表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家政婦の彼女 -ふたりが夫婦になるまで3―  作者: 海來島オーデ
そして僕たちは新たな関係を始める
35/39

栞里の体調不良


土曜日の朝、目を覚まして時計を見ると朝6時だ。

窓から朝日が差し込んでいて、外を見るとよく晴れた空が見える。いつもであればサイクリングに丁度良い日和だと思うところだが、心配事があり気分が高揚しなかった。


部屋から出て居間に向かう。普段であれば栞里さんが台所に立っているのだが、今日はその姿が無い。食卓には既に朝食が置かれている。卵焼きとウインナー、そしておにぎりだ。

朝食に手を付ける気にならず、食卓を通り過ぎてソファーに座った。台所を見て、誰もいないことに寂しさを感じた。


栞里さんはまだ部屋で寝ている。

昨日の夕食の後、おにぎりを作りながら朝はゆっくりしたいと言っていた。いつもと少し違う表情と、どこか集中を欠いた会話。体調が優れないのだろうと思う。

大丈夫か?と聞いたら、大丈夫と答えがあった。僕が悪いのかもしれないと思うとそれ以上は聞くことが出来なかった。由佳とデートをしたその日だったから。


ノートパソコンを広げて小説の執筆を始める。

小1時間ほどパソコンの前に座っていたが、手がほとんど動かずに、1行書いては消してを繰り返していた。不安が先行して手が付かない。栞里さんの体調が気になり、衿ちゃんと同じにならないか心配だった。




1年と少し前。衿ちゃんが病気で入院したと母さんから聞いた。


学校から帰ると母さんが立っていて、真面目な顔で僕に言った。


「慌てないで聞いてね」

「ああ。」

「詩衿ちゃんが入院して、もう長くないそうよ。言葉は出るけどうわ言の様に言うだけで、たぶん意識は無いだろうって。」

「...嘘だろ?」


母さんは首を振った。


毎週メールで話をしている。病気になったことなど聞いていない。体調が悪いなどの話も一度も無かった。

走馬灯のように衿ちゃんとの今までの出来事が頭をよぎる。そして引っかかった疑問。メールの相手は詩衿と名乗っていた。それまでにもやり取りしていた衿ちゃんのメールアドレスだった。だが毎週メールをしようと伝えた相手は栞里ちゃんだ。衿ちゃんのふりをしていた栞里ちゃん。

あの約束をした日の後、「これからしばらくメールだけだけど、よろしくね」と書いたメールが衿ちゃんから来たとき、栞里ちゃんではないんだと落胆し、今まで通りに戻るだけかと気持ちを切り替えた。


「詩衿ちゃんか? 栞里ちゃんの聞き間違いではなく」

「詩衿ちゃんだよ、間違いなく。詩衿ちゃんの希望で悠人には言わなかったんだが、随分前から入院を繰り返していた。...あたしは知っていたよ。見舞いにも行った。言わないでごめんね」

「そうか...」


怒りは無かった。悲しみも無かった。なにかモヤっとしたものが心の中にあった。

病気になるなら栞里ちゃんだとずっと思っていた。衿ちゃんはいつも活発だったが、栞里ちゃんは体調が悪いからと僕たちを見守っていることが多かった。


病院に駆けつけて衿ちゃんを見舞う。眠っている衿ちゃんの姿を何も考えずにしばらく見ていた。栞里ちゃんの姿は無く少し前に帰ったと聞いた。


病名を聞いて、それから何度もネットで調べた。調べるのはいつも家族が発症する可能性と予防についてだった。栞里ちゃんが発症することを考えると怖かった。




執筆を諦めて休憩することにした。顔を上げ伸びをして背筋を伸ばす。

栞里さんはまだ起きてこない。時計を見るとまだ7時を過ぎただけで、ゆっくり寝坊する時間にはまだ早かった。だが不安が少しずつ大きくなり、早く会いたいと思った。


部屋を覗いてみようかと考えるに至り、そこまで不安になるような様子ではなかったと改める。気分転換のため家事の手伝いをしようと思い立つ。


何をするか考えた末に、洗濯をするため洗面所に向かった。

洗濯籠から衣類を1枚ずつ取り出しながら、洗濯表示マークを確認して洗濯機に入れる。おそらく二日分。ふたり分のため数は多くない。

洗濯表示マークの読み方は母さんから教わった。洗濯ができないと困るからと、出張に出かける前に強制的に覚えさせられた。いまそれが役に立っている。

桶のようなマークに×が付いていたら洗濯機に入れてはいけない。四角いマークに斜線があれば陰干しだ。他のマークは教わっていない。迷ったものはあとで栞里さんに聞くことにした。だから今は洗わない。

洗濯物の下のほうから出てきたものを見て手が止まる。栞里さんの下着が見えている。どうしたものか迷ったが、その下にも洗濯物があるため丁寧に扱って脇に除けた。少し掴んだだけだが滑らかな手触りがあり、初めて触ったその感触が暫く指に残っていた。


洗剤を入れて洗濯機のスイッチを押す。洗濯機が止まるまでの間に何をするかと考え、朝食を取っていないと思い出した。



朝食を食べ終えて緑茶を飲んでいると、階段を下りてくる足音が聞こえた。

栞里さんが居間に現れる。


「おはよ」

「おはよう。ゆっくりできたか?」

「うん」


僕の斜め前、いつもの彼女の席に座る。白のふわふわした上下を着ている。以前に見たものと同じ服で、これが普段の寝間着なのだろう。髪は整っていて、背中まである長髪は首の後ろで縛ってある。

彼女は穏やかに微笑んでいる。体調は良さそうだと感じてホッとする。


「僕はもう食べたから。ゆっくり食べるといい」

「うん、そうする」

「洗濯機を回したから。洗濯機に入れていいか分からなかったものは籠の中に残してある」

「ん、ありがと」

「今日やっておくことは他にあるかな?」

「んー、あとは大丈夫。だから好きに過ごしていいよ」

「わかった。家に居るから、なにかあったら言ってくれ」

「ん。...今日は出かけないの?」

「小説を書き進めたい。他に予定はないし部屋に居るよ。まあ、煮詰まったら散歩に行くかもしれないが」

「ん、わかった。出掛けるときは声かけてね」

「ああ、分かってる」


洗濯機が止まってアラームが鳴った。


「洗濯が終わったみたいだ。干してくるから」

「ん、お願いね」


席を立ち歩きながら手を上げて軽く振る。彼女が追いかけるように振り向き、微笑んで僕を見送る。何気ない仕草だが、見送ってくれた彼女の笑顔を見て安らぎを感じた。不安はどこかに居なくなり、その笑顔が僕のやる気を引き出し、洗濯機の中の洗濯物をベランダに干す作業が楽しく感じた。




自室でパソコンに向かい小説を執筆する。

由佳に感想を貰った後、見直す箇所の見当を付けて印を付けていた。だがまだ中身は書けていない。

大きくふたつの課題がある。衿ちゃんの何が好きだったのか。栞里ちゃんをどう思っていたのか。それを思い出して小説の参考にするのが課題だ。


課題のひとつ、衿ちゃんの何が好きだったのかを考えている。

この前、僕は衿ちゃんの笑顔が好きだったと言った。そのことを書いてみたのだが、文章にしてみると事実と違う気がした。そしてまた自問する。衿ちゃんの何が好きだったのかと。

答えを探して思いつくものを書いていく。これも違う、あれも違うと、書いてはボツにする。文書ファイルがいくつも出来上がった。


行き詰って伸びをする。何気に部屋の中を見渡すと、ドアの近くにトレイに乗ったサンドイッチが置いてあるのが目に入った。時計を見ると午後2時になるところで、執筆に集中して昼食を取らなかった僕のために栞里さんが置いてくれたのだと気が付く。

手に取るとメモがあるのに気が付いた。「お昼ご飯です。食べてね」と書いてある。「ありがとう」と呟いてサンドイッチを口に運んだ。


サンドイッチを食べたことで気分転換になり気持ちを切り替える。悩んでいたところは見切ることにして、最初に書いた原稿を採用した。



おやつの時間になり居間に向かう。課題のひとつは小説に書いた。これから読み返して書き直していくためまだ完成とは言えないが、書き切ったのだと思う。満足している。

居間のドアを開ける。栞里さんが食卓にお皿を並べていて、僕に気が付いて微笑む。


「サンドイッチありがとう。美味かった」

「そう、よかった。集中しているようだったから声を掛けなかったの」


彼女はにこりと笑う。


「おやつにするけど、食べられる? パウンドケーキを作ったの。いつもと変わらないものだけど」

「ああ。丁度食べたくなった」

「用意するわね」


台所に向かう彼女の後姿を見る。これから用意するようなことを言っているが、カウンターの上には切ったパウンドケーキがある。僕が来なくても用意をしたのだろう、気を使いすぎだと思う。気の利いた良い奥さんになるのだろうとは思うが。


「あなたの淹れた紅茶が飲みたいわ。頼んでもいい?」

「ああ任された。そうだな、今日は新しいパックを開けるか」

「古いのがまだ残っていたと思うけど、新しいのを出すの?」

「気持ちを切り替えるのもいいんじゃないか。そんな気分なんだ」

「ふうん...そう」


ティーポットに茶葉を入れて沸騰した湯を注ぐ。白磁のティーポットを上から覗き込み、茶葉が動いているのを確認してから蓋を閉める。湯の入っていたケトルを元の場所に戻して席に戻ると、栞里さんがティーカップを清潔な布で磨いていた。

いつものように席に座る。栞里さんが座るのは僕の斜め前だ。最初の頃は違和感を感じていたが、今はそれが普通だと感じている。なんとなく目の前の席を見る。まだ衿ちゃんが居た頃に栞里ちゃんが座っていた席だ。


ティーカップに紅茶を注ぐ。その香りを感じて目を細める。


「良い香りだ。新しいのを開けて正解だな」

「なにか良いことあったの?」

「ああ。今日は月の2週目の週末。君がうちに来て丁度1か月だな」

「えっ?」

(ささ)やかでも祝いたかった」


不意を突かれたようで彼女は目を丸くして驚く。すぐに落ち着いて目を細めてにこりとする。


「ありがとう、気が付かなかった。...そうだったね」

「近所の神社に、健康で無事故でしたとお参りをして、ゆっくり散歩をして、見つけたレストランで食事をする。来週どうかな。」

「うん、いいよ。連れて行って」




また部屋に籠って小説を書いている。

おやつで気分転換になったのだろう。気持ちが澄んでいて作業が捗る。小説全体を読み直して修正し、課題のひとつは納得できるものになった。

違うと思う気持ちを見切って書いたからだろうか、小説の内容がどことなく他人の出来事のように感じたが、それでいいと思った。


残ったもうひとつの課題。栞里ちゃんをどう思っていたのかを考える。

答えは分かっている。衿ちゃんを選んだ後でも栞里ちゃんが好きだった。衿ちゃんを送り届けるたびに栞里ちゃんの姿を探した。衿ちゃんの代わりに栞里ちゃんが遊びに来たときは嬉しかった。最後のデートの時はとても楽しかった。離したくないと思った。

だが時が経つにつれてそれは衿ちゃんへの裏切りだと感じていった。そして謝る機会が無いまま彼女は逝ってしまった。そして僕は自分を憎んで気持ちを捻じ曲げ、栞里ちゃんにぶつけてしまった。その後は距離を置くしかなかった。


僕の小説はフィクションだ。だからそれっぽく書ければいい。だが正しい心で書き上げた時には、由佳の言う通りに思い出に出来るような気がする。

だからどうしたらいいのか考えたい。まだ時間が必要だった。




いつものように栞里さんとふたりで夕食を食べ、いつものように一緒にテレビを見る。そして夜10時になると自室で勉強をして、終わってからベッドに入った。

特別なことは何もないが悪いことも何もない。昨晩からどこかおかしかった栞里さんの様子は夕食の時にはいつも通りになっていた。僕の心は細波が立っていたが隠せていたと思う。とりあえず今日のところは無事に過ごせて良かったと思った。


ベッドに横になり天井を見る。窓から入る星明りが微かに部屋の中を照らしていている。天井は暗闇で見えないが、天井に付いている蛍光灯の丸い形が朧げに見えている。薄雲に隠れた月のようだと思った。


寝付けずに1時間ほど経ったころ、ドアが開いた音がした。首だけ向けてそちらを見ると白い姿が見えた。それは今朝も見た栞里さんの寝間着姿で、ふわふわした心地よい感触が記憶にある。


「悠くん、まだ起きてる?」

「ああ、どうした?」

「眠れなくて。いいかな、少しだけ一緒に居ても」


僕の返事を待たずに部屋に入り、ベッドを椅子代わりにして座った。僕も起き上がり彼女の隣に座る。


「今日はありがとね。気を使ってくれたのでしょう?」

「まあな。少し様子がおかしいと感じていた。もういいのか?」

「大丈夫。あのね......学校が始まって、少し疲れただけ」

「そうか。明日もゆっくりするのか?」

「うん。...スーパーに買い物に行きたいかな。手伝ってくれる?」

「ああ、わかった」

「ん。お願いね」


暗闇の中で彼女が体の向きを変えた。輪郭しか見えないがこちらを見ている。僕も体の向きを変えて彼女のほうに向く。支えにした互いの手が触れそうで、指先に温かみを感じる。

彼女がどんな表情をしているのか暗くて見ることができない。30センチほど寄せて頬が触れ合うくらいに顔を近づければわかるだろうが、今の僕たちの距離はそこまで近くはない。


手を伸ばして彼女の髪に触る。艶やかで指の上を流れていく。さらに腕を上げて彼女の頭を触る。少し手を動かして彼女の頭を撫でた。

その感触は何処か懐かしかった。


「もう寝よう。夜更かしをすると体に障るぞ」

「ん。...ありがとね、眠れそう」


彼女は立ち上がりドアに向かう。ドアを開ける音が聞こえ、お休みなさいと言いながら部屋を出て行った。聞こえるかわからなかったが、おやすみと声を掛けた。


細波立っていた心は落ち着いていて、指に残った懐かしい感触を感じながら眠り、懐かしい夢を見た。




夢の中。


子供の僕がいる。まだ幼稚園だろうか。

女の子がいる。青い服を着た女の子。僕より顔半分くらい背が高い。


僕は丸くなって寝ている。女の子が寄ってきて僕の頭を撫でる。


目を覚まして身動ぎをする。

身動きが出来なくて、抱きしめられていると分かった。

青い服が見えて、あの女の子だと気が付く。


長くて綺麗な色の髪をした女の子。その髪を触ってみたかった。

起きているときは触らせてくれなかったが、今なら触れそうだ。


手を伸ばすが、女の子の頭の上までは届かない。

背筋を伸ばし頑張って手を伸ばした。今度は手が届いた。


女の子の頭を撫でた。さらさらとしていた。

髪の束を優しく掴んで、指の上をさらさらと流す。くすぐったかった。


女の子が目を覚まして下を向く。

僕は見上げていて、女の子と目が合った。


大きな瞳がとても綺麗で、しばらく見詰めていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ