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夏陰に沈んだ夏

作者: 遥風 覇鵺渡

レースのカーテンが揺れる度に、眩しい陽射しに作られた、細かい影だけは涼しげに震える。



暖かく……蒸した初夏の風は、淀んだリビングの空気を掻き回しては通り抜けていく。




曖昧な梅雨が終わり、今日はこの夏初めての猛暑日だった。窓の外に広がる、猫の額程の庭では生い茂った草木が濃い影を落としている。



そんな蒸し暑い昼下がり、薄暗いリビングで、冷やし中華を……キンキンに冷やしたオレンジジュースと一緒に食べるのは、ちょっとした贅沢だ。


庭の向こうを汗だくで歩くセールスマンを尻目に、冷たい汗をかいた缶ジュースをグビリと飲む。



なんて平凡で、寂しくて、幸せなんだろう。


白く広がる夏の光景に再び目をやると、不意に線香の香りが鼻を掠めた。



あたしはゆっくり襖の開きっぱなしにしてある和室へと目を向ける。



そこには、控え目に小さな仏壇が置かれている。



真新しい、くすんだ緑の線香が三本……気だるそうに煙りを上げている。



あたしは暫く固まった。頭の中で真っ白な陽射しが弾ける……。



悪戯な風……木々のざわめき……清いせせらぎ……。




ふわりと風が身体を包む。



「あっついなー」



そう言えば、あの日もこんなだった。その夏初めての猛暑日で……後、もう少しで七月が終わろうとしていた。



…………………………………………………………



あれは……あたしが小学校二年で、弟のはるが一年生だった夏休み。



最初の子供を流産で失ったという母は不安定で、あたしと流をよく殴った。

あたしは一年も先に生まれていたから、そんなことには慣れていた。

だけど、流は違う。母が舌を火で炙る度に叫んだ……鳩尾みぞおちを突き上げられる度に泣いた。ストレス発散には流の方が向いていた。母は次第に流ばかりをいたぶるようになっていった……あたしは一生懸命、流の代わりになろうと泣いたのに……それが嘘泣きであることなど簡単に見抜かれてしまう。




誰かに止めて貰いたくとも、父はあまり帰らない。たまに帰って来る時も、無精髭一つ生やさない冷たく凍った顔をするだけで……、あたし達三人をその目に映すことを嫌っていた。




誰にも助けて貰えない、人としてさえ扱って貰えない家に軟禁状態にされてしまう『夏休み』は、あたし達にとって……毎年地獄でしかない。




けれどあの夏は違った。




外戚の曾祖父が亡くなったとかで、あたし達は母と共に……その実家に帰省出来ることになったのだ。










「結花、流……」



初めて会う祖父と祖母は目元からこぼれ落ちるんじゃないかというくらいに、顔を綻ばせてあたし達を迎えた。



「可愛く育ったでしょう?」


母もつられたのか……それとも体裁のためか、その夏だけは……まるで人並みの母親のように優しかった。



ちょっとした失敗は慈しむように許し、危ないことをすれば……泣き出しそうな顔で怒鳴る。流を抱きすくめたり、あたしの頭を撫でたりもした。



急変した母に始めは戸惑いもした……けれど『母親』、というものに飢えていたあたし達は何の疑問も抱かなかった。



幼かったせいもあった……。



帰省して一週間も経つ頃には、恐ろしかった母はすっかり『過去の人』になっていた。あたしはこんなに楽しい日々が……これからはずぅっと続いてゆくのだと……馬鹿馬鹿しいくらいに純粋な期待で、胸を膨らませていた。




「今までのは間違いだったんだね!ほんとは母さん、優しかったんだ!!」



そう言った……屈託の無い、真昼の太陽の様な流の笑顔を……あたしは今でも紙に描けそうな程はっきりと覚えている。









あれは七月の終わり。




今日みたいに蒸し暑い、殺人的な猛暑日だった。



祖父と祖母は、裏山の畑を見に行っていて、蒸した風が漂う畳部屋で、あたし達は為す術もなく寝転がっていた。




「ゆいかぁ……あつい」



「暑いね」



ダラダラ汗が水の様に……後から後から流れて、べったりシャツを濡らしていく。



祖母の家には冷房が無いし、付近には涼めるコンビニやスーパーも無かった。




あついあついとワカメみたいに額に貼り付いた前髪を弄んでいると……何故か急に背筋がぞわりとざわめいた。




「おいで、涼しい所に連れて行ってあげる」




すぅっと……妙に涼しい空気の流れが首筋を撫でていく。




母は頭が真っ白になって仕舞うくらいに照りつける庭で、柔和に微笑んで立っていた。




流は喜んで駆けていく。



母の表情は変わらない。



張り付けた様な笑顔は、白い帽子が目元に作る濃い影のせいか……無機質でとても不気味な印象を与えた。



母の足元には短い影が黒々と浮かんでいて、照りつける陽射しがの強さを教えてくれる。




「結花」


有無を言わせぬその声音に、あたしはびくりと身を震わせる。




早く祖父母が帰って来はしないかと暫く硬直してみたが無駄だった。



段々と不気味さを増していく母の顔に全身を粟立たせながらも、麦わら帽子をしっかり二つ持って……流に続いた。







母は、あたし達に丁寧に目隠しをすると車に乗せた。



車は間もなく走り出して、母は鼻歌を歌い始める。



「ねぇ、何で目隠しするのっ?」



呑気な流が、あっけらかんと母にきいた。



母は、新しい遊びよ……と笑う。



嫌な予感しか浮かばなかった。



Q.何故目隠しをする必要がある?




A.それは方向感覚を無くさせるため……。



額から……次々と汗が吹き出て、汗か涙かわからない。



自分の無力さを呪って下唇を噛み締める。




この暑さの中放り出されたらどうなるのだろう……、あたし達は。










どのくらい走ったのか……きゅっ、と音を立てて車が止まった。



母はふふ、と鼻で笑って、あたし達の目隠しをほどくと……案の定、車から降りるよう指示する。




ようやく流も不穏な空気に脅え出した。



「ママ?」



流の震える声が虚しく響く。



母はニッタリ口元を歪めて、座席の下から鈍くギラツク刃物を取り出した。



「降りないんなら、殺すよ」



奇妙に高い声が、何か不安定で嫌なものを感じさせる。



あたしは麦わら帽子を握りしめて、流と一緒に車を降りた。









車はためらいなく……真っ直ぐに、小さく見えるトンネルへと吸い込まれて行った。



事態が呑み込めず、ハンベソをかいている流に……黙って帽子を被せる。



それくらいしか出来なかった……。



何で疑わなかったのか……。この七年間、あの人が優しくしてくれたことなんて無かったじゃないかっ!さっさと祖父母に助けを求めていれば良かったんだ……それなのに……あたしは何で『母親』を夢見てしまったのだろう。自分が恨めしい……腹が立って……絶望で気分が悪い。



気が付くと目尻から熱いものが零れていた……。




「ゆぃかっ?」



流が泣くのを忘れて、あたしの顔を覗き込むと……頭を撫で始める。



「流……」




「これされると嬉しいねっ、昨日はママがやってくれたのにね」



流が再び泣き出したから、あたしは泣けなくなった。



そもそも、こんな暑さの中で泣こうというのが、愚の骨頂。水分が失われてしまう。



そう諭して泣き止んでもらい、流の手を引いて歩き出した。




一歩、二歩……十数歩歩いた所で頭がぐらりと弧を描く。




「ゆぃか!」



地面に手を着いたあたしを、汗だくの流が覗きこむ。




陽射しも、熱を孕んで蒸した空気も……思った以上に辛かった。



余りの熱気に、地面のあたりがユラユラとぶれている。










睫毛から零れる汗の粒が涙に混じる……。




どうして帰ろうとしているのだろう……。



熱気に押し潰されていく様に、ガンガン痛む頭で考える。


何処もかしこも山ばかりで……こんな暑い日に……置き去りにするなんて……あたし達を殺したいとしか思えないのに。



現に母は刃物を所持していた。もし車を降りなかったなら……きっと本当に殺されていた。




それなのになんで帰りたいんだろう……帰ったら殺されるかもしれないのに。




「おかしいな……」


あたしは何がしたいんだろう?仮面を被った母に……また甘えたいのだろうか。……それとも祖父母に、助けて貰いたいのか?




ううぅん……助けて貰いたいのなら、他の大人だって構わないじゃないか。



ここでのたれ死んでしまおうか?そうすれば、あの人もほんのちょっとは泣いてくれるかもしれない……。




そう考えて、乾いた笑い声が漏れる。




あの人が泣くはずがない。こんな事をしたあの人が。




すぅ……っと心が凪いでいく。周囲の真っ白な光りが頭の中を埋め尽くす……。音が聞こえなくなって……皮膚の感覚も失われる。




ああ、死ぬのかもしれない。




絶望を抜け出した所にある虚脱感は、意外にも安息に満ちていた。




音の聞こえ無い世界は白昼夢の様に現実味を失っている。




もうすぐ……死ねる……?






「ゆぃかっ!」




不意にツンザク様な流の声が、耳を貫いて頭が軽くなった。




「は……る?」



閉じかけていた瞼を精一杯押し上げると……青空を舞う元気で優雅な麦わら帽子が目に入る。




あたしの麦わら帽子……。



耳に音が戻っても、全身のだるさは抜けない。痛みにも暑さにも鈍くて、全身蒟蒻にでもなったみたいな……嫌な感覚だった。




風がイタズラしたんだね……、そう言おうと流を探して見るが……視界に入らない。



身体中に感覚がよみがえった。嫌な汗がぞわりぞわりと吹き出てくる。



「流……!!」




あたしが叫ぶのと……甲高い叫び声が木々の狭間に消えていくのとは、ほぼ同時だった。




「流、流っ!」





考える間も与えず、飛び出していた。



木々の狭間に飛び込むと乾いて脆くなっている土の上を、ガタガタ滑り落ちる。途中でギザギザした葉っぱや、小枝があちこち刺したり引っ掻いたりしたが、何の痛みも感じない。




「は、る?」






ようやく下まで辿り着くと、そこは驚くくらいに澄んだ空気に満ちた……河原だった。




流の姿を探して辺りを見渡すと、清いせせらぎの向こうでぐったりしている。



何で、向こう側にいるのか不思議に思いながらも、浅瀬に足を突っ込みながら流の元へと走って行く。




大きな木陰に横たわった流に近付き、頬をぴしゃりとやるとうーん……と唸った。あたしは一先ず安心して流の頭をくしゃくしゃににする。






その時だった。



木陰が優しくざわめいて、背後にヒンヤリした気配が生まれたのだ。




……それが人ではない何かだと……あたしにはちゃんとわかった。それでも全く、恐怖は覚えなかった……。




「その子は、貴方の子ですか?」



せせらぎの方を振り返ると、眩しい白地に蒼い朝顔を咲かせた浴衣に身を包んだ女が、微笑んでいる。




「あたしの弟です……」




静かに言うと……そう、と頷いて、その人は随分長い間、あたしを見つめていた……。






見知らぬ鳥の声が遠くで響き渡っている。



清浄なせせらぎが涼やかな水音をさせて……流れていく……。



ざわざわと木々を揺らす風が、女の人の緩く波打った長い髪を舞いあげていく。






「その子をね、……私にくれないかしら」



風の様な柔らかい声で女の人は、そう言った。




色素の薄い髪が太陽に透けていた。



その優し気な姿には、妖しさも……神々しさも見当たらない。



ただ澄んでいた……。



冷たく透明なせせらぎに似ていた。









暫くの沈黙の後、あたしは……空を仰いだ。



答えはとっくに、……出ていた。




「この子を、食べたりしませんか……?」



ぼんやり問うと、女の人は笑って頷く。




「この子を……大切に、育ててくれますか……?」




「もちろんです。その為にいただきたいのですもの」




「なら……」




頬を冷めた涙が伝った。




泣いているのだと気付いた。




あたしは、空を仰いだまま……心行くまで泣き続けた。




寂しかった……。ただ一人、自分を必要としてくれた……流を手放すのが……。



だけど、安堵してもいた。




もう流を心配する必要はない、あたしはもう……怖がらなくていい。あたしにとって、自身の死は安息に似ていた……。けれど、流の死は……。




恐怖でしかない。




流を、この人にあげよう。




このまま生き延びても、近いうちに……きっと母に殺されてしまう。




あたしは構わない。



もう慣れた。




でも流は……。



流だけは。



だって流は、毎日を必死に生きている。生命を喜ぶ、爽やかな夏の様な輝きを持っている。




あたしには、もうないそれを……その女の人なら守り育ててくれそうな気がした。






「あげます。幸せにしてあげて」



真っ直ぐに女の人の目を見つめる。




「もちろん」




女の人は、寂しそうな嬉しそうな……複雑な表情で笑って、ふんわり流の側へ寄った。




白いかいなにそっと流を抱く。



あたしは涙を忘れて……その幻想的な様に見入った。



次第に心が凪いでいく……。死んでゆく時の感覚そっくりだった。






…………………………………………………………




そう。あたしはあの日、流を女の人にあげた。女の人が何者かは分からない。



それでも後悔したことなど一度もない。




すっかり飲みきったジュースの缶をテーブルに置いた。相変わらず熱風が室内を漂う。






あの後、あたしは何故か一ヶ月後に……固くて白い、ベッドの上で目覚めた。



周りには誰も居なくて、看護婦さんを捕まえて聞くと、重度の打撲と熱中症とで……随分暫く昏睡状態であったことを知らされた。



病院にかかってしまったが為に、母は虐待を疑われた様だが……それどころではなかった。



退院して目にした母は、酷く憔悴していて、食事もろくに摂らずに流を探しまわるばかりだった。




『そんなに大切だったなら何であんなことしたの』




冷ややかにそう聴いても、答えは返って来なかった。返って来たのは、嗚咽と情けない叫び声だけである。







もしかしたら母には、あたし達を殺すつもりなんて無かったのかもしれない。母にしてみれば、あたし達はとりあえずは大事な『所有物』、で……どんなことをしても死なないし、何処へ捨てても帰って来るのだと……そう信じたかったのかもしれない。



一人目を失った悲しみが、歪んだ愛情を育んだのかもしれない……虐待は彼女の愛情表現だったのかもしれない。






だけど、と伸びをしながら思う。




子供は親の所有物、ではない。



愛情とは、理解されなければ、傲慢なものでしかない。



あれから、母は一層おかしくなった。深夜に突然吼えたりもする様になってしまった。それでもあたしは後悔していない。どんなに痛めつけられようとも、口汚く罵しられようとも、父が無関心で居ようとも……ただ心ばかりは安らかだ。まぁ、無関心そうな父ではあるが、線香を立ててくれたのは彼に違いない。流は死んだ訳ではないのだから、不必要なものではあるが……やっぱり人の親なのだな、と思えて嬉しくなってしまう。



椅子を立って、青い青い空を見上げると飛行機雲が横切っていった。




静かなところを見ると、母はまだ眠っているのだろう。線香を立てたところを見ると父もまた何処かへ行ってしまったに違いない。




あたしは何を待っているのだろう。



あげてしまった流を?


家族が纏まるその日を?



………それとも……何かを……。







「なんて平和なんだろう」




ふぅ、と息をついても、もう線香の匂いはしない。



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― 新着の感想 ―
[一言] 比較的わかりづらかった所…というか、矛盾ぽかった所はありますが、何をされても親は親…という流の考えは良く心理が分かったな…と思いました。なかなか誤解される感覚なんですよねw
[一言] 「レースのカーテンが揺れる度に、眩しい陽射しに作られた涼しげな細かい影は震える」 「暖かく……蒸した初夏の風は、淀んだリビングの空気を掻き回しては通り抜けていく」   「涼しげ」や「温かい」…
[一言] ホラーとかはあまり読まないんですが、これはスゴいですね。 結花に感情移入してしまい、涙腺が緩みっぱなしでした。 悲しい出来事の画写がリアルで、読み終わった後、良い意味で悲しくなりました。 残…
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