3話 別世界の言葉
しばらくの間ぼんやりとしていた。このしばらくは普通の感覚と少し違っていて、何日何ヵ月といったもの。何のやる気も起きない。イデアのくれた図書館には未だ立ち入ってなかった。
古代、世界の叡智が結集した大図書館を遥かに越える、膨大な書物が眠っているのは容易に想像できるし、すぐ廊下を渡れば入室できるのだが、無意識に立ち入ることをはね除けていた。
ふと目を開けて"現実"の世界を認識する。快晴の空の下にはやはり終わりない虚無の地が広がる。
ため息をつき再び目を閉じた。
視線を下ろすと、真っ赤な絨毯が目に入る。僕の書斎に敷かれたペルシャ絨毯はアラベスク模様で星型の幾何学的な図柄が並んでいる。何百年と使い古されているがこれから何百万回と私に踏まれるのだろう。可哀想に。
はあ、さてどうしようか。目の前にはイデアの秘蔵書架の連なる部屋への通路がある。立ち上がり通路をわたり扉を開けると無数の本が待ってくれてるのだろう。けれど、どうしてもそこへ向かう気力が起きなかった。
無気力無関心無感動…
生前の僕はその三拍子揃った人間だった。何もかもが面倒だった。学校行事がめんどくさくて、世間の声が鬱陶しくて、社会の価値観は肌に合わなかった。なぜ人々はくだらぬことで一喜一憂できるのか不思議だったし、社会が押し付けてくる社会人の意識とやらも理解できなかった。まあ、何年か労働者として生きた結果、資本家が利潤を得るために設定した賃金を受け取ることに何ら抵抗は持たなくなるくらい、少しは成長したのだが。
ちょっとした好奇心はある。神の知恵が詰まった果実はどんな味なのだろう。けれど、すぐにどうでもよくなる。それを食べて一瞬うっとりしても満腹にはなるのに人間にとって無限の時を必要とするのだ。くだらない、なら要らない。そんな押し問答がずっと繰り返されている。そっと目を瞑った。
疲れたし、"少し"寝よう---
いや、やっぱりやめた。目を開けた。
起きた。起きてみた。背伸びをし腰を持ち上げてみた。立ち上がって歩いてみる。頭がぼんやりした今がチャンス。左足右足交互に出す。踵から爪先に向かって重心をスライドさせ、一歩一歩進んでみる。よし、着いた。通路を渡った。重量感のある扉を押し開ける。そして、
そこに広がるのは床を埋め尽くす無数の本の山だった。
ゴシック調の室内に空高く積み重なる無数の本。乱雑に散らかった本々。空間はねじ曲げられているのか天井はない。書架と言ってたから、本棚で埋め尽くされているのかと思ってたのに、イデアは神なのに整理整頓ができないのか。
側に落ちていた本を拾う。表紙は布装丁で、箔押しされた文字は全く知らない言語。開くとパラパラと紙が抜け落ちた。黄ばんだ頁をめくっても読めない文字で埋め尽くされている。言語の習得は必須課題、本の分類から整理することも求められてるみたいだ。
時間があると言ってもこれはひどいよ。本の上に座り込みしばらくの間茫然としていた。
もういやだ。
また、思考停止しそうになったが、なんとか逃避の快楽を振り切り近くにあった本を数冊ほど開いてみた。
一つ一つの文字が意味を持たない記号が連なっているが象形文字のようなのも散見される。
表音もしくは表節と表語文字の組み合わせ。それに手書きでなくて、複写機で転写されている。
ん、待てよ、、これって僕に馴染みのある言語と同じかもしれない。仮名文字と漢字の関係と似てるような気がする。本の山を登り六合目辺りの本を開いてみたが同様だった。
それに文の最後には絵文字が散見される。この作者メールの感覚で文字書いてる…
幾つか拾って読んでみると内容はわからないが、同じ様にピクトグラムがあり、 (loudly crying face)(Face With Ok Gesture)(Face With Stuck-Out Tongue And Tightly-Closed Eyes)が好んで使われていた。(Cat Face With Wry Smile)も多用されておりテンションあげたり、悲しんだりと忙しない。
それに猫ってどの世界線にもいるのだな。
あとがきには(Smiling Face With Smiling Eyes)が頻繁に使われ、上梓できたことにめっちゃ喜んでる印象。どの本も似たり寄ったりで、雰囲気が同じで、もしかしたら同一著者なんじゃ…。
同じだとしたら、これだけ膨大な量の書物を残す時間があり、膨大な知識量を持つことのできるのは人間を越えた存在、、、つまり、イデアが書いたのではないだろうか。この空間を私の秘蔵書架と言ってたのを思い出す。
イデアの知恵=神の知恵。となると、これらの書物を網羅できれば私は神になれるのだろうか。英雄や豪傑なんて比ではない遥か上位の存在、もしかすると真理に触れる、それどころか真理そのものを認識し理性の一部となり得るのかもしれない。計り知れない力が我が物になり、そうして、僕は神への位階へと足を踏み入れるのだ。
気付けば、入室前までの虚無的な無関心さが霧散していた。
思わず身震いする。少し手をのばせば神になることができるのだ。なんて恐ろしい場所なのだろう。
ふと、周囲に違和感を覚えた。入室した際は本の山に圧倒されて気付かなかったが、この空間は今まで感じたことのない異質な空気が漂っていることに気づく。
空気自体は良質なものであり(直感だが)、むせかえるような汚れは感じない。天窓から差し込んだであろう光はか細く、薄暗くて湿気でジメジメとした籠った印象を受けるが、空気感はまるで違う。木々の生い茂る自然のなかにいるような解放感がある。しかし、その空気自体に何かしらの意志がある錯覚が、いや、錯覚ではない。何かが側にいる、それは敵愾心のない平和的で周囲を包み込む穏やかさがある。以前イデアと邂逅した時と同じ現世にはない、安息で心地よくて魂が浄化されるこの感覚。これは一体…
そういわれると、ここは神の領域がどうとか言ってた気がする。ならば近くに彼女がいるのかも。
「我がイデア」
心のなかで呟くのではなく、喉を震わし発した声はか細く部屋にこだました。
絵文字に対応してないのですね(英名表記です)




