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家政婦の彼女 -ふたりが夫婦になるまで3―  作者: 海來島オーデ
そして僕たちは新たな関係を始める
38/39

家庭訪問



金曜日。放課後に職員室に向かっている。

授業は5限だが勉強会があるため帰宅時間は遅い。時計を見ると夕方5時になろうとしていた。普段であれば由佳を家まで送った後、家に帰って穏やかに過ごすところだが、今日はそうではない。今日は家庭訪問がある。

職員室のドアを開けるときは何故か緊張する。ドアの前で深呼吸をして、心の中でえいと気合を入れてドアを開けた。職員室の中では多くの先生が仕事をしており、ドアを開けた僕に視線が集中する。入室する者をチェックしているのだろうが、その視線が向けられるのが怖い。

失礼しますと声を出して入室し、担任の秋山先生の席を見る。窓辺の席だ。先生は窓から外を見ながらコーヒーを飲んでいた。

職員室の中では、生徒は入り口付近のスペースまでしか入れないルールになっており、先生を呼ぶために大声を出す必要があるのだが、入り口付近の張り紙には『大声をださない』と書かれており、だったらどうすればいいんだと文句を言いたくなる。そのため職員室に行くのを避ける生徒は多い。特に女子は嫌がっている。理由は、やっぱり大声を出す必要があるからだ。


「秋山先生!」

「ん、おう来たな。ちょっと待て」


残ったコーヒーを一気に飲み干し、紙コップを握りつぶしてごみ箱に捨てる。用意は済ませていたのだろう、カバンをさっと手に取ってこちらに来た。


「行こうか。お前の家までどれくらいだ?」

「うちは歩いて5分ほどです」

「そうか、では歩いていこう。無駄口をせず早足でいくぞ」



先生と一緒に校門を出る。先生が前を歩き迷いのない足取りで道を進む。学校が見えなくなった辺りで先生が隣に並んだ。足取りもすこし和らいだように思う。


「今日の訪問だが、去年の繋がりで経過の確認が必要でな、確認をした記録を残さなければならない。お前が悪いことをしていないのは知っているからな、書類作りのためだと理解してくれて構わん。ちゃっちゃと仕事を終わらせて、その後は個人的に話をしたいと思っている。

詳しくはお前の同居人にも話したいから着いてからにするが、あたしはお前の母と仲が良くてな、小さなお前たちと遊んでやったんだ。お前の担任になって、お前だと知って嬉しかった」


先生の話に驚く。親しげに僕に声を掛けてきたのも、中学でのことを妙に詳しく知っていたのも、長く休んで久しぶりに通学した時に泣いて喜んでくれたのも、そういうことだったのかと理解した。


「時機を見てお前の家に遊びに行こうと思ってた。だが、なかなか機会が無くてな。今日が丁度良い機会だと思った。栞里ちゃんと会えるのが楽しみだ」

「知ってるんですか?」

「ああ。知ってるのはお前たちがまだ小さかった時だがな。小さいのにお姉さんをやっていて微笑ましく思ったものだ。まあ、あたしもお前を弟のように可愛がったがな」

「そうですか」

「嬉しいか。良かった。嫌われていたらどうしようかと思ったぞ」


先生は嬉しそうに笑った。



家に着いて玄関のドアを開ける。ただいまと言いながら中に入り、先生を中に招いた。その間に栞里さんが玄関まで出迎えに来て微笑む。


「おかえりなさい」

「ただいま。先生と一緒に来た」


先生が玄関に入る。先生に栞里さんを紹介した。


「同居している栞里さんです」

「秋山美代だ。悠人の担任をやっている。初めまして、と言っておく」

「初めまして、真木栞里です。こちらにどうぞ」


居間に案内して椅子を勧める。

先生は部屋の中を素早く見渡し、懐かしそうに「変わらないな」と呟いた。


栞里さんがティーカップを持ってきて先生と僕の前に置く。その紅茶を僕がひと口飲んでいる間に、食卓の上にパウンドケーキを置いて僕の隣に座った。


「お菓子もどうぞ。紅茶に合いますので御一緒に」


栞里さんの雰囲気がいつもより大人びている。普段から姿勢良く年上の空気を出しているが、今は大人という感じがした。いつもの柔らかい感じが薄れている。

そんな栞里さんを見ていると、栞里さんがちらりと僕を見てにこりとする。


そんな僕たちを見て先生が微笑した。


「仲が良いのだな」

「ええ。姉弟のように仲良く暮らしています」

「変わっていない。嬉しいな」


先生がカバンから書類を取り出した。その中から数枚の写真を取り出して僕たちの前に置く。


「この写真を見てくれ。これがあたしだ」


写真を指差した。それは見覚えのある集合写真で、母さんの腕のなかに赤ちゃんが抱えられている。隣にはお腹の大きい叔母さんが居て、栞里ちゃんがその脚に掴まっている。大人の中に混ざって中学生の女子が写っていて、先生の指はその子を指している。


「それからあと2枚。これはまあ見ればわかるだろ」


3歳くらいの僕が栞里ちゃんと高校生くらいの女子と手を繋いでいる。

もう1枚は、高校生の女子の周りに小さな子供達が集まっている。


「あたしが小学生の高学年の時、悠人の母親が担任のクラスだった。先生に憧れてこの家にちょくちょく遊びに来ていてな、同じく遊びに来ていた栞里ちゃんとも遊んでいた。最後に遊んだのは栞里ちゃんが小学1年の時だったかな。その後にあたしが大学の近くに引っ越してなかなか来れなったから会わなくなったがね。

何が言いたいかと言うと...また縁が出来たんだ、栞里ちゃんと仲良くしたい」


驚いたようで栞里さんは写真をじっと見つめている。そして納得したのか頷いて、写真を手に取り先生に返した。


「先生は伯母さまと話し方が似ています」


栞里さんの言葉に先生がニヤリとする。その顔をしたら信じたものも撤回したくなるのではと思ったが、栞里さんは動じなかった。


「嬉しいね、真奈先生を真似たんだ。生徒が言うことを聞かなくて、先生はどうしていたんだろうって思い出して真似てみた。それが旨くいってな。

学校で悪ガキどもの相手をするにはこの話し方のほうが都合がよいのだが、気が付けば真奈先生よりもガサツな言葉使いになっていて、おかしいなと思ってる。

普段は御淑やかなはずなんだがな」


普段は御淑やかという言葉に、嘘だろと思い可笑しくなる。学校での姿しか知らないが、手振りが大きく大股で歩く姿を思い浮かべ、御淑やかな姿は想像できなかった。


「ってことで栞里ちゃん、連絡先を交換して欲しいがどうかな?」

「はい。よろしくお願いします」

「はは、硬くなる必要は無いぞ、昔からの友達だからな」

「あっ、はい、友達ですね」


栞里さんが柔らかい表情を見せる。それを見て先生が微笑んだ。



連絡先の交換と雑談の後、今日の目的を思い出したのか、先生が話を変えた。


「忘れるところだったが話があった。まあ、あたしとしてはどっちがおまけだって感じだが。」


書類から1枚の髪を取り出してテーブルに置く。


「訪問の理由だが、去年の4月から5月にかけての自主休校の件に伴う経過の確認となる」


先生の質問は簡単なもので、それに栞里さんが回答する。規則正しい生活をしているか、素行に問題が無いか、家族と話をしているか。他の質問を含めて全てに特には無いと答え、ものの数分で家庭訪問は終わった。


「ご苦労さま。家庭訪問はこれで終わりで、学校に報告をしたらあたしの仕事も終わりだ。この後、食事に行こうか。何が食べたいか考えといてくれ」


先生が立ち上がり玄関に向かう。ドアを開ける音が聞こえた、外で電話をするのだろう。


栞里さんを見る。夕食の準備を始めているだろうと思う。だから何が食べたいかよりも外に食べに行くかを気にした。


「食事に行くと言ってるが、どうする?」

「わたしは別に...悠くんに任せるよ」


そういうと栞里さんは席を立ち、まだ残っていたパウンドケーキを持って台所に向かった。


「夕食の準備は未だでいいか?」

「うん、大丈夫」

「では外に食べに行こう」



少しして先生が戻ってきた。


「待たせたな。何処にするか決まったか?」

「いや、あまり知らなくて。良いところはありますか?」

「うむ。では任せて貰うよ。出掛ける準備をしておいてくれ」




タクシーで数分移動して居酒屋に着いた。木造の2階建て。構えは狭いが奥行きはありそうだ。


「あたしがよく来る店だ。おばちゃん今日も食べに来たよ」


入り口の引き戸を開けながらそう言い店の中に入る。


「いらっしゃい。美代ちゃん待ってたよ。そちらは美代ちゃんの生徒さん? ゆっくりしていって。美味しいから沢山食べてってね」


店主と思われる恰幅の良いおばちゃんが、感じの良いにこやかな笑顔で僕たちを出迎える。その笑顔と人の好い声だけで温かくなる気持ちがした。


奥の小部屋で先生と対面で座る。6人部屋だろうか、3人で使うには十分に広さに余裕がある。

先生が声を張り上げて数品注文し、「はいよ」というおばちゃんの小気味良い声が聞こえた。その慣れているやり取りを見て、先生がよく来ると言ったことは真実だろうと思う。


「ここの料理は旨いんだ。いつものを頼んだが、メニューはそこにあるから好きなのを頼んでいいぞ。まあ、まずは来たものを食べて判断してくれ」


おばちゃんが料理を運んできた。


「はいよ、いつもの」

「早いな、驚いた」

「来るって聞いたから作り始めていたんだよ」


おばちゃんが僕たちを見渡す。にこりと微笑んで僕と栞里さんの前に小鉢を置いた。


「可愛い子達だね、来てくれて嬉しいよ。これサービスね、法蓮草のお浸し。味が付いているからそのまま食べてみて」


テーブルに料理が並べられる。ホッケの塩焼き、だし巻き卵、野菜炒め。そして先生の前にビール。


「ここの料理が好きでね、この3品をいつも食べる。焼き魚と野菜炒めはその日によって変わるけどな。まあ食べてみて」


ご飯を持ってきたおばちゃんがそれを聞いて笑う。


「以前はいつも同じだったんだけどね、この子がいつも同じもの食べるから毎日変えるようにしたんだよ。」

「あたしはもう大人だから、この子って言うなよ」

「いつまでもここに食べに来るんだから子供だよ。まあ嬉しいけどね」


おばさんはあははと笑いながら厨房に帰っていく。迷惑だと言いながらも先生も嬉しそうだ。


「子供の時からここに食べに来てたんですか?」

「最初は中学の時かな、真奈先生に連れられて来たんだ。そして、高校のときは住み込みで働かせてもらった。3年間な。本当の子供のように扱ってくれてありがたかった。というか、聞いての通りまだ子供扱いだがな。...まだその時のあたしの部屋が残ってるらしいんだ。いつ帰ってきてもいいよって言ってくれてな。嬉しいだろ? だから時々顔を見に来る」


おばちゃんが丁度近くに来ていて口を挟む。


「時々じゃないよ、毎日のほうが近いだろ?」

「うるさいよ」


先生は恥ずかしそうに顔を赤くし、誤魔化すようにビールを煽る。


「栞里ちゃんは悠人の家で家政婦をしているんだろ? 料理もすんの?」

「はい」

「どんな料理?」

「日本食が中心です。悠くんが日本食を好むので。」

「ほう。悠人の感想は?」

「美味しいですよ。いつも感謝しています」

「へぇいいな、食べてみたいものだ。だが教師は生徒の家で施してもらっては駄目だそうでな。残念だ、煩わしい限りだよ。」

「それは、残念ですね」

「だろ? 栞里ちゃんがうちに来て作るってのならいいのかな? 家政婦だから良い気がするな」

「給料を貰えるなら行きますよ」

「おっ、栞里ちゃんも口調が砕けてきたな。友達らしくなってきた」

「ええ、友達だそうなので」

「だそうではなくて、友達なんだよ」

「はい、友達です」

「あはは、いいねいいね」


酔ってきたのか先生は明るく元気になってきた。


「それで、家政婦ってどんなことをしてるんだ?」

「家事全般です。料理と洗濯と掃除ですね」

「掃除って、あの家を全部か?」

「お風呂と洗面所は悠くんが掃除をしてくれます。あっ、あと悠くんの部屋も。」

「いや、だって、あの家広いだろ? あたしは自分の部屋だけでも嫌になる」

「時間のある時に少しずつ掃除していますから」

「料理、洗濯、掃除。毎日だろ? 好きじゃないとできないな」

「好きだからではなくて...仕事だから?」

「仕事か。あたしもこの店の掃除はちゃんとやってたな。仕事だからってよりは...好きだったんだ。おばちゃんのためにと思ったから出来たんだろうね。栞里ちゃんは?」


先生がじっと栞里さんを見る。栞里さんは黙ったままで答えなかった。

先生がくすっと笑う。そして昔語りを始めた。先生が高校生の頃、僕たちが小さかったときの話。


「いつもあたしと遊んでたんだが、栞里ちゃんが居るときは栞里ちゃんにべったりでな、あたしの事は見向きもしなくなるんだ。覚えてるか?」


「栞里ちゃんのことは薄っすらと。先生のことは全く憶えてませんが...すみません」


「これだ。まあ、栞里ちゃん大好きっ子だったから仕方ないな。

どれだけ栞里ちゃんが好きなんだよと思ったのは、公園で悠人が転んで泣いたときだ。いつもなら栞里ちゃんが駆け寄るんだが、栞里ちゃんは気が付かなかったんだろうな。あたしと真奈先生が気づいて駆け寄ったんだが、悠人はあたしたちを見ても無視して栞里ちゃんのところに駆けて行ったんだ。お母さんよりも栞里ちゃんなんだって、真奈先生と顔合わせて驚いて、笑ったんだ。

そのときは可愛いって思うだけだったんだが、真奈先生が一番じゃないこともあるんだって考えさせられた。それまでは真奈先生のようになりたいと思ってたんだが、真似じゃなくて、生徒に慕われる先生になりたいと考える切っ掛けになった。

あっ、真奈先生は生徒から慕われる先生だったからな。あたしだって慕っていた。」


「分かります」


「それでだ、ただ慕われるのでなく、どう慕われたいのか考えた。

幼いときは単純で、迷ったらどんなことでも身近な人を頼る。主に母親だな。成長していくとこれが複雑になっていく。母親に聞いても答えが出ないと分かると、その件は別の人を探すんだ。友達とか先生だな。

周りに相談できるうちはいいんだ。...相談できないときがある。誰の手にも負えないと思うようなことが発生したとき。それから、相談しようにも周りに誰もいない時だ。放っておくと諦めて自棄になったり、逃げつづけて最後には閉じ籠る。

そうなる生徒が居なくなるように、あたしは生徒が相談したくなる先生を目指したんだ。」


暫しの沈黙が流れる。先生は何かを噛みしめて苦い顔で僕を見た。


「悠人が閉じ籠った時、あたしにはどうすることもできなかった。掛ける言葉が無いというのが本当にあるんだと痛感した。何もできず悶々とした日々を過ごした。年度の始まりで忙しいという理由もあったが、それは言い分けだよ。あたしは逃げたんだ。

真奈先生からお前が回復したと聞いた時、嬉しくて会いに行った。結局勇気が無くて会わなかったんだが、栞里ちゃんと下川が訪ねて来て、それが切っ掛けになったと聞いた。良かった。助けてくれる人がいて良かったって思った。

...今頃となったが謝りたい。何もできず済まなかった。」


先生が深く頭を下げた。

生徒に頭を下げる先生にいままで出会ったことは無かった。たぶんそういう機会が無かっただけなのだろうが、絶対に頭を下げないだろうという先生は何人も思い出せる。それが積み重なって、僕は先生を色眼鏡で見ていたのかもしれない。

いま目の前で頭を下げる先生を、僕はずっと面倒くさい先生だと思っていた。僕を見ると声を掛けてきて仕事を押し付けていく。...僕を見ていてくれた。気を使ってくれた。そう思うと、声を掛けるのが目的で、仕事はその切っ掛けの照れ隠しだったのだ。それはそれでやっぱり面倒くさい先生だと思うが、良い意味に変わったのだと思う。


「顔をあげてください。先生は信頼できる良い先生です。...友達になって貰えますか。僕が卒業してからでいいので、友達になってほしいです。」


先生が顔を上げる。いつもと変わらない笑顔だが、いつもより優しく見えた。


「ああ友達だ。ありがとう」




食事が終わり店から出た。おばちゃんがまた来てねと笑顔で見送ってくれた。

先生がタクシーを呼ぶと言ってくれたが、歩いて帰ると断った。歩いて10分程の距離で、途中のスーパーで買い物をして帰ろうと思う。


店の前で先生に挨拶をした。


「では先生。ご馳走様でした」

「おう、また機会を見て一緒に食べようか。次は割り勘な」

「割り勘って、ケチですね」

「値が張るところで強請られたらたまらんわ。栞里ちゃんなら奢りでもいいかな。今度スイーツでも食べに行こうか」


先生が拳にした右手を伸ばしてきた。これは拳を合わせるやつだと思い、僕も拳を作って先生の拳に合わせた。


「ん。栞里ちゃんもほら」


栞里さんも拳を作って合わせる。


「先生もこの挨拶をするんですね」

「ああ。...真奈先生の、お前の母の真似だ」


ふたりで声を出して笑う。


「では帰ります」

「おう、気をつけて帰れよ。今日は良い日だった。じゃあな」


手を振って先生と別れた。

先生は飲み直すと言いながら店の中に入っていった。




帰り道。栞里さんと歩きながら話をした。


「良い人だったわ」

「ああ。おばちゃん優しかった。また食べに行きたいな」

「うふふ、そうね。だけど、わたしが言ったのは先生だよ」

「先生?」

「悠くんの中では当たり前なのかしら?」

「ああ。そうだな、...先生は優しいけどがさつでしつこい面倒くさい人だと思ってた。だけど本当は恥ずかしがり屋なんだって分かったよ」

「え?」

「頑張って今の先生になったんだろうね。御淑やかだったってのは本当かもしれない。」

「気が付けたことがあったのね」

「ああ。ずっと誤解していた」

「わたし、この人なら仲良く出来ると思えたんだ」

「そうか、良かった」

「うん。」




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