chapter-3
柔らかな風が、頬を撫でていった。
町の心地よい生活音と、小鳥の囀りで清々しく目が覚めた、次の日の朝。
目を開けると、着替えもしてないシグさんが、床の上に正座していた。
一瞬、状況が把握できない。なに。何事だ。何が起こった。
シグさんは俺の目が覚めたことに気付くと、深々と土下座した。
額を床にすりつける勢いで。
「……すいませんでした」
「おは──────え?」
謝られた。何故。
俺は目を擦りながら、ベッドの上からシグさんを見下ろした。なんだろう。何を謝ってるんだろう。そんな重々しく。なんかあったっけ。
あ。
そうか。
昨日の夜、シグさんはうなされてて────起こそうとした俺は、寝ぼけたシグさんに咽を押さえられ、危うく殺されそうになったんだった。確か。あれはヤバかった。マジで死が脳裏をよぎった。どんなに引っ張っても、全然、振り払えなかった。前衛職の筋力って、どうなってんの。リアルにするとマジ恐ろしいな。怖え。
俺は押さえられた首を触ってみた。別段、いまのところ、痛くはない。俺の必死の──命がけの──呼びかけにシグさんは目が覚めて、腕をどかしてくれたから。
うん。手で咽を押さえてみても痛くはない。これなら大丈夫そうだ。
「いいよ、別に……もう痛くないし。大丈夫。シグさんも、なんか、ものすごくうなされてたみたいだし……そんなに、気にしなくても……」
「いえ、気にして下さい。頼みますから」
「うーん……別に……」
俺は大欠伸をした。
シグさんが俯いて眉間に皺を寄せ、難しい顔をして、大きな溜め息をついた。
「本当に、頼みます……。ちょっと、肩、落ちてますよ。ちゃんと、上まで、ボタンもはめてください。お願いですから」
シグさんが、俺のシャツの前立てのボタンを首元までとめてくれた。なんだろう。オカンみたいな事してる。しかし、眠い。頭もまだ、呆っとする。
結局、寝つけたのは朝方近く。ちょっとしか寝れてない。だめだ。ものすごく、眠い……
「眠いー……だめだ……ごめん……もう少し、寝てても、いいかな……」
「……どうぞ。ゆっくりお休み下さい。後で、朝食もご用意いたしますので」
「ありがと」
なんだかとても畏まっている。へんなの。
俺はもう一つ欠伸をして、掛け布団を鼻の近くまで引き上げた。
* * *
俺は結局──昼前まで、ぐっすり寝てしまっていた。
寝過ぎた。寝過ぎだろ。やべえ。起こしてくれてもよかったのに。
宿の1階のレストランで、モーニング兼ランチを取った。
二人掛けのテーブルを挟んだ目の前には、食べ終ったシグさんが、先にコーヒーを飲んでいる。
ていうか、食べるの早いな! 俺、まだ半分ぐらいしか食べられてないんですけど。ちゃんと噛んでるのか。食事はよく噛んでゆっくり食べないと、身体に悪いんだぞ。
ここの料理は、本当美味しい。大当たりの宿だ。急いで腹にかき込むには、もったいなさすぎる。
表面をこんがり焼いた大きな厚切りベーコンと、ざく切りトマトと一緒に炒めた甘めのスクランブルエッグ。
外はカリカリ、中はもっちりのフランスパンみたいなパン。表面にガーリックバターが塗られていて、程よい塩気がある。
カリッと素揚げされたポテトとニンジン。添えられた岩塩。
ぱりぱりの瑞々しいサラダ。
果物のソースと蜂蜜がかかった、甘いヨーグルト。採れたての大粒ブルーベリー添え。
飲みやすい、薄めのコーヒー。でも香ばしい安らぎの香りはしっかりついてる。あのCMの曲が頭に流れる。
ああ、なんだこれ。めっちゃ、美味い。幸せすぎる。
これだけで、全てを帳消しに────してやる事はできないが、来て良かった事の1つとして、まあ、数えてやらんでもない。
一時の安らぎはとても大事だ。ずっと焦って走り続けていたら疲れてしまうからな。そうなったら、動けなくなって、できるものもできなくなる。
シグさんが、俺を見て笑った。
「しかし、美味しそうに食べますねえ。そんなに美味しいですか?」
「うん。美味しい!」
「そうですか。よかったですね」
この厚切りベーコン、お代わりしたいぐらいだ。できるかな。スクランブルエッグも焼き加減が絶妙で、ふわふわだ。牛乳でも入れてるんだと思うが。どのくらい入れてるのか。作り方教えて欲しい。
「──それで、サクヤさん。今回は2人部屋しか空いてませんでしたから、うっかり面倒で決めてしまいましたが、次からはちゃんと1人部屋の宿を探しましょう」
「んぐ? わかったー。俺は別にまあ気にしないけど、シグさん気になるなら、それでいいよ」
他人が同じ部屋にいると、気になって寝れない人っているもんな。シグさんは気になる人のようだ。
ちなみは俺は雑魚寝平気な人だ。俺の家では、広い部屋に布団を全面ひいて、いまだに3人の兄貴達とごった寝だしな。周囲を蹴りまくり、いかに布団上の睡眠エリアを確保するか、が安眠するための非常に重要ポイントである。確保に失敗した場合、冷たい畳の上に蹴り出される。とてもシビアな戦いだ。
シグさんが、頬杖を突いた。
「……気にして下さい。サクヤさん、今、女の子でしょう」
「そうだけど。中身、俺だし」
「そうですけど。外見は女の子です」
「シグさんだし」
「その絶対的な自信はどこからくるんですか……」
シグさんが疲れたように溜め息をついた。
俺は口に運びかけたポテトを止めて、シグさんを見上げた。
この身体、タツミのキャラのダイナマイツボディと比べたら、めっちゃ貧相だと思うんだけど。胸、そんなに無いぞ。なんだなんだ。まさか、シグさんって、そういうロリとかいう趣味の人だったのか……!?
「シグさんって、ロリとかそういう趣味の人……!?」
無意識に、思ったことが口から零れ出てしまった。動揺しすぎて。やべえ。
シグさんが、コーヒーを少し吹いた。あ、珍しい。シグさんでも動揺することあるんだ。
「ごほっごほ、──ち が い ま す。そういうんじゃなくて、気をつけて下さいって言ってるんですよ。昨日、簡単にベッドに引きずり込まれたの、忘れたんですか」
俺も吹いた。そして咳き込んだ。ポテトを口に入れてなくてよかった。
「ごほごほっ、いやでもあれはうなされてて──」
「うなされててもなんでも、また引き込む可能性はない、とも言い切れません。俺の心臓にも悪──いえ。ですから、1人部屋にしましょう。いいですね」
シグさんが指を俺につきつけた。生活指導の先生みたいに。
有無を言わせぬ勢いに、俺は何度も頷いた。
「りょ、了解です」