神無月の守り人
あれはまだ、私がまだ小学生だった頃のことだ。
「つかまったら、連れて行かれちゃうらしいよ」
クラスメイトの誰か……多分、同じグループにいた女の子の一人が、不意にそんなことを言ったんだ。
何に、と、彼女は口にしなかった。でも、話し方や彼女の纏う空気で、その場にいた皆が答えを察した。……彼女は、何か、得体の知れない――人間じゃないもののことを話しているんだと。
冗談染みた雰囲気じゃない。むしろ、つい耳を傾けてしまうような、からかうなんてこともできずに静まり返ってしまうような……そんな不思議な雰囲気が教室内に漂った。確かに小学生ではあったけど、低学年ではなかったはずだ。それなのに、誰一人として嘘だと疑う様子を見せなかったのは、その子が何処か不安げに、それでいて神妙な調子で口にしたからなんだろう。
どうしてそんな話題になったのか、きっかけは全く思い出せない。私が辛うじて覚えてるのは、彼女が窓の外に広がる空を眺めていたこと。そして、確信染みた口調でもって、こんな風に続けたことだ。
「とくに、十月はあぶないんだって――」
どうして彼女がそんなことを知っていたのか、今となっては答えを知ることはできないけれど、想像はできる。
多分、その子も出逢っていたんだろう。
私のことを助けてくれた、あの、不思議なお兄さんに。
†
それは、ある暮れのことだった。少し前までは五時を過ぎてもまだまだ明るさが残っていたのに、十月に入ったら暗くなるのなんてあっという間だ。遊んでいた友達と公園で別れた私は、一人ですっかり暗くなった帰り道を歩いてた。そして、不意に顔を上げたくなったんだ。普段だったら少しも気にならないのに、その日は何故だか無性に気になったし、確認しなければいけない気もした。今思えば、多分、勘のようなものが働いていたんだろう。いわゆる、虫の知らせみたいなものが。
空を見れば、〝それ〟はすぐに目に映った。
赤い、紅い、血のような色をした満月が。
背筋にぞっとしたものが駆けていく。同時、私は不思議と確信した。――何かに、後ろから視られてる、と。振り向くような度胸はない。そんなことをしたら、多分、私は恐怖で一歩も動けなくなっただろう。
逃げなきゃ。
決意と同時、息を切らし、足がもつれそうになりながら、私は必死に駆け出した。これで全てが私の勘違いだったら、笑い話で済んだのに――不運なことに、決してそうはならなかった。
私は、ずっと、追われてた。何かに。その相手が何だったのかは、昔も今も分からない。足音はしない。だけど、呼吸が微かに耳へと届く。その吐息には、確かに笑気が混じってた。余裕があるし、私を嘲ってもいるようだった。遊ばれてるんだ。けれど、単にからかっているだけじゃない。最後には私を捕まえて、何かをしようとしてるんだ。根拠は全くないけれど、訴えるように、本能がずっと、警鐘を鳴らし続けてた。
もしも、追い付かれてしまったら。私は、一体、どうなってしまうんだろう?
――『つかまったら、連れて行かれちゃうらしいよ』。
蘇るクラスメイトの言葉に、視界がどんどん滲んでいった。何処だって嫌だ。そもそもその情報自体が正しいとも限らない。食べられるとか――殺されるとか。そんな可能性も、ないとは言えなかったけど。どれにしたってそんなの嫌だ。運動が得意な子供じゃなかった。体力だってある方じゃなかった。けど、走り続けるしかなかった。
行先も考えず、ただがむしゃらに逃げ回った。途中何度も転んだのに捕まることがなかったのは、相手が怖がる私の様子を見て楽しんでいたからだろう。常に、すぐ後ろに気配があった。相手は私を捕まえない。立ち上がって、また逃げ出すのを待っていた。笑い声さえ聞こえた気がして、悔しさと怖さに一層視界がぼやけたけれど、相手の気が変わったら終わりだ。私には、逃げ続ける以外に道はなかった。
何処へ行けば正解なのかも分からない、永遠にも思える時間の中での追いかけっこ。肺が焼けたように熱くなって、喉が痛くて、膝が笑ってしまっても、私は走り続けてた。とっくに家に着いていてもいいはずなのに、そうでなくとも、誰かとすれ違っても不思議じゃないのに、人の姿は全くないし、見えてる景色も、数秒で覚えのある場所へと戻る。同じところを、ぐるぐると回っているだけらしかった。追いかけている何かが出口を隠してしまったのか、混乱していた私が勘違いをしていたのか……時間の異様な長さからして、多分、前者が正解だったんだろう。
――もう、無理かもしれない。
諦めかけた、その瞬間。急に、身体が背後から上方へと引っ張られた。突然襲った浮遊感に、頭は恐怖で塗り潰された。
「ひっ……!」
「――よう」
だけど、上からかけられた声は、想像していたものとは全く違ってた。聞いたことのない声だ。それでも、どうしてだろう。何故だかすごくほっとした。怖いとは少しも思わない。むしろ救いのように思える、親しみの込められた声だった。縋るような気持ちで顔を上げれば、不思議な容姿のお兄さんが、私のことを抱えていた。
結い上げられた長い白髪、真っ白な肌、真っ赤な目。綺麗さの中にも可愛さが混じるその顔は、懐かしいような気もしたし、初めて見る人のような気もした。大人のようにも見えるけど、子供っぽさが漂っていたようにも思う。今まで見たことのある誰よりも整っている顔をした、不思議な、男の人だった。彼はこんな不可思議な状況にはまるで気付いていないかのように、屈託のない笑みを浮かべて、私へと首を傾げてみせたんだ。
「お嬢さん。そんなに急いでどうしたんだ?」
どうしたって言われても……ばくばくと跳ね続けている心臓の動きを感じながら、必死に言葉を探す私は、結局どんなに頑張っても、上手く説明できなかった。
助けて、と、縋れば良いんだろうか。それとも、逃げて、と、促すべきなんだろうか。危機感なんてまるでない、笑顔を浮かべたお兄さんの様子を、私は一体、どう受け取れば良いんだろう。鈍感? 余裕? 困惑と混乱の渦中にいる私を見てか、お兄さんは何時の間にか悪戯っぽく笑っていた。
「なんてな。――ちょっと待ってな」
くしゃりと私の頭を撫で、その人は地面に下ろした私を飛び越える形で視界から消えていく。去り際、「目は閉じといた方が良いぜ」と呟くように指示された言葉に従って、私は祈るような気持ちで固く目を瞑った。
数秒の間、空を裂くような音がしていた。次いで……鳴き声、と言えば良いんだろうか。叫び声、と表現した方が妥当だろうか。どちらともつかない、つんざくような高い声が、私の耳朶を打った後、辺りはさっきまでとは打って変わって静まり返る。何の音も聞こえない中、胸全体に響くような自分の心臓の音だけがやけに大きく響いてた。一体、どうなったんだろう。あれは誰の声だった? 状況は分からないけれど確認する度胸もなくて、両手を固く握りながら私は唇を噛んだ。
「開けていいぞ」
……と。そんな風に明るい声がかけられて、私は恐る恐る目を開けた。一体どんな光景が広がっているんだろう? そう、不安ばかりが胸を占めていたけれど、私が恐れていたようなものは何も存在していなかった。確認の為にぐるりと一通り見回してみても、周囲に広がっているのは何時も通りの住宅街で、背筋を駆け巡る悪寒のようなものだって今は少しも感じない。
助かったんだ……
そう理解した瞬間、瞬く間に足から力は抜けて、その場に座り込んでしまった。深い安堵の息を吐けば、俯いていた私の視界の端に、別人の靴が入り込む。辿るようにして顔を上げれば、お兄さんが腰を折って私の顔を覗き込んだ。
「良かったなぁ? 俺が近くで休んでて」
楽しげに笑っているお兄さんは、さっきと何一つ変わってない。怪我をしている様子もないし、全く疲れてもいなかった。だけど、状況から考えて、お兄さんがどうにかしてくれたんだろう。
凄い人だ。……いや、そもそも人なんだろうか? ぼんやりとそんなことを考えながら、私はゆっくりと立ち上がった。足の感覚はまだ完全には戻っていなかったけど、朗らかな調子のお兄さんが隣にいる影響だったんだろう。心には大分余裕があった。
「全く、これだから神無月って奴は。どうにも物騒なこった」
軽い口調で独り言のように紡ぎつつ、その人はゆるりと空を仰いだ。細められた瞳には、一際輝く天体がはっきりと映り込んでいて、それがとても綺麗だったことを覚えてる。
「特にこういう、血みたいに赤い月が出た夜は」
つられる形で見上げた先にある月は、確かにその人の言う通り、血に似た赤色に染まっていた。ただ、最初に目にしたときのような怖さは、もう少しも感じなかった。怖い何かが消えてしまったこともあるけど、もう一人きりじゃない……お兄さんが一緒に居てくれるっていう心強さがあったからなんだろう。
「早く帰った方が良いぞ。今月だけは、さっきみたいな奴に子供は連れて行かれやすい」
改めて私を見下ろしながら告げられた言葉に、私はぎくりと固まった。
一人きりで、これから帰らなきゃいけないんだ。
そう思うと途端にぞっとした感覚が蘇ってきて、思わず私は立ち竦んだ。
けれど。
「ほら」
言葉と共に、当たり前のように差し出された掌に、私は何度か瞬きをした。すぐには意図を掴めなかったけど、多分、これで合っているんだろうと思って、ゆっくりと自分の手を乗せれば、それは正解だったらしい。包まれた手の温かさは、気持ちも相俟って熱さすら感じた。
「家は何処だ?」
「あっち……」
恐る恐る、予想が間違っていないことを願いながら指で示せば、その人は当然のように私を伴って歩き出した。
そういえば、私はこの人にさっきから一度もお礼が言えてない。そのことに気付いた私は、隣を歩くこの人を見上げた。その日、空に浮かんでいた満月よりもずっと深くて鮮やかな赤が、真っ直ぐに前方を見据えてる。温かさと明るさのあるその色は、見ていて何だかほっとした。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「別に良いよ」本当に何でもないことのようにさらりと言って、その人は明るい笑顔を浮かべた。「さっきの奴が消えたせいで、此処いらに居た奴らは退散しちまったらしいんでね」
私は目にしていないから、その〝相手〟が一体何かは良く分からなかったけど、どうやら一匹……一体? 一人? とにかくさっきの相手だけで全部じゃないことが分かって、また薄らと怖くなる。だけど、この人が大丈夫だと言うんだから、少なくとも今日に限ってはもう平気なんだろう。
「お兄ちゃんは……」こういう常識の範囲外のことは、深く追求したらいけないんじゃないかとも思ったけれど、お兄さんが私を見下ろす瞳は何だか優しく、続きを待っていてくれているみたいだったから、迷った末に結局疑問を口にした。「いっつも、さっきみたいなことしてるの?」
「別にいつもって訳じゃねぇな」あっさりと答えたお兄さんは、からからと楽しげに笑った。「今月だけは特別さ。大方の奴らが、出雲に出掛けちまってるんでね」
当然のようにすらすらと語るお兄さんに、幼い私は首を傾げて単語を反芻してみせるのが精一杯だった。
「イズモ……」
「そう。まぁ留守神だけは残っちゃいるが、自分達だけじゃあ到底手が足りないってんで、こうして俺も手を貸してんのさ」
お兄さんの言うことは、当時の私にはやっぱり良く分からなかった。流石に今では何となく理解できるけど、それにしても非現実的な内容だから、この解釈で合っているっていう自信はない。
ただ、それでも、察してしまうことがあった。
「……じゃあ」
彼は、誰かを助けると言っていた。それはきっと、さっきのような相手からヒトを護る為なんだろう。そしてそれは、この十月に限られている。……幼い私の大雑把な解釈が、もしも正しいのだとしたら……
「もう、会えない?」
何だか、それはすごく残念な気がした。強く惹き付けられる容姿をしていたからだろうか。命の恩人だからだろうか。家まで送ってくれるような優しい人だったから? それとも……理由は今でも判然としない。ただ、二度と会えないのは寂しいと思った。
「さて、どうかね――」私からの問いかけに、お兄さんは相変わらず笑みを浮かべたまま、ついと上方に赤い眼差しを向けた。「――まぁでも」
星を閉じ込めたかのような、宝石よりも輝く瞳を細めつつ、お兄さんの口角がゆるりと吊り上げられる。何だか、とても楽しそうだ。……そう見えたけど、本当のところはどうだったかは分からない。
それは、分からなかったけど。
「次はもっと、綺麗な色した月の下で逢いたいもんだ」
お兄さんの意味ありげな台詞に、改めて私は月を見上げた。満月は相変わらず血のような赤で私達を見下ろしている。何度見ても不思議な……不気味さのある色だった。
もっと綺麗な色って、一体どんな色だろう。普段の月のことだろうか。それとも、正反対の青色とか? ……考え込んでいる私の頭を、お兄さんがくしゃりと撫でて、私はすぐに彼を見た。視線が交差して、数秒。お兄さんは、その日で一番優しい目をして、幼かった私のことを見下ろした。
「またな」
ふわりと綺麗な笑顔が浮かんで、それから、強めの風が吹き抜ける。思わずぎゅっと目を瞑り、再び目蓋を開けたときには、彼の姿は消えていた。前後を見ても、路地に立つのは私だけ。漂ってくる料理の匂いとか、家々から漏れ聞こえてくる声だとか。完全に戻った日常の中に、お兄さんはいなかった。
彼は、一体誰だったんだろう。月を見る度疑問に思うし、それに……ほんの少しだけ楽しみなのだ。また、あのお兄さんと会える日が。
今夜の月は綺麗だろうか。お兄さんにとって、綺麗な色に見えるだろうか。
見上げる度に思い出すたった一度の邂逅に、私は今も……そして明日からもずっと、月に希望を託すんだ。
願わくば、あのお兄さんにとって、綺麗に思える月が出てきますように……と。