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これは、私が四歳……いえ、たしか、五歳くらいの話だったと思います。
何分、昔のことでして、記憶があいまいなのです。小学校に上がる前だというのは確かなのですが、それ以上のことは、あまり覚えておりません。
季節は、お盆休みの頃でした。当時はまだ小学校に上がる前とはいえ、私のいた保育園にも夏休みというものがございました。そのころ、私の両親は共働きだったため、私は家に独りぼっちになってしまいます。
当時は己に自信過剰なところがございましたので、それでも大丈夫だと思っておりましたが、私の両親がそれでいいというはずもなく、母方の祖父母の家に、一週間ほど預かってもらうことになりました。
母方の祖母の家は、『よき古き田舎』というべき場所にございました。正確な場所は……申し訳ありません。もう、母方の祖母がお亡くなりになってから何年もたっておりまして、あの経験をした時の年頃と同じく、地名を忘れてしまいました。
ですが、その場所の風景はよく覚えております。青々と茂る木々に、油蝉たちの大合唱。小さな小川のせせらぎに、そして、最終日の夏祭り。月並みな表現しかできませんが、都会に暮らしていた幼い私が知らない、未知に溢れた世界であったことは確かでした。
なにせ、私はカブト虫というやつを薄っぺらい手のひらよりも少し大きいくらいの画面越しか、ショッピングセンターの薄いプラスチック越しにしか見たことがありませんでしたから。実物を見たときの驚きと言ったら、もう。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのためにある言葉でしょう。
ああ、そうですね。話を戻しましょう。
いまだにカブト虫というやつは嫌いではありません。ですが、当時の私はまだ子供。子供の興味というやつは中学生ごろの恋心よりも移ろいやすいもので、カブト虫でも興味は数時間、といったところでした。
恐ろしいことに、いくら目新しく、異世界ともいえるような田舎の風景でしたが、幼いころの私は、三日と立たずにみな飽きてしまいました。
当時も、ゲーム機というやつは存在しました。ですが、祖母はそいつが大嫌いだったのです。
曰く、あんなものを子供の内からすると、頭が悪くなると。彼女の先祖はゲームの登場人物にでも殺されたのかと思うべき憎み方でした。
祖父母の家に置いてある本はみな小難しく、小学生にもなっていなかった私は、読む気にすらならないものばかりでした。さらに、年齢が違う以上、祖父母ともに話が合うはずがございません。
つまり、私は暇を持て余していたのです。
退屈で、退屈で、仕方のなかった私は、ついに、祖父母に内緒で外に出ることにしました。
いえ、内緒というには少々語弊がございましょう。子供にありがちな、『書き置き』というやつをしてから堂々と、しかし、祖父母には無断で外に出たのです。
夏真っ盛りということもあり、日差しはとても強かったことを覚えております。
最初の方は興味と好奇心が勝って、あっちへふらふら、こっちへふらふらとしておりましたが、よそ者というやつは目立つものなのでしょう。祖父母の家から数分ほど歩いた幼い私は、私よりもいくつか年が上だと見える男の子に声をかけられたのです。
「なあ、お前、だれ?」
そんなことを聞かれた私は、何を思ったのか、すべて正しく答えました。
私の名前、一週間だけ祖父母の家に泊まること、祖父母の家、仕事で忙しいらしい両親への文句などなど。今考えれば、不用心にも程度がございます。ですが、当時の私は、悪意というものをご存じなかったのです。
その年上の少年、仮に、少年Aとでもしておきましょうか。私があまりにも無警戒に個人情報をはなすものですから、彼も自らのことを話さざるをえなくなったのです。
曰く、少年Aは小学校に上がっていくつかであり、弟がいるとのことでした。家の場所を聞けば、指をさして教えてくれました。私の地元のように、ビルが乱立する都会の話でしたら笑い話ですが、ここは田舎。指をさしたところには、家が一つしかございませんでした。つまり、彼も私と同じように、住所を教えてくれたも同然なことでした。
そのあと、私と少年A、近所の子供、そして、少年Aの弟と一緒にしばらく遊び、日が暮れる前に祖父母の家にこっそりと戻りました。
書き置きは残しておいたものの、昔の私は年齢を数えるのに両手もいらないような幼子です。当然、祖父母は大変な心配をしておりました。
日焼け止めも塗らずに外に出たものでしたから、当然のように祖父母にばれて怒られてしまいました。
ですが、その日から、私と少年A、それに、彼の弟とは、本当に血が通た兄弟のように遊ぶようになりました。彼らの秘密基地とでも言うべき場所に呼ばれるくらいには仲が良くなったのです。
彼らの秘密基地は、この田舎の肩外れにある、廃病院でございました。今考えれば、危険極まりないことです。何せ、その廃病院は取り壊しもされずに数十年と取り残されていましたので、風化が進んでおりましたから。
ですが、そこの光景はよく覚えております。外は体がとろとろに溶けてしまいそうなほどに熱いというのに、その廃病院は空気が違いました。ひんやりとした、涼しいというよりも、どこか空寒いといったその気温に、廃墟独特の埃っぽさ。少年Aと、その弟、さらに私の三人でしたから、その場はあまりにも静かでした。
そこで私と彼らは、大人にも内緒の話を始めました。最初は、私からでした。
私が話したのは、保育園での友人関係のことです。保育園というやつは男女の分別もなく、同時に運動もお勉強もするものですから、得意不得意がいっぺんに露見してしまいます。かくいう私は、どうしても鉄棒とかいう名前の、存在意義の理解できない遊具が大嫌いでした。
なにせ、皆は楽しそうに「前回り」も「後ろ回り」も、得意な子でしたら「地球回り」やら「大車輪」やらをしておりましたが、どうも私には跳躍力と腕の力が不足しておりまして、どんな愚鈍でもできる、鉄棒に腹から乗っかり、両の手を放してあの憎き金属の棒に体を預けるだけの「お布団」さえもできなかったのです。私は、それが嫌で嫌で仕方がありませんでした。
鉄棒の得意な友達が、うらやましくて仕方がない。どんなに練習しても鉄棒ができず、悔しくて仕方がない。かつての私はそんなことを話した気がしました。
当時の私にとっては十分、いや、十二分には重たい告白でしたが、少年A兄弟の告白は、私のそれよりもずっと重たい告白でした。曰く、数日前に父が失踪したとのことだったのです。
彼ら二人は、父が嫌いだったらしいのです。なにせ、やさしいお母さんに暴力をふるっていたらしいのですから。いつも鼻につく匂いがして、少年Aたちには飲ませてくれない炭酸飲料を飲み、威張り散らし、怒鳴り散らす、そんな父が大嫌いだった。少年Aは、そう言葉を始めました。
ですが、そんな彼らの父が、ここ数日家に帰ってこないのだと。
母は憔悴しきり、いつも目に隈を浮かべ、何かにおびえているらしいのです。勇敢な少年二人は、それが心配で仕方がないとのことでした。
嫌いなものがいなくなったのなら、それでいいじゃあないか。
当時の私は、無神経にもそう言いました。そんな恐ろしいつぶやきに、彼らは首肯して言いました。
暴れまわる父がいなくなったのは、別にいいのだと。
それよりも、そんな父を心配して夜も眠れない様子の母が心配なのだと。
幼心に、彼らの境遇に同情を覚えたのを記憶しております。子供ならではの残酷さと無慈悲な意見は頭の片隅に置いておくことにしておきましょう。