百匹目の竜
まったく救いのないバッドエンドです。お気をつけください。
酒場のドアが開け放たれ、戸枠に下げられていた鈴が鳴り響いた。新たな客は大股でカウンターのほうへ歩んでいく。振り子の手から躍り出る賽の目を凝視している男たちは脇見をしようともしなかったが、喧噪に包まれていた店中の空気が静まり返るにつれて、ひとり、ふたりと首を巡らせた。
客は六フィートと三インチはあろう長身の男で、ひと目で異邦人としれた。頬骨と鼻梁の嶮しい貌は皙く、双眸は紫水晶を思わせた。鉛色の髪は後ろで束ねられており、裾が綻びている黒い外套は旅暮らしの長さをうかがわせる。胸甲も、胴衣も黒い。佩いている剣もまた、柄も鞘の拵えともに漆黒であった。
カウンターの前へたどりついた異邦人へ、酒場の主人はうかがうような目線を投げかけた。それどころか、店中の目が、長躯の珍客を眺めている。男のほうは、集中する目路にまったく感づいていない気振りで、椅子にも座ろうとしないまま金貨を一枚取り出した。
「地酒をもらおうか。異邦人に自信を持って奨められるものを頼む」
「……お客さん、見たところたいそう腕がお立ちになるようですが、こんな辺鄙で平和な村になんのご用で? まさか、地酒のきき比べが趣味というわけではないでしょう」
グラスに琥珀色の液体を注いで差し出し、主人は男へ問いかけた。ひとくち呑って、味には満足したのか、異邦人の血色の薄い口の端がゆるんだ。
流れ出した声の響きは、やはり乾き、冷たい。
「俺はこれまで九十九匹の竜を屠ってきた。次の獲物が百匹目ということだ」
「このあたりに悪竜などおりませんが」
「うん? 俺の聞いていた話と違うな。この村では年に一度、銅月の蝕の晩に、緑泉に潜む竜へ生け贄を捧げているそうだが」
「緑泉の淵にはたしかに竜が棲んでいます。しかしあのドラゴンは湧き出す水を清浄に保ち、毎年の収穫を豊かにしてくれる、この村の守護神です。退治するにはおよびません」
竜は討たれるものと決めてかかっている異邦人へ話をしつつも、酒場の主人は嫌な予感にとらわれていた。目の前の竜狩人は、そんなことは承知の上でやってきたのではないか。
はたして、異邦人は空になったグラスをカウンターに戻すと、こううそぶくのだった。
「お前たちは騙されているのだ。竜は生け贄を喰らうだけで、対価を人間に与えたりはしていない。よしんばなんらかの益をこの村にもたらしているとしても、生け贄の供給源であるから最低限の便宜を図っているに過ぎん。家畜に餌をやるようなものだ」
「そんなことはありません。かつて緑泉の竜が病に倒れ、この村は危機に瀕しました。ほうぼう手を尽くして国一番の占術師を招き、星辰を観てもらったところ、かのドラゴンは銅月から霊力を得ていることがわかったのです。ゆえにわれわれは銅月の蝕が竜を弱めぬよう、自主的に糧を献上しています。生け贄ではなく、守護神と一体になる聖なる務めであり、だれも強制はしていませんし、ドラゴンの元へ遣わされる資格を保つことは名誉あることです」
酒場の主人はなおも事情を説いたが、異邦人は冷笑を浮かべていた。
「信じるに値せんな。その占い師とドラゴンが結託してお前たちを詐術にかけただけのことだと、なぜ疑わない? 竜は水と豊作を守っているのではなく、生け贄と引き換えに妨害せずにいるだけのことなのだ。邪竜はお前たちを迷信で縛って悠々と肥えているぞ。俺がいままで仕留めてきたドラゴンのうち、半数はそういう輩だった。残りの半分、堂々と悪事を働いている連中のほうが、まだかわいげがある」
そういってきびすを返した異邦人の背へ、酒場の主人は最後の声をかけた。
「旅のかた、緑泉の竜を討つというのですか」
「この俺が、お前たちを迷妄から救い出してやろう」
賭博台を囲んでいた男たちがいなくなっていることを視野のすみに認めながら、異邦からきた竜殺びとは酒場の戸口をくぐって暮れなずむ空の下へと出て行った。
そのままうら寂れた辺鄙な村を横断し、緑泉へと続く小道に出ようというところで、男は足を止めた。
緑泉から流れ出る川の岸辺に建てられている、水車小屋のほうへ向け、語を投げる。
「出てこい。そんな大人数で潜んでいて、気配を隠せるわけがなかろうが」
声に応じて現れたのは、十人の村の男たちだった。先ほど、酒場で賭博台を囲んでいた顔も混じっている。みな、手に鍬や鋤、殻竿を持っていた。
異邦人は侮蔑の目で農夫たちを見やりながらも、あくまで冷たく乾いた声をかけた。
「生け贄を要求するドラゴンへ逆らう勇気はないが、邪竜退治にきたよそ者へ向ける刃はあるということか」
「あのドラゴンは悪いドラゴンじゃねえだ。村の守り神を殺そうだなんて、おらたちからすればあんたのほうがよほど悪いやつだ」
そういった農夫のひとりへ、異邦人は鋭い視線を据えた。今度は侮蔑を隠さず、いう。
「お前は気楽だろうな、年に一度、生け贄にされる女子供を見送って嘘泣きのひとつもしていれば安穏と暮らしていけるのだから。お前のようなやつは、豚となにも変わらん」
「それは違います」
反駁の声は別のところからあがった。異邦人が視線を動かすと、声の主が進み出てきた。男たちの中でも若く、まだ少年であった。
異邦人からほんの三歩のところまで近寄ると、少年は口をひらいた。
「ぼくは今年のくじであたりを引けなかった。来年も喜んでくじを引くでしょう。ドラゴンへの献上物としての資格を持ちうる限り、ぼくは何度でもくじを引きます。ここにいる大人たちにしても、最低でも三度はくじを引いている。あなたに豚呼ばわりされるいわれはない」
「なるほど。所帯を持ち、村の成員として認められるには、生け贄のくじを三度以上引かねばならないというわけか。守らなかった者は追放かな。事情を知れば知るほど、お前たちは実体なき迷信に惑わされているだけに過ぎんということがはっきりしてくる。俺がその下らんしがらみの根を断ち切ってくれよう。竜が死んだ後に残るのは、清浄なままの水と豊かな実りだ」
「あなたが竜を殺してしまって、清らかな水と収穫が失われたらどうするのです。あなたにその責任が取れるとは思えませんが」
少年は言気強く詰め寄ったが、異邦人は左の眉を吊り上げてみせるだけだった。
「妙なことをいうな。俺は、ドラゴンの存在と、水や豊作に関係はないといっている。仮に今年が不作だったとしても、それは俺がドラゴンを討ったからではない。どちらにせよ凶作の年だったというだけだ」
「それなら、緑泉の竜が詐欺を働いているということがはっきりしてからにしてください。銅月蝕の晩の献上が続いているにもかかわらず、水が濁ったり収穫が少なくなったりすることがもしあったなら、それはドラゴンが嘘をついていたということになるでしょう」
「賭けてもいいが、そのときは、生け贄が足りなかったからだの、生け贄が不完全だったからだのと、いい逃れをするだろうよ。またぞろ都合良く、胡散臭い占い師が現れるのではないか」
「ぼくも賭けをして構いませんよ。あなたは竜を殺した結果、どんな悪いことが起こってもそれを自分のせいにはしない」
「そんな賭けは成立せん。俺が竜を討って、変わるのは生け贄などという非合理な旧習だけだ。ドラゴンの存在と豊作、凶作にかかわりはない」
「あなたは竜を殺したいだけでしょう! 百匹目の獲物であればなんでもいいはずだ、他所へ行ってください」
ついに少年は鋭い調子で異邦人を糾弾した。九十九匹のドラゴンを葬ってきた男は、苛立ちを抑えながらも凄みのある声で応じる。
「これまでも、似たようなことは幾度かあった。寒村を牛耳って守護神を僭称するドラゴンを崇める連中に邪魔だてされたことは。蒙昧な作男で人垣を作っておけば、箔づけのために竜退治を志望する騎士や王子からなら身を守れる。小賢しいドラゴンの考えそうなことだ。だが俺を欺くことはできん。……命が惜しいなら、退け」
剣の柄に手を添えて、異邦人ははっきりと恫喝した。対する答えは、無言で農具をにぎる手に力を込める十人の村人たちの決死の形相であった。
竜よりも先に、人の血が清浄な水の流れを濁した。
陽がすっかり沈んでも、ふたつの月が僅かな影を地面へ落とす。薄明かりの中、異邦人は川沿いの道をさかのぼり、緑泉にたどりついていた。
周囲は所々に灌木が茂り、足下は青草に覆われている。
姿を見せぬドラゴンへ、男は呼ばわった。
「出てこい、邪竜レウロデプス。我が名はシモン=ガルス、九十九匹の竜を屠りし者なり。きさまを百匹目の獲物にしてくれよう」
異邦人――ガルスが名乗りを上げると、泉の中央に僅かな波紋が生じた。竜狩人は剣を鞘走らせたが、ドラゴンは声でのみ応じる。
「血が臭います。あなたはいったいなにを斬ったのです」
「きさまのことを村の守護神だと信じていた、あわれな作男を少々な。うまくやってきたものだ。毎年生け贄を捧げながら、なお村の連中はきさまのために命すら張るとは。これまで何人喰らった?」
「村の者を手にかけたというのですか……? なんてむごいことを」
「きさまがこれまで喰らってきた、そしてこれから喰らわれるところだった数百の命に比べれば微々たるものだ! むごいことを、だと? どの口でいうか!」
ガルスは憎しみを隠しきれずに怒号した。その瞋意は、純粋で、深い。
水面が激しく波立ち、とうとうドラゴン――レウロデプスが頭を出した。ガルスのいる側とは反対の岸辺近くにではあったが。白い鱗にかざられた鋭角的なところのない頭部で、角も丸みを帯びている。
レウロデプスは口をひらいたが、長い牙はのぞかなかった。
「私が生け贄を喰ってきた? だれがそんなことを」
「年に一度、銅月の蝕の晩に、きさまの元へ生け贄が捧げられていることは村の者も否定していなかったぞ。まさかこの期におよんでいい逃れをするつもりか」
追及するガルスに対し、レウロデプスははっきりと首をかしげた。
「生け贄と確かにいっていましたか? そんなはずはないのですが」
「……なに?」
そういえば酒場の主人は、生け贄ではないといっていた。ならばこの竜が村人から得ている糧とはなんなのか。
さすがに鼻白んだガルスの表情を見て、レウロデプスはため息をついた。
「口にすることははばかられた、ということでしょうか。……無辜の民を死なせてしまった。哀しいことですが、これも私の責ですね」
「きさまはいったい、村の者からなにを得ているのだ?」
「純潔を保っている人の子とまぐわいを結ぶことで、私は豊穣を維持する力を得ています。蝕が私と銅月を結んでいる霊的な導管を阻害しているという占星術の見立てのほうが、実をいえばこじつけで的外れな説だったのです。私は星辰から霊力を引き出せるほど神的な力を持ってはいません」
「そういうことだったか」
興が醒めたと形容して差し支えのないガルスの口調だったが、動いては竜殺の長剣を構え直していた。レウロデプスは悲痛にも聞こえる声で、問う。
「……人喰いでなくとも、私は殺すに値する邪竜だとおっしゃるのですか?」
「人間の純潔を好む淫蕩な邪竜、斬る大義としては充分だろう」
いうと同時に、ガルスは地を蹴っていた。緑泉は一方の岸からもう一方まで二十歩は幅があったが、ガルスの靴は水面を石畳であるかのようにしっかりととらえる。
泉を縦断してきた竜狩人の剣を、レウロデプスは水中へ潜って躱した。
「逃げるな! 勝負を避けるならこいつを蒔くぞ」
高らかに吼え、ガルスは胡桃大の粒をかかげた。なにかの種子のようにも見える。
「暴欲蔦葛の種だ。環境が良ければ樫の巨木よりもよく育つ。ここならばさぞ立派に伸びて水を吸い上げてくれるだろう」
「あなたは……けっきょく自分の名声のためなら、村がどうなっても構わないのですね」
「選択するのはきさまだ。我が身可愛さに村の水源を潰すか、村のために命を張るか。少なくとも村の連中はきさまのために戦って死んだぞ」
ガルスは傲然と責任を転嫁してみせた。ドラゴンの憤激を現すかのように、泉の水面が爆発的に噴き上がった。
瞬間的に逆しまの滝を作って、レウロデプスは一気に空中へ飛び上がる。
「その種をしまいなさい。なにかのはずみで地面に落ちないようにしっかりと。危なくてうかうか応戦もできない。それとも、やはりあなたは卑怯者ですか。自分を倒せば暴欲蔦葛がはびこると脅しをかけながら、一方的に私を攻撃するつもりでいるのでしょうかね」
「なかなかどうして、いってくれるじゃないか」
レウロデプスの挑発に対し、ガルスは口の端をゆがめて暴欲蔦葛の種をしまいこんだ。革の小袋へ放り込み、念入りに紐で縛る。
「さあ、これでいいだろう。かかってこい!」
全身を現したレウロデプスは、尾の先までの全長が二十フィートほど、翼幅は三十フィートあまりあった。さほど大きなほうでもない。ガルスはこの三倍はある巨竜をも屠ってきている。
丸みを帯びた角と同様、爪も鉤爪というほど鋭くはないようだ。だが、このドラゴンは肉体的な強さにはあまり頼っていないらしかった。空中へ噴き上がっていた水が、明らかに自由落下ではない速度でなだれ落ち、ガルスへ襲いかかる。
凄まじい水圧が地面をえぐり、緑泉の面積を押し広げていく。ほぼ円形だった泉が、水撃が収まるころには瓢箪型に変わっていた。
しかしガルスの姿はない。いかに強烈な攻撃であったといっても、暴欲蔦葛の種がこぼれてしまわないように、レウロデプスは手加減をしていただろう。跡形なく消滅するようなことはないはずだ。
突如、空中のレウロデプスへ、強烈な斬撃が迫った。水面に着地できる靴を履いていたガルスは、落ちかかる水の柱を蹴って宙へ舞い上がっていたのだ。水を操るレウロデプスは、ガルスへ向けて飛び石を投げつけていたようなものであった。もっとも、降ってくるのが水ではなく岩の塊であったとしても、常人にガルスの真似はできなかったであろうが。
ガルスの振るう剣にレウロデプスは爪を打ち交わしたが、九十九匹の竜を葬ってきた魔刃に対し、戦うためのつくりではなかったその爪はいささか強靭さが足りなかった。
レウロデプスの右前肢が斬り裂かれ、肘から先はふたつに断たれた。
返す刃でガルスはレウロデプスの口もとへ突きを送り込む。爪同様にドラゴンとしては華奢な牙が打ち砕かれ、竜殺剣は深々とレウロデプスの口蓋を貫いた。
レウロデプスの身体が、崩れる。揚力を失ったドラゴンと同じ速度でガルスも落下していくが、竜狩人が舌を鳴らすと、綻びかけの襤褸としか見えなかった外套が大きく広がった。巨大な飛沫を上げて緑泉に没するレウロデプスの数秒のちに、ガルスは悠然と泉の岸へ降り立った。
ガルスはしばらく泉の淵を油断なく睨んでいたが、ドラゴンは再び浮かび上がってくることはなかった。確実に息絶えたのであろう。ひとつ息をついて、ガルスは剣を鞘に納めた。
――と。
唐突に、地響きが周囲を揺るがしはじめた。泉の底から、なにかが噴き上がってくる。いや、そうではなかった。泉の水が、急速に失われているのだ。輝く塩に、変わっていく。
ガルスのひざが折れた。胸元から、熱いものがせり上がってくる。たまらず吐き出すと、草の緑の上に鮮血が散った。
自らの身体の変調の原因に思いあたり、竜狩人は声を絞り出した。
「そうか……あの酒も、ここの水で……」
・・・・・・
――竜殺のシモン=ガルスのことを知るものはもはや少ない。生まれ故郷を悪竜に滅ぼされ、すべての竜種への呪いを懸けたガルスは、九十九体の竜を斬ったのち、百体目のドラゴンに敗れたのだとも、百体目と相討ちになったのだとも、いわれている。
ただひとつはっきりしていることは、ガルスが最後の戦いに臨んだ地は、かつては豊かな沃野であったが、いま現在は「白魔砂漠」と呼ばれる不毛の塩の荒野になっているということである。