そして僕たちの関係が始まる(1)
「ありがとな。以前も同じように抱きしめてくれた。感謝している。」
「悠人、覚えてたの?」
「いや、覚えてなかったよ。いま気が付いた。」
「ううん、それでもいい。」
由佳ちゃんの抱きしめる力が緩み、視界が開けていく。彼女の胸が目の前にあり、直前までその柔らかなものが顔にあたっていたのだと冷静に分析する。彼女が体を少し後ろに引いて僕をのぞき込んだ。両手で僕の頭を左右から挟んでおり、僕の視界には彼女しか見えない。彼女は微笑んでいるが、声が震えており涙を流している。
いま由佳ちゃんが至近距離に居るのに、直前まで抱きしめられていたのに、僕はいまの状況を冷静に分析している。心が穏やかなことに違和感を感じた。
「どうした?」
彼女に問うたが、その言葉は僕自身に『彼女をどう思っているのか』と問う。僕の心は何も返さず、そして彼女の返答は理解の外のものだった。
「ううん、覚えていてくれて嬉しかった。」
僕が憶えているのは、懺悔をしながら衿ちゃんを思い出そうと苦しんで、いつ寝ているのかいつ起きているのかも分からなくなっていたときに、誰かに抱きしめてもらったことで安心し、ぐっすりと眠ったことを覚えている。朧げな記憶だが、由佳ちゃんと栞里ちゃんが居たように思う。そのときによく眠れたからか、その後のことは覚えている。毎日のように由佳ちゃんが来て僕を励ましてくれた。そのことだろうか。いや、そのことなら復学した時に礼を言ったので話が合わない。僕が忘れている何かがまだあるのか。
彼女が悲しげな表情になり、近づいてきて僕の唇と合わせた。驚いてのけぞろうとするが、椅子の背もたれが邪魔をして動くことができなかった。乱暴に拒絶することは本意ではないため、手を伸ばして彼女の腰を掴み軽く押すが、彼女はそれに反発してさらに体を寄せる。
彼女の感触を感じながら視線を動かすと、立ってこちらを見ている栞里さんの姿が見えた。
由佳ちゃんをさらに強く押すと、由佳ちゃんが名残惜しそうに唇を離すが、僕と目が合うとポッと顔が赤くなり、慌てて背中を向けて少し離れたソファーに座る。
「ごめん、抑えられなかった。...前に悠人が泣いたとき、どうしたらいいか分からなくて抱きしめたんだ。それでも泣き止まないから、もうキスするしかないかなって。...あの時のこと思い出しちゃって。」
栞里さんが台所に向かうのが見えた。その姿を目で追いかけながら、いまどうするべきかを冷静に考えている。...なぜ僕は冷静でいられるのか。胸がチクリと痛んだ。
「ありがとう、落ち着いたよ。ごめんね、キスまで。」
「ううん、あたしがしたかったんだ。だからごめん。迷惑だったよね?」
「いや、迷惑とは思わないが、ただ、嬉しいとも嫌とも思わなかった。僕はどうしてしまったのかと考えていた。...それに僕もこの前、その場の気持ちでやってしまった。だから、こういうこともあると身を以て知っている。」
「やったって、栞里ちゃんと?」
「ああ。キスした。」
「それだけ?」
「ん? それだけだ。他に何かあるか?」
「悠くん、それだけだっけ?」
栞里さんがお茶を持ってきており、会話に口をはさむ。
「はい、お茶入れなおしたから。あと、少し早いけどおやつにしましょう。」
「ありがとう。」
「あたしも貰う。ありがとー。」
由佳ちゃんが食卓の席に戻る。栞里さんも席に着いた。
「で、何でキスしたの?」と由佳ちゃんが聞いてきた。
「えっ、それ聞く?」
「うん、聞きたい。」
「わたしも聞きたいな。ゆっくりでいいから話して。」と、栞里さんが優しく微笑んでいる。」
「...仕方ない。」
由佳ちゃんと栞里さんが喧嘩を始めないかを気にしていたが、ふたりの様子からその気配は無さそうだ。僕は胸を撫で下ろして微笑する。
「海外に居る母さんとビデオ通話をしていたんだが、母さんが栞里さんと話したいってことで、そこのソファーに並んで座った。衿ちゃんの一周忌には夫婦として参加しろと言われ、意識してしまってね。通話が終わった後に栞里さんを見たら、とても可愛く見えて、思わずキスした。」
「で?」
「言わなくちゃダメか? 恥ずかしいんだが。」
「さっきまで恥ずかしいことをべらべらと喋っていたと思うけど?」
栞里さんを見ると、少し首を傾げて、なんで?という顔をしている。その顔を見て、少し気が楽になった。
「すこし昔話をするよ。...衿ちゃんがまだ元気だったころ、衿ちゃんの代わりに栞里ちゃんがデートに来るときが時々あった。そして、高校生になってからの初めての、そして最後となった江の島でのデートに来たのは栞里ちゃんだった。
衿ちゃんとどのように廻るか計画していて、何か記念になるときに行こうと言っていた場所だ。衿ちゃんからそこに行きたいと言われたとき、別れ話をするんだと思った。...そして栞里ちゃんが来たのを見て、やっぱり別れるんだと思った。
だったら楽しもうと思って、栞里ちゃんとデートをした。それまでも何回かデートをしていたけど、それまでは衿ちゃんの代わりと思っていたから、そのときが栞里ちゃんとふたりきりでの初デートの気持ちだった。
楽しい時間だった。僕はたぶん恋をして、夕焼けの丘の上で好きだと伝えた。栞里ちゃんからも好きだと返事をもらって、一緒に鐘を叩いた。栞里ちゃんが夕日に照らされて頬を赤く染めていて、笑顔で可愛かったんだ。
...この前、その時を思い出して気持ちが昂り、それでキスをした。」
栞里さんを見るが何も反応はない。恥ずかしがる姿が見たかったと、心の中でがっかりする。
由佳ちゃんが僕を見ていて、「ふーん」と言ってにやりとした後、真剣な顔で僕に問う。
「小説の中で、リカにキスしていないよね?」
「え?」
「気が付いていないんだ。」
「そうか...読み返して、考えてみる。」
「リカと暮らしていて、ユウはリカをどう思ってる?」
「...」
「イメージ出来ていないんでしょ? この小説からリカへの気持ちが分からない。リカはエリの代わりとしか思えない。...ちゃんとリカを、見てあげて。」
由佳ちゃんの目に涙が溜まり、頬にひと筋の涙が流れる。
「ごめん、ちょっと感傷的になった。...考えてみて。」
「...ああ、ありがとう。ごめんね、辛い思いをさせて。」
「ううん、大丈夫。」
由佳ちゃんが栞里さんを見る。その後、僕を一瞥してから目を閉じて天井を向いた。彼女を見た栞里さんが眉根を寄せる。
「あたし、悪い子かもしれない。」
苦い表情で僕を見る。少し戸惑った語、目を瞑って深呼吸し、覚悟を決めたのか真剣な顔になり言葉を続けた。
「いま詩衿ちゃんが生き返ったら、あんたはどうする?」
「え?」
「詩衿ちゃんと付き合う?」
急な質問に戸惑う。もしもいま衿ちゃんに出会ったら。
衿ちゃんの葬儀の後にそうなったように、衿ちゃんを見続けることができずに栞里ちゃんを好きになった自分を、認められずに罪悪感でいっぱいになるだろう。その後、僕はどうするだろうか?
「答えられないか。ま、そうだよね、そんなことは起こらないから。...だけど詩衿ちゃんになってあげるって人が現れたら?」
いま衿ちゃんに会ったなら、たぶんもう衿ちゃんしか見ない。それが僕の本当の想いなのかは分からない。だけどたぶんそれが義務なんだと割り切るだろう。...衿ちゃんではない誰かが衿ちゃんになったら、僕はどうするだろうか。
ふと栞里さんを見る。それに気が付いて栞里さんが首を傾げた。
「あたしがなってあげる。」
驚いて由佳ちゃんを見る。真剣な表情をして僕を見ている。
「詩衿ちゃんを直接は知らないけど、さっきの話と小説から分かるから。...あたしに似てる。...ううん、あたしなら真似られる。栞里ちゃんは詩衿ちゃんになれなかったけど、あたしならなれる。だから、...だから悠人の彼女にして。」
由佳ちゃんの頬を涙が流れた。それはたぶん彼女の信念から外れた行為だからだ。それだけ本気なんだと分かる。嫌なことは嫌と言い、嬉しいことは嬉しいと言う。まっすぐで自分を偽らない。それが彼女であり彼女の信念だと、長い付き合いの僕は知っている。
「それに答える前に、由佳ちゃんに伝えることがある。」
「なに?」
「栞里さんと、夫婦の真似事をしながら暮らしている。たぶんそれは、しばらく続く。」
「真似をしているだけでしょ?」
「まあ、そうだ。」
「ならいいよ。悠人の様子を見て、まだ大丈夫と思ったから。」
「そうか。」
否と答えたら彼女は去っていくのだろう。そして多分、もう二度と友達以上には成れない。いや、友達でもなくなるように思う。僕がそうしたように、距離を置かなければ辛くなるから。
僕には彼女が必要だ。彼女の笑顔に救われてきた。僕を見てくれる人がまだいるからと勇気を貰った。...彼女と疎遠になったなら、僕はまた自己嫌悪に陥るだろう。答えは他には無かった。
「分かった。付き合おう。」
僕たちが今後どういう関係になるかわからないが、由佳ちゃんの気持ちを受け取ることにして、関係をひとつ進める。
「ひとつお願いがある。衿ちゃんの真似をする必要はないから。君のままで居てくれ。」
由佳ちゃんは頷いた後、立ち上がって、くるっと後ろを向いた。そのまま台所のほうに歩いていく。
栞里さんが目を大きく開けて僕を見ており、僕が見たのに気が付いて何かを喋ろうとしたが、喋らないで諦めた。一緒に暮らしていてよく見る光景。以前の栞里ちゃんは僕には自己主張をしていたが、おそらく衿ちゃんが亡くなった時に心に傷を負ったんだ。...僕のように。
「栞里さん、聞いた通りだ。僕は由佳ちゃんと恋人を目指して付き合う。栞里さんとはこれからも夫婦とはなにかを一緒に探していきたい。...倫理的にどうなのかとは思う。またいつか、そう遠くない未来にどちらかを選ばなければならない時が来る。そのときふたりとも傷つけてしまうと思う。それでも、付き合ってほしい。」
栞里さんは目をパチクリとして僕を見る。表情はほとんど変わらないが、少し嬉しそうだと感じた。
「ん、わかった。...由佳ちゃん、友達で居てくれる?」
由佳ちゃんは向こうを向いたままで表情は見えない。
「まえに約束したよ、友達でいるって。」
「そうだね。ありがと。」
栞里さんが立ちあがって台所に向かい、由佳ちゃんを背中から抱きしめた。栞里さんが15センチほど背が低いため、姉に抱きつく妹のように見える。
しばらく小声で話し合ってから、正対してふたり仲良さそうに手を結んで笑いあっている。僕は楽しそうなふたりを見ながら微笑んでいた。




