2話 虚無の地
広がる荒野は果てがなかった。歩いても歩いても殺風景で何もない。
多分一月は歩いたと思う。荒涼とした大地には草木も生えてなくて、驚くことになんの生命とも出くわさなかった。
晴天の空から降り注ぐ光は眩しく、空気は乾燥していて、それなのに喉の乾きを潤す湖水もない。天候の良し悪しはきままで、長く青空が覗いていると思うと突然の砂嵐で視界が遮断される。それに剥き出しの岩肌は荒々しく、時おり吹きつける埃風が頬をかすめ顔は傷だらけ。
にも関わらず疲労はあっても飢えることはなかった。一晩睡眠をとると翌朝不思議と体が軽くなるのだ。空腹でもなんともなく、勿論食欲はあるのだが、体は飲食を必要としなかった。
僕は転生すれば中世欧州の街並みが待っており、魔物に怯えながらもたくましく生きる人々がいて、荒唐無稽な冒険物語が始まるのだと思っていた。そして、混沌をもたらすという存在者と対峙して世界を救い、無に帰るとばかり。
しかし、そんなことはなくてこの世界には僕しか存在者がいないとばかりに何もなかった。ただ、永遠と続く大地が待っていた。
これが、罰なのだろうか。自殺を選択したばかりに永劫の彼方が待ち受けているとは思いもしなかった。
僕のいた世界では一世代の平和により個人的権利が神格化されており、何よりもの美徳であると考えられている、そんなきらいがあった。
幼少期の教育により平等主義が何よりも優先して正しいことである、と信じ込まされたゆえ他者の権利を侵害することがタブー視された。
その裏返しが肥大化された自負心である。ああ、この世界は彼らが求めた最大の個人主義的空間ではなかろうか。僕以外は存在しないのだぞ。はははは。
気付けば陽は傾き、夜の帳が下り始めたので歩みを止めて休息をとることにした。暗澹とした空気は嫌がおうにも傷心した気分になる。夜になると一段と冷え込み日中とは異なり気温は氷点下、常人には耐えられらない程の寒さが体を蝕む。
震える体から意識を遮断し、マッテーオリッチの記憶の宮殿に倣い肉体から遠くはなれた甘美な記憶の中に逃げ込んだ。
そこは広大な宮殿であり、僕が造り上げた理想的な空間。肉体から解放されるには唯一の安息の一時。寒さは魂の内に忘却するには十分であった。
宮殿には幾つもの部屋が用意されており、暖炉のある部屋に横たわる。
そして、心地よさから安眠するには時間が必要ではなかった。
朝日が僕を包み込み、目を覚ました。今日もまた昨日と同じような生活が繰り返されるのだろう。どこまでも、どこまでも変わらない風景が繰り返される。恐らく永遠に…
さすがにそろそろ限界だ。僕は意識が朦朧としながらも荒野の頂上に立っていた。見下ろす限りに広がる空しい世界。そよ風がなびく。もう無理だよ。
そうして、僕は頭を真っ白にし崖から飛び降りた。嫌な音が周囲に響いた。しかし、そのあとに襲ってくるであろう死の感覚はなく意識は清明であった。
ただ全身を襲う激痛。僕は喘いだ。痛い痛い痛い。
ただそれだけ。骨も折れず、出血もない。痛覚はなぜ残っているのだろう。
あれから、どのくらいの時が経ったのだろう。もはや、月日を数えることをやめ、気付けば病気がちだった体の感覚がなくなり、狂ったように前へ前へと進み続けた。いづれ、変化が訪れるだろうと希望を抱いていたのだが依然として変わりない世界が続いていく。
希望とは残酷なものであった。永遠のときとは自我を有する一人の存在者には到底耐えられるものではないのだよ。体力も精神も疲れきり倒れこんだ。
希望といえば、そう女神のイデア。発端はたしか彼女であった。意識が薄れながらも、ふと女神の流転する直前の言葉を思い起こした。何か困ったことがあれば私の名前を思い浮かべればよいと。
なぜ、今までそのことを思い出せなかったのだろう。今こそ必要なのではないか…
そして、無意識に彼女の名を呟いた。
「我が女神イデア、思し召しにより名をここに想起します」
すると、目の前に彼女の姿が現れた。
「随分と長いときを過ごしたようですね」
女神は微笑んだ。
「ここはどこですか」
「私の愛する世界ですよ。あと数百万年経てばの話ですが」
言葉を失いかけた。
「どこまで歩いても進んでも何もありません。僕はもう限界です」
「そうでしょうとも。ここはまだ原初状態ですからね。あと何百万年か経てば、生命の胚種が世界にまかれます」
「常人にはそんなの耐えられません。人間、孤独に生きるのには限界があります。このままでは気が狂いそして、また死を選びます」
女神はふふっと笑う。
「残念なことに人類が誕生するまではあなたは死ぬことができないのですよ。飢餓にもならなければ、体に傷をつけることもできません。これが、あなたに下された罰なのです」
「残酷です」
女神は優しげに囁きかける。
「あなたは凡人です。本来ならば、このまま永久の時を過ごしてもらうのですが、先に話した通り、かの存在を打ち倒して頂かなければなりません。そこで、あなたには強く、力強くなれるよう私の秘蔵書架を授けることにしましょう」
そういうと、認識下に華麗で優美な建築物が現れた。
「これは…」
「私のコレクション。また神の領域であるがため他の存在者は立ち入ることのできない禁忌の領域。幸運なことにあなたは宮殿を作り上げているでしょう」
「意識内の宮殿のことですか」
イデアはにこりと笑った。
「あなたの書斎へ接合させました。これで神の叡知に触れることができます。何て幸運なことでしょうね」
「僕以外に存在者がいないのならば知も塵に等しい」
「だからこそ何百万年、人類が地上に現れる時に備えて知識を蓄えるのです。膨大な知識は魔法や科学を凌駕します」
「好奇心はそそられますね」
「では、私はこの辺で… また何かあればお呼びくださいね」
そういうと彼女は目の前から消え去った。
結局、壮大な暇潰しを与えてくれただけで現状の解決は何もしてくれなかった。
何百万年も独りで…
頭は思考停止し考えることができないが、とりあえず書斎へ向かってみた。暖炉の傍にある籐椅子へ。
年季の入った肘掛け、座部は色の禿げたベージュに可愛いらしい子供のデザインがされている。昔おじいちゃんが使っていたものに僕の好きなキャラクターを縫い合わせてみた代物。
君は僕とずっと時を共にするのだぞ。短く刈り上げた黒髪が似あうその顔に微笑みが浮かんだ気がした。