私の好きな人
小遣いを貯めて買った参考書を胸に抱えて、ホームルームの鐘と同時に教室を飛び出す背の小さな女子生徒、名は垣本希恵。
あだ名はきぃちゃんと呼ばれている。けして人懐っこい性格ではないが希恵という名前からそう呼ばれることが多かった。
胸に抱いた参考書は汚れていて、何度も問題集を開いている事が伺える、彼女は何よりもストイックに一番になることを考え努力している。
「こんにちは……」
上級生の図書委員に小さく挨拶をすれば、窓際にある自習スペースに歩み寄せた。家で勉強をしない理由は、5人姉弟の一番上であり、年の離れた弟たちはまだヒーローごっこに夢中な年頃のため、家では必ずと言っていいほどに巻き込まれてしまうからだ、もしくわ、2DKの小さな平屋建ての家では勉強場所がちゃぶ台の上だけだったりする。
学校では微妙に貧乏であることは伏せて生活をおくっている。
――なんで一番になりたいかといえば、奨学金の為にと決まっていた。
「さてと……」
静かな図書室に参考書を捲る音が響く。
その頃、廊下では壁に張り出されたテストの順位表をみる女生徒がいた。
(テストの度に貼りだされる時代錯誤と思える順位表、運良く一番を保ててきたわたしの名前の次に、『垣本希恵』、と……ずっと、同じ名前があると気付いたのは、入学して間もなく一年たとうという2月後半のことだった。2年に上がったとき、クラス分けで彼女の名前を見つけた時、不思議と胸が高揚たのを覚えている。けれども、幾度と無く声を掛けようとしたはずだがいつもタイミングが噛み合わず、言葉をかわせないままでいた――)
空は薄雲が支配し高湿の空気に長く延した髪が少しだけ重く感じる。
順位表を見終わった彼女が、借用した本を抱えて図書室の扉を開け、返却窓口にて図書委員の上級生と三言程度言葉をかわし、そのまま踵を返し図書室を出ようとしたが動きを止めた。
「垣本さん……?」
奥に位置する学習スペースで、本棚の隙間から覗くすらりとした足だけで、彼女にはそこに誰がいるのかわかった。
いつも一番に教室を出て行く後ろ姿を思い出し、誘われるようにそこへ歩みを進めた。
近づくにつれ、俯く彼女の視線と忙しなく動く手元が何をしているのか察し、少し迷ってから声をかける。
「……自習?」
その声は、集中を乱さぬよう、羽根が優しく触れる様に耳元に届いた。妙にくすぐったさを感じ、肩を竦めて振り返る。
伏し目がちな瞳と、長い睫毛、穏やかな雰囲気の眼差しに何故か懐かしさを覚える彼女がいた。
「うん、自習だけど?」
彼女の仕草は、まるで蝶の飛ぶ軌跡のように柔らかく、目に優しかったが、いつの間に背後まで来ていた彼女に、必死になって勉強している所を見られたのが恥ずかく、少し頬を染めて頷く。
それでも、何度も演習した問題集は閉じてノートの下に咄嗟に隠した。
……クラスの中でも、無意識に避けていた彼女の存在。――でも、内心はいつも順位表で自分の前に名前がある彼女の存在は憧れであり、自分とは正反対の彼女の優しげな瞳を向けられると嬉しかった。
「……なに? 何か、用?」
「用は、無いのだけれど……」
声をかけ、振り返った 希恵のまなじりは猫科の生き物みたいであると初めて知った、いつか見た御伽噺で元気に動き回る小さな妖精に似ているように想え、自然と唇が緩んでいた。
希恵が、とても努力家であるということは、一年の時から噂で聞いていたが、実際に其れを目の当たりにすると、好ましさは一際になる。
言葉を返してくれたことに緊張の息が抜けたのは、それまでに個人的に声をかけたことは無く、委員会としての所要によって全体に向けて言葉を発信してみても、彼女が一度も返答してくれていないことを知っていたから。
安堵したような穏やかな眼差しを向ける彼女なのに、希恵は拒絶的な態度で接してしまう。
負けず嫌い、ただそれだけのつまらない感情が、心にシコリとして残っている。
本当はどんな人なのだろうと知りたいはずなのに。
「……テストはまだ先なのに、熱心で……関心してしまったの、それで……」
そう言って少し困った顔をして、視線を泳がせる。
薄雲越しの夕焼けが室内を橙に染めていく。
「……私は、努力しないとだめだから……」
向かいに腰掛けていいものか迷っている様子の彼女が、一歩歩みを進めて木製の椅子の背凭れに指先を這わせる。ふと、ノートの中に記された文字列の中に小さな間違いを見付け、指先を其処にすっと伸ばすと、屈む肩の傾きに黒髪が肩口を滑り零れる。
希恵の目の前が少し暗くなった。
それが、彼女の艶やかな髪の毛が遮ったからだと気がつくのに少し時間がかかった。
細い指先に綺麗な爪が輝き、自分の書いた文字の上にそっとなぞられ間違いを正している。
「……あ、そっか、教えてくれてありがとう」
甘い良い香りがした、安っぽいシャンプーの香りではない、上品な甘い香りに目眩がしそうだった。
心の小さな棘が、少し丸みを帯びたような気がして、口元が緩む、彼女はそういう人なのだろう。
授業中も、休み時間も、穏やかな彼女の声は耳に届いていた、耳を撫でるような声……、その声に名前を呼ばれてみたいと思ったのは、気まぐれだった。
「名前……、希恵でいいよ……綺麗」
揺れる黒髪の先に指を絡めて、猫目をきょろりと動かせば彼女の顔を見上げた。
******************
三枝苑花は、努力をする人が好きだった。
彼女は優秀で、大概のことを労せずこなしてしまう。
(努力をすることは美徳であり、それを積み重ねる姿はとても美しく眩しいもの)
その信念の元、希恵の文字の特徴を指先でなぞれば、真摯で愛らしい彼女本来の性質に触れている気がしていた。
書道の先生に“字は人をあらわす”と教えられたが。
旧家である三枝の家に生まれた子供は優秀であることが当然であり、苑花自身もそれに対して苦しさを覚えたことはなかった。
だが、そんな人間が記す文字といえば、ただ常識的で在るべき所に有るものが収まっているだけ、体裁が整っているばかりの機械的な印象でしかない。
彼女がくれた“ありがとう”の言葉に瞳を眇めてほのかに唇を緩め、水面に触れるように伸ばしていた指先を退かせ。ふと掛けられた言葉が思いがけなくて少しだけ目を見張る。
「……希恵?」
彼女の言葉を唇に乗せると、彼女の文字に触れたばかりの指先に熱が灯る。
見上げてくる実直な猫の様な瞳に視線を重ねると、胸にも同じ熱が広がり、当惑して目を伏せた。
彼女ともう少しだけ言葉を交わしていたくて、引いた椅子に腰を下ろし、先ほど思いがけなかった“綺麗”の言葉の意味を探る。
「……これ?」
マニキュアをつけている訳じゃない。丁寧に磨いた艶のある薄桃の爪を彼女の前に差し出した。
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――小さな町工場勤務の父、子育てに追われ日々の献立しか頭にない母。
そんな両親に育てられた自分は、彼女の前では薄汚れているような気がした。
桃色の艶やかな爪を差し出されれば、そっとその手を取る。少しだけ汗ばんだ手先はその白い柔らかい指先を撫でる。
「……ううん、全部」
茶色がかった瞳に夕日が入り込み、眩しそうに眺めながら、目を細め、呟いた。
これは本音だった、悔しいけど認めないといけない気がしていた。
窓から入る夕日は二人を照らして、上級生の図書委員がブラインドを少し下げてくれて、一言『仲良しね』といい、笑って去っていった。
「……希恵、のほうが、綺麗。 丁度今の季節の……、柔らかくて健康的な……若葉みたい……」
下の名前で呼ぶことは、実際の関係よりも親しげで異質なことのように思え、今までやんわりと拒んできたのだけれど、彼女のお願いにはどうしてか、どうしても応えたくなって、少し胸に呼吸が詰まる感を覚えながらも、改めて口にしてみれば、其れは静かに胸の内側へと滲み込んだ。初めからこうして彼女を呼ぶことが自然であるみたいに……。
仲良しね――という言葉に振り返り、それから指先を預けたままでいる彼女へ視線を向け直してこそばゆい気持ちで微笑んだ。今のこの時間を確かに嬉しいと感じて、ずっと言葉を交わしてみたいと思っていたから。けれど、希恵は。
「私の名前……、知ってるでしょ? いつも三枝さんに勝てない子」
彼女とは、ほんの一時前まで、好敵手としか感じてなかったはずだった、ともすれば彼女は何でも持っている癖に、と疎ましく思っていたはずだった。
でも、今は……、手に乗せた白い指も、優しげな声も、もっと近くに感じたい。それなのに瞳を伏せて吐き捨てる様に言った……。
指先を預けたまま、擽ったそうに微笑んでいた彼女の表情が、“勝てない”という言葉によって笑みが退いていった。
お互いに、この時間を嬉しいと感じ、いつまでも言葉を交わしていたいと思っていた筈だったのに。
『苑花ちゃんはがんばっている子の気持ちがわからないんでしょ!!』
苑花の幼い頃の記憶がフラッシュバックする。
――勝ちを譲った下手な演技を詰られた、忌まわしい記憶。
「わたしは……」
脈が乱れ、喉の乾きを感じる。
目を逸らせば、ブラインドの隙間が織り成す光闇に圧迫されながらも、途中つかえながら言う。
「勝ち負けより……大事なの、は……もっと、違うことだと、思ってるの」
いつものあだ名でなく呼ばれた自分の名前が耳に心地よい、希恵とは――希望に恵まれるようにと両親がつけた名前。希望だけじゃ何の足しにもならないじゃないか……と卑屈になった時期もあった。
――どうしても勝てない相手……今、手を取って困ったように途切れ途切れ話す彼女の瞳を覗き込むように視線を上げる。
「違うよ……勝てないのは私のせい、三枝さんのせいじゃないから……、だから――」
“そんな顔しないで……” と、言おうとして言葉を飲み込んだ。
(自分は何を、伝えたいのだろう)
窓から差し込む春の日差しは、橙色に図書館を染め上げれば、生徒の姿がほとんど見えなくなり、古びた本の匂いが、どこか寂しげな印象を残し、室内は水面に沈んだように静かになった。
「私、次負けない……負けないから」
使い古した参考書を差し出すと、猫目を細めて精一杯笑ってみせた。
(これが、私のプライド……、そして、彼女への敬意。綺麗な、綺麗な彼女の笑顔を早く見たかった)
苑花にとっては、誰かと敵対する事など当然のように慣れておらず、もちろん目の前の彼女とも争う関係になどなりたくないと思っている。
それでも、クラスの順位表で彼女の名前を見てはずっと考えていたことがあった。
『彼女はどんなふうに躓いて、どこでその点数を取りこぼしているのだろう』と。
勝利を希求する彼女の願いを叶え、一番にしてあげる方法はとても簡単だ。
『彼女が躓く以上にわたしがほんの少し躓けばいい』
だが、そんな考えは、見上げてくる彼女の真摯な眼差しに消されることになる。
苑花は、すくい上げるように触れる希恵の手を握り返し遠慮がちに問う。
「……わたしの名前、苑花……、そのかっていうの。わたしも名前で呼ぶから……希恵も名前で呼んでくれる?」
クラスの女子からは大抵『苑花さん』と呼ばれているから、何度かは耳に届いたことがあると思う。遠慮がちに問うてから、絡めた蔓を解くようにして握り返していた彼女の指先を離した。離してはいけないものみたいに、名残惜しく離した。
(最大限の努力をしよう、彼女が悲しげに瞳を伏せないように。
そう思っての宣言、自分が勝てないのは自分のせいだと分かっている。
そして、私の努力を知って彼女が手を抜いたりしないであろうと信じていた)
「苑花……、苑花ね。わかった……。ねぇ、私達って友達……かな?」
名残惜しげに離された指先を見送って、縋るように聞いた。
ライバルであり、憧れであり、友達……。何故だろう小さな違和感を覚えて唇を噛んだ。
短めの髪がさらりと頬を撫でてそれを隠すと大きく息を吸い込んだ。
「……違う、友達じゃない……。苑花は私の――!!」
常に努力していきたのは、廊下に大きく提示される順位表で、彼女の名前の隣に並びたかっただけなのかもしれない。
続く言葉は飲み込んだ。
はっきりと気がついてしまった気持ちをいう訳にはいかない。彼女から軽視の視線が向けられるならば、一生気が付かれずに居たい気持ち。――苑花が好き。
返答に困って、深く沈んでゆく陽に薄まり始めた絨毯の上のブラインド越しの縞模様に視線を落とした。
伸びやかで健康的な希恵の脚から続く爪先にもその縞模様が微かに届いている。
友達かと聞かれ迷っているうちに告げられた『友人ではない』という結論。
彼女がいうとおりではあるとは思うけど、彼女にとって近しい場所から除外されたようで、冷たい針が胸を刺す。
眉尻を下げ、考える素振りで首を傾げた。彼女が飲み込んだ言葉を『ライバル』に類するものであろうと、そういう風に読み取り、落胆の気持ちにはそっと蓋をした。
「……同じクラスにいるのに……話したのは初めてだもの、ね……。でも……、わたしは……折角だもの、お友達になれたら……嬉しいわ。 それに、希恵は、わたしと読む本の傾向が似てるから……きっと、仲良くなれると思うの」
彼女の体温に触れた指先にまだ熱が残っている。長袖を選んだ夏服のシャツの袖口、其処から露出した手首から続く手の甲の皮膚をなんとなく撫でながら、揃えていた膝の位置をずらして立ち上がった。
きちんと椅子を元に戻す。もうそろそろ学校を出なくては、平日の放課後を殆ど埋めている習い事の時間に間に合いそうにない。けれど、鞄にはまだ手を伸ばせないでいた。
「……また、ここに来ても良い……?」
自分にとってはほんの短い時間。けれど彼女の大切な時間の有意義さを阻んだのではないかと、問う声は遠慮がち、僅かに乞う響きを含んだ。
希恵は眉尻を下げた彼女の表情の意図するところが分からずに、自分の言葉の重さに息を飲む。
その華奢なシャツのラインに透ける肩に視線を奪われながら質問に頷いていた。
「仲良くしてね。うん……待ってる」
ここに来ても良いでは無い“まっている”つま先を遊ばせながら彼女に答えた。
そして……、彼女の鞄を手をかけると、ぎゅっと胸に抱いた。丸い猫のような目は真っ直ぐに苑花を見つめて、ゆっくりと鞄を差し出す。また指先が触れてくれるのを期待するように指先は熱を持ちまた僅かに汗ばんだ。
「また……明日……。帰り、気をつけてね」
劣等感を抱きながらの恋はまだ始まったばかり。唇を綻ばせてにっこりと笑って見せた。
遠くで聞こえた鐘の音……心に響いて涙を堪えた。
――若葉の甘い枝先。
其れに悪戯に触れることは、とてもいけないことであるかのように苑花は感じた、鞄に掛かる彼女の指先をそう意識した自分自身の感情に戸惑っている。
感謝の言葉とともに、差し出されたそれを、下からすくい上げるように両手で受取り、両親の迎えを待つ迷子みたいに、あどけない彼女の言葉が胸に詰まるけれど――瑞々しい果実みたいな笑顔が、ブラインドの隙間から届く風に甘く混じって、離れ難い気持ちを少し優しく穏やかなものに変えてくれた。彼女が抱える気持ちには今は気付けずに。
「……希恵も、気をつけてね。また明日……」
彼女にもう一度触れるのは、暫く先のことになる。指先は彼女がノートを広げる机の角をなぞって、其れから離れた。
校舎の廊下に落ちる橙の残り陽はとても暖かく、幸せな色をしていた。