が聞こえたけれど、もうわたくしは振り向かなかった。
「ブリュンヒルデ君。この子を私に預けないか? 丁度、クルーガー家との契約書もある事だし、これは破棄して、私の処に来ればいい」
ジークフリート殿下の耳を疑うような発言には、びっくりして殿下を見てしまいましたが。