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Wish happiness be always with you.

シグ視点です。

そういえば、本編でほとんど触れていませんでしたので、ここで加筆。


若干所々ビターです。お気をつけ下さい。(最期は甘いです)

 俺がそのゲームを始めたのは、本当に、単なる気まぐれのようなものだった。



 未だどんなハッカーも破る事が出来ていない、独自の謎のセキュリティとファイヤーウォール。

 ありえないほどのハイクオリティで、それに付随する、集計するのも恐ろしい膨大なデータ量をどう管理しているのかも不明。

 その巨大データを収めてるサーバ施設の所在も、スペックも規模も不明。


 気味が悪いほど、バックグラウンドが全て隠された、大型オンラインゲーム【グラナシエールの創世】。


 β版を含めたら30年以上続いている、先日、アカウントも全世界900万人以上超えたとニュースで言っていた。


 


 どんなものか、と俺も興味本位で解析してみようとしたら、見事にパソコン1台クラッシュされた。


 反撃された。

 どうなっているんだ。


 たかが、ゲームのシステムを見てやろうとしただけなのに。ちょっと激しすぎやしないか。

 向こう側には、苛烈な、凄腕のプログラマーがいるようだ。

 

 頼みもしないのに時々俺に世間話をしていく企画本部長、巽晃一郎に、その話をなんとなくしたら、驚かれて、笑われた。


「副社長は、時々、すごい事を平気でされますよね」

 ひとしきり笑われて、面白くない。


 巽は、俺の顔色ばかり窺う社員の中で、俺に平気で反論するし、こうして笑ったりする。珍しい男だ。

 そんな男だから、会社内では、あまり評判は良くない。

 上から煙たがられて、地方に飛ばされそうになっているのを俺がどうにか留めている。

 唯一、俺が普通に話せる相手だからだ。

 

 虚言にまみれた、この会社の中で。


 一般市民から、世界中の有力者、政治家、銀行がうちのネットワークシステムを利用し、その高い信頼性を賞賛している。

 その影では、口外すれば、明日は偶然に見せかけて轢き殺されてるようなことを平気でやってる。


 あのやたらに明るい会社紹介CMを見るたび、いつも笑いをこらえるのに必死だ。

 何が、誠実でクリーンなサービスを御提供させて頂くのが我が社の普遍のポリシーです、だ。

 ブラック過ぎて笑うしかない。


 まあ、そんなアンダーな事実を知っているのは、極僅かの社員だけだ。

 我が社のシステムはすごい、と目を輝かせる巽も、当然その事は知らない。


「あのゲーム、うちの息子もやってるんですよ。タツミって名前で。本名使うなんて、アホな奴でしょう。まあ、見かけたら宜しくしてやってください」

「それはアホ……いや、危険ですね。まあ、俺はやるつもりはありませんが」

「はは。ものすごく広大な世界が広がってるらしいですよ。ちょっとした海外旅行気分になれるとか。どこへ行くにも自由で。たまには、息抜きしてみては?」

 巽が、面白がるように言った。





 どこへ行くにも、自由。


 自由、という言葉にひかれて、俺はなんとなく、そのゲームを起動した。

 その言葉は俺には無縁すぎて、忘れて久しいものだったからだ。

 

 俺の全ては、もう死ぬ時まで決められている。


 決められた母親から生まれ、

 決められた学校に行き、

 決められた友人、……でもないな。あれは監視役だ。

 決められた会社に入り、

 決められた役職について、

 決められた婚約者がいて、

 決められた墓に入る。


 俺は、俺の父親の、ロジスティクスシステム・インターナショナル・SNCという城を維持するための、駒の1つだ。

 今のところ一番使いやすい、優良な駒。





 使用するキャラの外見は、考えるのが面倒だったので、自分に似せて適当に作ってみた。

 職も、ソロでも独りでうろうろできそうな、大剣使いを選択。

 名前を考えるのも面倒だったので、ネーム自動生成機能を使って作った。【シグ・ルシード】。

 

 俺はグラナシエールに降り立って。

 そして──



 ──途方に暮れた。



 自由すぎて。

 

 

 行き交う多くのプレイヤー達と、広大なフィールドを前に、しばらく放心して立ち尽くしていた。




 我に返って、とりあえず、タツミ、という名前のプレイヤーを検索して、接触してみた。

 父親に似て、アホで騒がしいが、馬鹿がつくほど人の良い奴だった。


 



 俺は空いた時間に、グラナシエールにログインした。


 かりそめの自由だが、自由は自由だ。

 俺はその解放感に、嵌まってしまった。


 自分の意志で、なんでもできて、どこへでも行ける。

 誰も俺を知らないから、媚をうってくる奴も、騙そうとしてくる奴もいない。


 その解放感といったら。




 * * *




 しばらくして、タツミが友人を引っ張ってきた。

 時々、というか割と頻繁に話にでてくる、タツミに度々掛けられる迷惑にも、文句を良いながらも一緒に付きあってやってるという、人の良すぎる、農園の末っ子。


 タツミは阿呆──いや、警戒心のない奴で、俺が本当の事をぼやかして、ネット関係の仕事をしていると言ったら、大学のサイクリング部のホームページ作成を依頼してきた。

 了承してもいないのに、写真や映像を俺のアドレスに送りつけてきた。


 これは流石にまずいだろう。個人情報が含まれすぎている。

 それとなく忠告してやると、シグは信用できるから! と根拠もなく言われた。

 阿呆だ。

 もし俺が悪い事考えてたら、どうする気なんだお前。

 


 しかも俺が作るのはもはや決定事項のようで、しょうがなく、本当にしょうがなく、適当に作ってやることにした。俺にホームページ作成なんか依頼してきたのは、お前が初めてだぞ。


 その写真や映像の中に、タツミの友人──田山農園の末っ子──がいた。

 

 栗色の柔らかそうな髪に、栗色の瞳。

 農園をしているにしては、やけに白い肌をしていた。

 タツミの話では、肌が紫外線に弱いから、いつも強い陽に当たらないようにしているから、白いらしい。

 色素が薄いから、ことさら受ける印象が、柔らかく感じる。


 写真や映像の中で、友人達にむけて、おっとりした、優しい笑みを浮べている。

 タツミと一緒に映っているのは、大抵怒った顔をしていたが。



【サクヤ・サク】という少女の姿で、その友人はログインしてきた。

 非常に分かりやすい男の欲望をいっぱい詰め込んだタツミのキャラと違って、大人しい見た目の、栗色の髪に若草色の瞳をした少女の姿で。



 類は友を呼ぶのか。

 サクヤさんは、タツミに輪をかけて人の良い、お人好しな、こちらが思わず心配するほど優しい人だった。


 見た目の通り、性格も穏やかで、ゆったりしている。


 あまり戦闘は好きではないらしく、畑で作物を作ったり、綺麗な庭を作ったり、素材からものを作るクラフター系に嵌まってしまったようだ。


 つきあいは悪くなく、呼べばいつでも付いてきてくれる。

 俺もそんなに進んで話をする性格ではないので、穏やかに、たわいない話を楽しそうに話すサクヤさんの側にいるのは、とても居心地が良く、気が楽だった。

 俺を知らないから、嘘を警戒する必要もなく、取り繕う必要もない。

 時々話す、俺の愚痴のような話も、真面目に聴いて、限られた時間の中、やりたい事も放って、一生懸命考えてくれる。




 ふいに何故だか、ある日、急に試してみたくなって、勤め先の会社名を伝えてみた。


 へーそうなんだ、の一言で終った。


 そこから普通に、今年の農園で採れたトマトの糖度は高くて美味いという話になって、俺はもう脱力して、笑った。あまりにも、予想していた通りの反応過ぎて。


 大抵、社名をきいた奴は、目の色を変えるのに。

 いつも通りに、それ以上は何も聴かないし、のんびり、とりとめもない話をしながら、楽しそうに畑や庭を弄っている。


 話したくなれば、話せばいいと、いつも言ってくれる。

 無理やり聴き出そうともしてこない。


  喋りたくなったら喋って。

 そしてちゃんと、丁寧に反応が返ってくるし、答えてくれる。


 ふいに訪れる沈黙すらも、心地いい。


 側にいると、気が休まった。




 タツミはサクヤさんの作ったトマトソースのスパゲティを、3杯も食べたらしい。

 羨ましい、と思った。

 羨ましいですね、と素直に言ったら、俺にもご馳走してくれる約束をしてくれた。

 警戒心の欠けらもなく、チャットで本名と農園の住所を送ってくれて。


 俺はデジャヴを感じながら、本名はチャットに流さないように、と厳重注意した。

  


 ああ。

 行ってみたい。

 行けたら、どんなに、楽しい事だろうか。




 * * *

 



 ──巽が、本社から遠く離れた、国外の支社に飛ばされた。

 


 部下がやらかした失敗の、責任を取らされて。

 わざと失敗した部下の。

 損害額が情状酌量で済ますにはやや大きすぎて、すぐに取り戻せるくらいの額ではあるが、社内ではわざとらしく大問題とされた。

 副社長の力を使っても、対応策を進言しても、なぜか全て却下され、どうにもならなかった。


 副社長なんて、名前だけのものだ。

 最終決断の権限は、父親が全て持っている。

 

 副社長なんて、檻に閉じこめておくための、ていの良い、ただの役職名だ。


 巽は、俺の側にいるのは不適合、と判断されたようだ。

 要らぬ知恵をつけさせない為に。

 従順な、現状に疑問を抱かない、使いやすい駒にしておく為に。 




  * * *




 どこぞの海外の大きな財団の御令嬢が、俺に気があるらしい。

 噂では、なかなかに恋人多き女性のようだが。

 今の婚約者よりもメリットがある、ということで、俺の婚約者はその御令嬢にチェンジされた。

 向こうも、こっちと同じようなもののようだ。

 お互いの、今後の発展と利益の為に、手を取り合いましょう、という事。


 どうでもいい。好きにすればいい。

 俺が決める事ではないのだから。






 新しい婚約者と顔合わせも兼ねた会食へ行く為、車に乗り込む直前。


 撃たれた。


 弾は俺の左腕を貫通した。

 運良く、骨には当たらなかった。

 俺を庇った護衛が頭を撃たれて、1人死んだ。

 音が聞こえなくて、気付けなかった。

 サイレンサー付きの銃だったようだ。


 犯人はすぐに捕まった。

 雇われた奴だった。

 雇った奴はまだわからない。

 疑わしい奴が余りに多すぎて、すぐには絞りきれない。


 秘書が社長に連絡して、返ってきたのは。

 応急処置して、御令嬢の待つレストランにすぐに向かえ、という事だった。

 絶対に遅れるな、撃たれたそぶりも絶対に見せるな、御令嬢をしっかり落としてくるんだぞ、と言われた。

 失敗したら、覚悟しておけよ、と言われた。


 俺の代わりの駒は、他にもいるんだからな、ということが言いたいようだ。


 代わりの駒と交替する時が来たら、内部情報を知りすぎている俺は消されるだろう。

 妥当なところで、不慮の交通事故か。

 それとも、心臓発作で急死か。


 食事をして、相手の急所を探り合うような疲れる会話を2時間程して帰るつもりだったのだが、社長直々に、落としてこい、という追加指令が下ってしまった。

 約束の時間には、帰れないだろう。




 俺は言われた通りに、待ち合わせの10分前にレストランに行き、甘い言葉で誘って、御令嬢を落としてきた。


 金と地位を持っていて、見た目が良くて、みんなに自慢できればどんな男でもいい、という分りやすくて単純で、簡単な女だった。

 それなら、俺は十分すぎる相手だろう。

 俺といれば、ゆくゆくは、世界のトップ企業の社長夫人だ。


 包帯に少し血が滲んでいる俺の腕を見て、私の服高いんだから汚さないでちょうだいよ、と触れるのも嫌そうな顔で言われた。


 仰せのままに、従いましょう。


 


 流石に、俺も死にたくはない。


 死んでしまったら、もう会えなくなる。

 

 あの、優しい、穏やかな人に。

 






 夜半を遙かに過ぎて、ログインしてみた。

 

 夜中の3時だ。

 さすがに、タツミもサクヤさんもいなかった。



 どこまでも、恐ろしいほどに果てがなく、どこまでも続いている、広大なフィールド。


 自由だ。

 自由なのに。



 どこへも、行く気が起きなかった。



 メールが1通、届いていた。

 サクヤさんからだった。


 今日は、11時に待ち合わせして、100色の花の種の1つを、一緒に探しに行く約束をしていた。

 約束したのに連絡もせず、ログインしなかった俺を、怒っているだろうか。


 メールを開く。

 

 そこには、約束を破った俺を怒るでも詰るでもなく、ただ──



 俺を心配して、気づかう内容だけが、書かれてあった。



 最近忙しくて疲れてるようだったから、無理はしないように、から始まって。

 寝落ちしちゃったのかな、

 それならそれでいい、休める時には、ゆっくり休んで。

 部屋で倒れてないかな、大丈夫かな、

 急がなくてもいいから、後でもいいから、メールしてくれたら安心できるし、嬉しい、と。

 いつでも種は採りにいけるから、また今度行こう、と。


 疲れが取れる、スムージーに入れる野菜と果物の種類と分量も詳しく書いてあった。


 最期に、

 おやすみなさい、また明日。



 俺は、何度も読み返した。


 優しい、どこまでも優しい内容のメールだった。

 


 ああ。

 会いたい。


 実際に会ってみたい。

 会って、ちゃんと顔を見て、声を聞いて、話がしてみたい。

 俺の話を、聴いて欲しい。


 こんなどうしようもない俺にも、あの映像で観たように、優しく笑ってくれるだろうか。

 いや、笑ってくれると思う。

 きっと、サクヤさんなら。


 あの、ゆったりした、穏やかな声で、俺の名前を呼んでくれるだろうか。

 俺の名前は、なんだったっけ。

 役職名で呼ばれるようになってから、誰にも呼ばれる事のなくなった、俺の名前。

 自分ですら、忘れかけそうな名前を。


 あの人は、なかなか見かけによらず男前なところがあるから、

 情けない俺の話を聴いて、叱ってくれるだろうか。

 覚悟っていうのはな、って。

 いつもみたいに。


 

 タツミが、羨ましい。

 あんな優しい場所にいられて。

 なんの苦労もなく、いつも一緒にいられるなんて。

 時々、サクヤさんの家に行って、温かい夕飯を食べて帰って。

 笑いあって。

 一緒に遊んで。

 


 あんな優しい人の。

 側に、いられるなんて。





 * * *





「……さん」



 誰か、呼んでいる。


「シグさん」


 ああ、俺の名前か。ここの世界の。

 俺を呼んでる。


 俺を心配するような、優しい声。




 目を開けると、明るかった。

 朝だ。



 柔らかい栗色の髪をした、穏やかな若草色の瞳の人が、俺を心配そうに覗き込んでいた。



 柔らかいコットンシャツの袖口で、俺の目尻を軽く、拭くように押さえてくれた。

 微かに、花みたいな、良い香りがした。


「怖い夢でも見てた?」


「夢……」

 咽は渇ききって、声は酷く、擦れていた。


「大丈夫? どっか具合悪い? なんか飲む?」


 温かい掌が、俺の頬を撫でて、細い指が、ゆっくり前髪を梳いてくれる。


「サクヤ、さん」


 呼ぶと、ゆったりと、優しく微笑んでくれた。


「……俺の、名前……俺の名前って、なん、でしたっけ」


「シグさん?」


 俺は首を、横に振った。


 俺を不思議そうに見ていた若草色の瞳が、考えるように上を向いて。

 何かに気付いたように1回だけ頷いて、また俺の方に戻ってきた。


「確か……隆行さん? だったっけ。なんだよ、自分の名前、忘れちゃったの? まあ、あんまりここでは使わないからなあ」

 可笑しそうに、クスクス笑っている。



 覚えていてくれた。


 

 たった一度だけ、みんなと本名を教えあったあの時、聞いただけの名前を。


 全身を、なんともいえない喜びが駆け巡って、俺は叫び出しそうだった。


 ああ、本当に、あいつと似すぎていて嫌になる。


 一度でも名前を呼んでもらえたあいつが、腹立たしくて、嫉ましくて──羨ましかった。 



 俺も、ようやく、呼んでもらえた。

 優しい声で。




「……こんな、情けない俺を、どうして選んでくれたんですか」

 何だか思考と身体が上手く働かなくて、思った事がそのまま口をついて出てしまった。


 サクヤさんが、きょとんとした顔をした。


「ん? シグさんは、情けなくないよ? 頑張り屋だろ。頑張りすぎてて、ちょっと心配するぐらい」


 今度は、俺が目を見開いた。


「頑張り……屋?」

「だよ」


 そうだろうか。

 自覚はない。違うと思う。ただ、サクヤさんには、そう見えているのか。どこがそう見えているのか良く分からないが。


「だから、疲れてる時は、ゆっくり休んでいいんだからな。無理しないで」


 あのメールと同じ、優しい言葉。


「まだ朝早いし、もうちょっと寝ててもいいよ」

「……はい」

 微笑まれて、俺も笑って返した。

 離れていく腕を、考えるよりも先に掴んだ。


「なに?」

「……サクヤさんも、もう少し、寝ましょう。一緒に」

 サクヤさんが顔を赤くして、目がうろうろと部屋を巡った。

「な、」

「な?」

「なにも、しない、なら」

 俺は笑って、頷いた。


 サクヤさんが、もぞもぞと俺の隣に戻ってきた。


「手、繋いでもいいですかね」

「ふえ!? ま、まあ、それくらい、なら……いいけど」


 繋いでくれた手は、温かかった。


「……花祭り、明日の昼からだって。町中で、道行く人に花をかけて回るんだってさ。シグさん、知ってた?」

「いいえ」

「俺も! 俺たちの知らないお祭りが、世界中にあるみたい」

 楽しそうに笑いながら、俺に話しかけてくれる。

「食べれる花を使った料理も出るんだって。どんなのかな。天ぷらみたいなのかな? あ、ごめん。話してたら寝れないな」

 俺は首を横に振った。

「いえ。いいんですよ。サクヤさんの話を聴いてると落ち着くので。どんどん話して下さい」

「え、そ、そうなの?」

 また顔が赤くなる。

 ああ、可愛いなあ。



  サクヤさんが、女性の身体で良かった。

 結婚という名の束縛で繋いで、一生俺の側にいてもらえるようにできるから。


 もし向こうに帰れた場合は、少し面倒な手順を踏まねばならない。

 サクヤさんの農園に行くには、一度、俺という存在をこの世から抹消しなければならない。

 もちろん、偽装で。

 だから本当に、何もかも失って、身一つになる。


 そんな、戸籍すら失った俺でも、雇ってくれるだろうか。まあ、裏ルートで手に入れられないこともないが。


 一緒にいてくれるだろうか。


 おそらく、いてくれるだろう、と思う。


 馬鹿だなあ、って呆れながらも。


 身一つでも一緒にいてくれる、と言ってくれた言葉を、根拠もなく信じている俺は、自分でも呆れるくらいだ。

 でも。

 きっと。




 無性に、また温かい身体に触れてみたくなったけれど、こんなに優しくて穏やかな時間を終らせてしまうのも、もったいなくて。


 悩んでいると、サクヤさんのお腹が鳴った。

 俺は笑った。


「お腹、すきましたか?」

「あ、う、うん……。そ、そうだ。こ、ここのモーニング、フレンチトーストセットあったんだよ。珍しいよな。看板のメニューに載ってた。しかも、おかわりオッケーって書いてあった!」

 相当お腹が空いてるらしい。

 さっきから、食べ物の話ばかりしている。


 そんなにお腹が空いてるのに、手を繋いでくれて、眠くもないのに添い寝してくれて、俺のわがままに付きあってくれている。



 ああもう。


 なんて────




「朝食べてから、ゆっくりしましょうか」

 

 俺の提案に、サクヤさんの顔が、嬉しそうに笑みを浮べた。

 花が咲くように。


「うん!」


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