栞里との夕食
家に着き、鍵を開けて玄関に入る。栞里さんはまだ帰っていなかった。いつもなら「お帰りなさい」と声をかけてくれるのだが、その声がないのが少し寂しかった。
脱いだトレーニングウエアを洗濯機で回してから、シャワーで汗を流す。むき出しだった前腕部が日に焼けていてピリピリとする。サングラスをしていたため顔がパンダになっていたら嫌だなと思い鏡を見るが、気になる焼け方にはなっていなかった。
風呂場を出て服を着ていると、玄関が開く音と栞里さんの「ただいま」の声が聞こえた。「おかえり」と声を出し、服を着終わってから脱衣所のカーテンを開け、洗面場から廊下へのドアを開けた。
ドアが何かにぶつかる感触と「きゃっ」っと声が聞こえ、半開きのドアの隙間から廊下を覗くと、栞里さんの顔がすぐそこにある。
「ごめん。」
咄嗟に謝罪してゆっくりとドアを閉める。ドアの向こうに気配があり、栞里さんの声が聞こえた。
「ううん、大丈夫。この前の反対だね。」
くすくすと笑い声が聞こえてドアを離れていった。
自室でパソコンに向かって日記を書いている。今日のサイクリングの道程、途中で撮った写真、感じたことを書いていく。30分ほどで書き終わり、一息ついたところで洗濯をしていたことを思い出した。
階段を降りて洗面場のドアをノックする。「ちょっと待って」とドアの向こうから栞里さんの声が聞こえた。
「居間で待ってて、すぐ出るから。」
「ああ、わかった。」
3分ほどして栞里さんが居間に来た。両手で洗濯かごを抱えている。
「悠くん、空いたよ。洗濯機にあった服はベランダに干しておくね。」
「ん、ああ、ありがとう。洗濯物を忘れていて取りに来たんだ。」
栞里さんを見る。シャワーをしていたのだろう、髪をアップにしてタオルでまとめており、普段は髪で隠れている耳と首筋が見えている。洗濯かごを胸の前に抱えており、胸の上部までと手足しか見えないが、上下ともふわふわとした肌触りの良さそうな生地で、ゆったりとした7分袖のTシャツに幅のある膝丈のズボンを着ているのが見て取れる。小振りな彼女がふわふわした服を着るとぬいぐるみのようで可愛いだろうと想像する。空想の中での彼女はケモ耳も着いている。
「どうかした?」
「いや、見たことのない姿だと思ってね。」
「シャワー浴びたから、ちょっと早いけど寝間着にしちゃった。...お風呂上りに会うのは初めてね。」
「そういえば、そうだな。」
「ちょっと洗濯物を干してくるね。」
彼女が振り返り廊下に出ていった。無意識にその後ろ姿を目で追いかける。パタパタと階段を上っていく音が聞こえた。
時計は夕方6時を回り、いつものなら日記を書いている時間だが既に書き終わっているため、何をするか迷い所在を無くしてソファーに腰を掛けた。何気なく目の前にあったテレビのリモコンを掴みテレビをつけると、画面に子供向けのアニメが流れる。
アニメならではの衝撃的なシーンが流れ、キャラクターが個性的なセリフを喋る。剽軽な内容の中で印象的なシーンがあり、久しぶりに見たアニメに引き込まれた。後半はテンポよくストーリーが進み、最後に主人公が台詞をキメてエンディングが流れる。
階段を下りてくる足音が聞こえ、栞里さんが居間のドアを開ける。アニメを見ている僕に、にこやかに声を掛けた。
「悠くん、楽しそうね。」
「アニメを久しぶりに見たよ。これは今人気のヒーローものだな。初めて見たが人気があるのが分かるよ。受けた印象のとおりに動くキャラクターとセリフ。可愛いときは可愛らしく、恰好いいときは恰好よく、善悪も分かりやすい。悪役もただ悪いだけでなく背景が丁寧に描かれている。なにより主人公に人間味がある。」
「評論家みたいね。」
「ん? ああ、そうだな。子供のように無心でみるのが難しくなってきた。大人になったってことかな。」
「そうね。...大人になるって、面倒くさいね。」
彼女は背を向けて台所に向かう。最後のすこし棘のある言葉が気になったが聞き流すことにした。
「髪を乾かしてくるね。その後、夕御飯にしましょう。」
栞里さんがテーブルに料理を並べていく。作る時間は短かったはずだが、その料理の数に驚いていると説明をしてくれた。
「帰りに揚げ物を買ってきたの。筑前煮は朝煮ておいたもの。ひじきの煮物は作り置きしていたものを解凍しただけ。漬物とサラダは買って来たものを出しただけね。今日はお米を炊いてお味噌汁を作ったけれど、冷凍しているごはんがあるし、インスタントの味噌汁もあるよ。」
「凄いな。」
「学校が始まったら、こういうのが多くなると思うの。だから今はちゃんと作りたいんだけどね。今日は遅くなっちゃったから。」
不意に表情が暗くなる。なにかを思い出しているようで箸が止まった。
「待ち合わせをして、お母さんと会ったの。」
表情は暗いままだ。お母さんとの仲は良いはずで、会って喧嘩になったのか、それとも別の何かがあって会うことになったのか。...少なくとも僕から尋ねてはいけないものと思った。
「そうか。...相談があるならいつでも聞くぞ。」
「...ありがと。今度ね。」
栞里さんの表情が幾分和らぎ、僕に視線を向ける。僕は判断が正しかったとホッとして微笑み、話題を変えた。
「お母さんと、美味しいものでも食べたのか?」
ぱっと明るい表情になり、少し興奮気味に喋りだした。
「うん、パフェを食べたよ。イチゴのパフェ。こんなに大きくて凄かったんだから。お母さんはマンゴーのパフェで、少し食べさせてもらったんだけど美味しかったよ。あとね、、」
よっぽど美味しかったのだろう楽しそうに喋っている。自ら話し始めることは少ないが、話し始めると長いことは過去の経験から分かっている。適当に相槌を打ちながら話を聞き流し、さきほどまでのくらい表情の理由を考えた。
スイーツではしゃいでいることからお母さんと喧嘩をした感じではない。お父さんとは反りが合わないと聞いているが、あの短気なお父さんの性格ならば直接乗り込んでくるだろう。すると夫婦喧嘩をしていると考えられるが、もしそうならうちの母と相談するはずだ。仲の良い姉妹で、過去にも何度か相談があった。娘の栞里さんに相談をするとは考えにくい。
栞里さんがお母さんに相談したという可能性。うぬぼれかもしれないが、何かあれば最初に僕に相談するものと思う。ひと言も相談がないのは僕に関することだからか。考えられるとすれば由佳ちゃんだろう。日帰り旅行では栞里さんには触れることもなかったが、由佳ちゃんとは腕を組み手を繋いだ。嫉妬しているのだろうか。
推理の結論が出ないまま、栞里さんのお喋りが終わり、夕食が終わった。
その後はいつも通りに風呂の後に自室に籠る。先ほど見た栞里さんのふわふわした服姿を想い浮かべたが、寝るまでに会うことはなかった。




