chapter-30
「止まった……」
広間にある全てのものが、ぴたりと動きを止めた。
床や壁を覆っていた黒い棘の蔦が、ぼやけ始めた。
少しずつ、溶けるように、黒い靄になって消えていく。
狂王の身体を覆っていた蔦やノイズも、黒い靄となって、徐々に消えていった。
大きかった異形の姿はどんどん、どんどん小さくなって、とうとう薄いホログラフィーのようになって。
最後に、年若い、ダークグレーの髪に、空色の瞳の青年の姿になった。
「アルグレツィオ王子……?」
王子は一瞬驚いたように目を見開き、俺を見た。
それから嬉しそうに微笑んで────何かを呟くように口を動かして────消えてしまった。
全部、霞みたいになって、消えていってしまった。
棘だらけの黒い蔦も。
白い霧も。
黒い霧も。
ノイズも。
割れた天窓から、光が差し込んでくる。
あんなに濃かった霧は、いつの間にか、すっかり晴れてしまっていた。
窓の外は灰色の曇った空じゃなく、澄んだ青い空が見える。
全部、消えてしまった。
霞のように。
夢のように。
まるで、最初から、何もなかったみたいに。
ぐらり、とシグさんの身体が傾いだ。
俺は慌てて支えた。
重すぎて支えきれなくて、俺はよろけて座り込んだ。
「……待って……やだ……やだよ、こんなのいやだ、ねえ、シグさん、」
俺は倒れたシグさんの頭を、膝の上までひっぱった。触れた頬は冷たくて、肌色は青白く、目は閉じられたままだ。
「ねえ、目あけて。お願い、おきて、いやだ、こんなの、こんな、終わり、は」
「さ、サクちゃん……? いったい、なにが起こったん?」
「旦那……?」
後ろから足音が近づいてきて、皆が事情を尋ねてきたけど、説明してる余裕は俺にはなかった。
「シグさん、一緒にいられたら、いいですね、って、言ってたじゃないか。俺、こんな、最悪なのは嫌だって、言ったじゃないか、なあ、起きてよ……!」
ぽたり、とシグさんの頬に水滴が落ちた。
ぽたぽた、といくつも落ちる。
視界が霞む。
こぽり、とシグさんの口から血が流れた。
その口が、少しだけ、苦笑いのような、笑みの形を作った。
「シグさ、」
まだ、生きて……生きてる!
「……1%……の確率……引き当て…………」
──1%。
急所への一撃で【即死】の発動率は99%。1%の確率で【瀕死】状態。
【瀕死】は、僅かに一桁残ったHPと、全ての行動不能。
「ま、待ってて、いま、今回復するから!」
俺は、脇でオロオロしているビオラを見上げた。
「ビオラ! 頼む!」
「は、はいですっ!」
ビオラが大きく頷いて、杖を取り出して構えた。詠唱をするために口を開きかけて────動きを止めた。
俺を見て、泣きそうな顔で、首を横に振っている。
どうして。
「で、できませんです! し、シグさんが、回復対象に選択できないです……!! どうして、【エネミー】表示になってるですか!? これじゃあ、回復、できません……!」
エネミー?
そんな。シグさんは。だって。
ああ、そうか、同化してしまったから。
エラー。警告文。
どうしたら──
「……誰か、……俺に、止めを。シュテン……たの……ますか」
シグさんが、目を閉じたまま、擦れた声で呟いた。
「旦那……」
「狂王……力……失っ…行動不能に、なり、ましたが……まだ……俺が、死なないと……終わりに、ならな……」
シュテンが、唸った。
ゆっくりと斧の束に、手をかける。
──最期の、止めを、さすために。
俺は庇うように、シグさんの頭を覆った。
「サクヤ。……そこをどけ」
「だめ! やだ! 俺、いやだ! そんなの……やだ……!」
「けどよ……このままじゃ、」
シュテンが言葉を飲み込んだ。俺は首を横に振った。
「やだ……助けて……誰か……お願い……」
誰でもいいから、助けて。
なんでもするから。なんでも言うこと聞くから。俺があげられるものなら、何だってあげるから。だから。
──ああ。
俺も、あの白銀の男と同じことをしてるな、と、ふと頭の片隅で思った。
あの男を、俺は責められない。
俺の後ろで静かに浮かんでいた、【マダム・蝶々】が、静かに溜め息をついた。
『……主よ。その者は、もう人ですらない。魔と完全に同化してしまった、深淵の魔だ。属性は違えど、妾たちと同じ領域の、人あらざる身となってしもうた……人の身を捨てた、愚かで、歪で、哀れな魔物。いっそ殺してやるのが、情けではあろうが……』
「マダム……?」
『そんなに泣くでない、主よ。妾たちと同じ領域のモノ、と言うたであろう……?』
俺は、マダムの言いたいことが、やっと分かった。
『上手くいくかは妾にも分からぬ。おそらく、主の今のレベルでは、到底扱えぬ、魔性の者だ。──だが、その男自らが、それでもよい、と【了承】しさえすれば、どうにかなるのではないか……? さすれば、回復することもできようぞ』
俺は、杖を手に取った。
詠唱を始めた。
──コケ太郎たちとした時と同じように。【使役魔】と契約するときに使う、スキルの詠唱を。
「──我は大樹の落としたる万の種より生る緑児の名において、誓う。幻界の大樹の御名の元、汝と誓約を結ばん──」
シグさんの周囲に、黄緑色の魔方陣が、浮かび上がった。
「シグさん。お願いだ。【了承】して」
シグさんからの、返事はない。
身体はさっきから、ぴくりとも動かない。
視界が滲む。
シグさんの顔に落ちた、水滴を指でぬぐう。
肌はとても、冷たかった。
ああ、どうか。
「お願いだから。一緒に、いて……」
黄緑色の魔方陣が、静かに消えた。
それと同時にシグさんの身体も──光になって消えてしまった。
シグさんの胸に刺さったままだった銀色の短剣が床に落ち、カラン、と小さな音を立てた。
「消えた……」
消えてしまった。
失敗したのか。
シグさんが、了承しなかったのか。
もしかして、まさか、他の、スリップダメージがあったのか。
わからない。けど。
消えてしまった。
跡形もなく。
「シグさん、どこいったの……?」
皆を見上げてみても、目をそらすばかりで、誰も答えてはくれなかった。
さっきまで、ここに、いたのに。
まるで、幻みたいに消えてしまった。
あの黒い霧と同じように。
「キュ!」
それまでじっと俺の脇に座っていたコケ太郎が立ち上がった。
俺の前で、一度ジャンプする。
「コケ、太郎……?」
マダムが、ふわりとコケ太郎の上まで飛んできた。
『ふふ……。コケ玉よ。戻るのは、妾の方で良かろうぞ。おぬしは主に付いておれ』
俺は、放心したまま、ただ、マダムを見上げた。
マダムが、俺の頭を撫でた。子供をあやすように。
『主よ。妾を幻界に戻すが良い。そして、呼び寄せよ。────今一度』
呼び寄せる──?
今一度。
──ああ。
そうか。そうなのか。
俺は杖を握りしめ、【使役魔】のリストウインドウを表示した。
心臓が痛い。
視界は滲みっぱなしで、手の甲でぬぐってもぬぐっても、周りがいっこうにはっきり見えない。
リストの名前を辿る。
一番上は【コケ太郎】だ。
その下には、俺と契約した精霊や幻獣の名前が連なる。
そして一番最後には──
【黒霧の王】
という名前が、追加されていた。
俺はマダムに御礼を言って、【幻界送還】した。
そして、震える手で真っ白な羽根みたいな杖を構えた。
「──我と大樹の誓約を交わし者よ。来れ。────【黒霧の王】」
黒い霧と、黒い棘だらけの蔦が床から立ち登る。
それは人の高さ以上に伸びきると、蔦も黒い霧となって混じり、散った。
そこには、シグさんが立っていた。
髪は黒ではなく、ダークグレー。一部分がメッシュのように黒髪が残っている。
閉じていた瞳が、ゆっくりと開く。
その瞳の色は、黒に限りなく近い、紫色をしていた。
「シグさん……?」
呼ぶと、紫黒の瞳が俺を見下ろし────泣き笑いのような、笑みを浮かべ────
その場に、大きな音を立てて、うつ伏せにぶっ倒れた。
「わあああああっ!!? シグさんんんん!?」
俺はシグさんに駆け寄ろうとして、足に力が入らず思うように動けなくて、転んだ。
「お、落ち着けサクちゃん! ビオラ、シグ兄の回復を!」
「は、はいです!」
「キュー!」
コケ太郎とビオラの回復魔法の光がシグさんに降り注ぐ。
俺も全力で、コケ太郎の強化効果も追加して、持てる回復スキルを全部かけまくった。
みんなに手伝ってもらって、重くて大きな身体を仰向けにひっくり返した。
俺はシグさんの顔を覗き込んだ。
顔色が、肌色に戻っている。頬に触れると、温かかった。
「シグさん……?」
名を呼ぶと、眩しそうに、紫黒色の瞳が細められた。
覗き込む皆の顔をみて、最後に俺を見て──少し慌てたような顔をした。
「……サクヤさん。そんなに、泣かないで下さい」
「……泣いて、ねえよ」
俺は鼻をすすって、手の甲で目を擦った。次々溢れて、擦っても擦っても、どうしても止まらない。なんか壊れた。これ。
「──サクヤさん」
「なに」
「……アイツは俺と、すっかり同化してしまいました。いや、溶けて……混ざった、というか……何と言えばいいのか……説明が難しいんですが……とにかく。同じものになってしまった。もう俺は、あなたの知ってる【俺】ではなくなってしまっているかもしれません。人ですら、なくなってしまった。それでも……」
本当、よくわからない説明だな。
「よくわかんないけど。シグさんが、消えたり、するのか?」
「え? いえ、もう消えは、しませんが」
「なんだ。じゃあ、もう乗っ取られたり、しない?」
「そうですね、それはもう、ありません。俺は、【今の俺】になってしまったので」
本当に、よくわからない。
分かっているのは、今重要なのは──俺の前に、ちゃんといるってこと。
「じゃあ、いいよ」
「いいんですか?」
シグさんが、呆れたような顔で俺を見上げた。
俺は笑った。
「うん」
俺はシグさんの胸の上の、心臓の上あたりに頭を置いて、耳をすませてみた。
温かい体温。
少し早い心臓の音も、ちゃんと聞こえた。
生きてる。もう消えたりしない。
よかった。本当によかった。
俺は目を閉じた。
「サクヤさん?」
「……ありがと」
一緒にいる、選択をしてくれて。
【ご連絡2016.10.16】
後数話続きます。
そして。
うおおおおお明日から一週間出張なので、帰り次第投稿致します!(土下座)