chapter-21
ぴくり、と王座にうなだれる男の肩が動いた。
俯いていた頭が、ゆっくりと上がっていく。
ダークシルバーの前髪の隙間から、ゆっくりと瞼が上がるのがみえた。
真っ黒い瞳。
それは少し辺りをさ迷って、最後に俺を見て、止まった。
それから、ゆっくりと花が咲くように────微笑んだ。
『……ああ……アあ、……アナタは……』
王座の下、真っ黒い靄が、ざわり、と動いた。ように見えた。
『あイ、たかッタ……逢いたかった……逢えタ……ウレ、シイ……』
王座に座る男が、嬉しそうに立ち上がった。俺に向かって歩き出そうとして、すぐに動きを止める。
いまいましそうに足下を睨んだ。
──もしかして、あそこから、動けないのか……?
ざわり、と狂王の足下、暗く凝った、沼のような黒いものが波打った。
棘だらけの蔦が、沼のような黒い足下から何本も、何本も顔を出す。
『ワタシ……私は、ココから、動けナイ……ダカラ、来テ……私丿側に……』
狂王が、まるで俺に手を伸ばすかのように、両腕を広げてみせた。
白金髪の男が俺の真横から顔をのぞかせ、にっこりと微笑んだ。
スミレ色の瞳と、薄い唇が、三日月のような弧を描く。
「さあ。行ってあげて。そして、抱きしめてあげて? ───君の【想い】が、君への【想い】が育てた、私のかわいい子を」
「行かなくていい! 逃げるんだ! 早く!」
「キュー!」
黒い棘だらけの蔦は、もう俺の足下まで来ていた。
暑くもないのに、汗が流れる。
心臓が、痛いぐらいに早鐘を打っていた。
俺は、シグさんを振り返った。
こんな話を聞いた後でも、俺の心配をしてくれるのか。
こんな、こんな暗い場所に閉じこめられて。
あいつと二人きりで。気の休まる暇などない。疲れてたはずだ。
大丈夫、なんて嘘だ。眠れる訳がない。
俺は震える息を飲み込んだ。寒くもないのに、震えが止まらない。怖い。怖いけど、でも。放ってはおけない。これは、俺の所為なのだ。全部。
「……ごめんなさい、シグさん。本当に、ごめんなさい。俺が、巻き込んだ。俺が、あの時、あんな事をしなければ……」
こんなことには、ならなかったのに。
こんな世界に連れてこられる事も、なかった。
今ごろは、普通に会社に行って、普通に食べて、寝て、人と出会って、時々気晴らしにゲームをするような、普通の生活を送っていたはずなのに。
「違います! あの場所に残ったのは、俺の意思です。あなたの所為じゃない」
俺は首を振った。違う。詭弁だ。
「ごめんなさい。今更、謝って済む事じゃないけど……ごめんなさい。こんな世界に連れてきて。苦しくて、辛い思い、いっぱいさせた。酷い悪夢も、たくさん、見させて……こんな。こんな暗い場所に、閉じこめて……ごめんなさい……」
泣きそうだ。
なにやってんの、俺。馬鹿だ。どうして、もっと考えなかったんだ。
『……サクヤ……何をシテル……? 早ク……ワタシの側へ……』
狂王が、少し苛々とした声音で、俺を呼んだ。
黒い蔦は、俺の周りをうろうろするだけで、登ってこようとはしなかった。よくわからないけど、絡みついてくることはないような、気がした。俺を捕まえて引きずっていけばいいだけなのに、それをしようとしない。躊躇うような、迷っているような、動き方。
俺は、狂王を振り返った。
「俺。俺が、そっちへ、行ったら、シグさんを、解放する?」
情けなくも、俺の声はひどく震えていた。
「サクヤさん!? 何を言ってるんですか!」
「俺と、交換。シグさんを解放するなら、俺がそっちに、行く。しないなら、行かない」
白金色の髪の男が、楽しそうに嗤った。
「ふふ……ははははははははっ。【自己犠牲】、というものは、いつ観ても、良いものだねえ。自らの身を贄として捧げてまで、相手を救おうとする、その尊き精神。ああ、何度観ても、飽きないよ……。最も愚かしくて、最高に嗤えるほどに憐れで、そして、最も、美しい……」
「最悪の、趣味だな……!」
俺は思いっきり、白金髪の男を睨みつけてやった。
「観察だよ」
男は全く堪えてないようで、楽しそうに高笑いした。なにが観察だ。殴りたい。足下の蔦さえなければ、殴りに行っているのに。
狂王が、俺をじっと見ていた。考えているのかもしれない。
それから────口元に笑みを浮べた。
『分かっタ……そいつは、解放スル……ダカラ……こっちへ……』
「約束。やぶったら、嫌いになるから」
狂王が、焦ったように首を振った。俺に嫌われる事を、狂王はひどく恐れている。
『約束、守る。ダカラ、嫌いに、ナラナイ、デ……』
「サクヤさん! 何を馬鹿な事を……! 早く逃げるんだ! ────逃げなさい!」
シグさんが、まるで子供を叱る大人のような口調で、俺を怒った。
なにを今更、大人ぶってるんだ。幼い子供じゃないんだから、そんなんじゃ、俺に言うことは聞かせられないんだからな。
俺はシグさんから一歩、離れた。
「ありがとう、シグさん。ずっと側にいてくれて。コケ太郎も、ありがとな。いつも、俺の側にいてくれて……ありがとう」
「キュー……」
コケ太郎が、俺の近くにこようとして、でも黒い蔦がいつのまにか間に横たわってて、うろうろしている。
「俺の事はもういいから、帰れ。十分だ。こんな暗い所まで、ついてきてくれて、ありがとな」
コケ太郎が、ぶんぶんと横に身体を振り回した。いやいやをする小動物みたいに。
「──サクヤさん!! 行くんじゃない! 戻れ! そんなに怖くて震えているのに、何を強がって言ってるんだ! いいから、早く逃げなさい!」
初めて、シグさんが、本気で俺に怒って、怖い声で、怒鳴った。
俺はシグさんの言葉を無視して、狂王の手前まで移動した。
後一歩踏み出せば、狂王の手が届いてしまうかもしれない、その手前まで。
棘のある黒い蔦は、俺の足下を囲うように這ってきた。
やっぱり、無理やり捕まえたりはしてこないみたいだ。触れてはこない。
俺の周りはもう棘の蔦でいっぱいだ。
逃げ道は──もう無い。
情けないけど膝が震えすぎて、立っているだけでも精いっぱいだ。
動悸がしすぎて、呼吸が苦しくて、胸が痛い。
「──俺を、あの時みたいに、その棘の蔦で、捕まえないの?」
狂王が、慌てたように首を振った。
『……あれ、は……す……済まナ、かっタ…………もう、しない……サクヤには、傷をつけない……から……』
もうしないでいてくれるようだ。ただ──俺が、抵抗しなければ、だろうけど。
俺は震える息を吐いた。それが分かっただけでもいい。あんな痛い思いは、できればもうしたくない。
『早く……側、に……』
「シグさんを、解放するのが先だ」
狂王が頷いた。
シグさんの方を振り返る。
シグさんをからめ捕っていた腕の黒い蔦が、するすると下がっていった。
よかった。これで、シグさんが狂王に身体をのっとられることは、もう無い。はずだ。
俺は、両手で心臓のあたりのシャツを掴んだ。
本当は怖くて逃げ出したい。さっきから、どうやっても、震えが止まらない。
俺、どうなるの? わからない。けど。
シグさん。助けられた。よかった。これで、もう怖い夢も見なくなるだろう。身体を乗っ取られることもない。
「サクヤさん……!」
シグさんが立ち上がった。
左腕の真っ黒い痣も消えている。
解放されたのだ。
約束は、守られた。
俺は狂王に視線を戻した。
「約束。守ってくれて、ありがとう」
狂王が、褒められて喜ぶ子供のように、とても嬉しそうに微笑んで、頷いた。
「キュ────────!!!」
コケ太郎が、一声鳴いた。
小さな枝のような手で、白い花束を持って、黒い蔦を叩く。
────ざわり、と黒い蔦が、嫌がるように退いた。
白い花束に触れるのを、恐れている?
何故かは分からないけど。
それを見た、シグさんの次の行動は速かった。
シグさんはコケ太郎から白い花束を奪うと、同じように黒い蔦を叩いた。
蔦が、ざわりと蠢いて、後ずさるように少し引いた。
嫌がっている……?
あれ? 光が、動いた。今度は、シグさんのところだけに光が差している……?
──ああ、そうか。
やっと、わかった──
俺は、ようやく、光が移動していた理由がわかった。
俺じゃなくって、【白い花束】の在る場所に向かって──光が、差し込んでいたのか。
白い花束の中には、リリーティアの花が沢山入っている。
リリーティアは、天界からこぼれ落ちた光の滴から咲いた花、とアイテムの説明に書いてあった。
天と繋がる、白い光の花。
少し離れた場所でそれを見ていた白金髪の男が、片眉を上げた。
「君。酷い事をするね。やめてもらえるかな? あの子は【光】系が苦手なんだ。【光】系の物は大好きだけど、君たちが酷い事ばかりするから、とても怖がるんだよね」
光。
シグさんが、もう一度花束を蔦に向かって叩きつけた。
光に当たった蔦が、脅えたように後ろへ引く。
シグさんが、駆けた。
「コケ太郎! なんでもいい、俺に回復と防御と補助スキルをかけろ! ありったけ、掛けるんだ!」
「キュ、キュー!!」
コケ太郎が跳ねた。花が舞い散る。
シグさんが、黒い蔦が蠢く地面の上を、こっちに向かって走ってくる。
掴み掛かって来そうな蔦を、白い花束に差し込む光で払いながら。
「サクヤさん! こっちへ! 早く!」
手が伸ばされる。俺に。
その手を、俺は、取っても良いのだろうか。
救いを求めてもいいという資格が、こんな俺にあるのだろうか。
あるはずがない。知らなかったでは済まされないくらいに、酷い事をしてしまっていたのに。こんな事に巻き込んで。いつ元の世界に帰れるのかも分からない。こんな訳が解らない世界に一緒に連れて来られて。こんな冷たくて暗い所にずっと捕われて。酷い悪夢を見させられて。いままでずっと、苦しめてて。許されるはずがない。俺を罵倒してもいいくらいだ。こんな目に遭わせやがって!って。俺が懐いてくるから、シグさんは優しいから、何も言えなかっただけだ。
もう、いいから。
動こうとしない俺にしびれをきらしたのか、シグさんが舌打した。
俺の目の前まで、蔦を飛び越えてやってきた。
怒った顔のまま少しかがんで、俺の脇と膝裏に腕を通す。半分硬直状態の俺は、成すがままに持ち上げられてしまった。待ってくれ。そんなことしたら。
黒い蔦が、ざわりと大きく波打つのが見えた。
「コケ太郎! 援護を!」
「キュー!」
コケ太郎は、両手が塞がってしまったシグさんから、白い花束を受け取った。
そして、モグラ叩きよろしく、黒い蔦をぺしぺしと叩き始めた。
「サクヤさん! 動けなくてもいいから、せめて、落ちないように俺にしがみついててください! 早く! 俺を助けたいなら言うことを聞くんだ!」
大きな声で怒鳴られた。びっくりした。怖い。
俺は頷いてシグさんの言う通りにしがみついた。俺の所為で、また助けられなくなったら。そんなの嫌だ。怖い。
コケ太郎が蔦をたたき、蔦がひるんだ隙に、シグさんが飛び越えて走る。
目を吊り上げて狂王が手を伸ばしてきたが、その手はここまで届かない。
あっという間に、距離が開いていった。
コケ太郎が掛けた【スピードアップ】【ステータスアップ】やらの様々な補助スキルの効果で、ありえない速さでどんどん距離が開いていく。
俺の指示がなくても、コケ太郎は独断でシグさんに回復と補助スキルをかけ続けていた。
走って。
走って。
黒い蔦が追いつけなくなって。
そしていつのまにか、黒い蔦のエリアを抜けていた。
『きさマあああああ……返せエええええええええええ!』
狂王が地に響き渡るような恐ろしい声音で、吠えた。
シグさんの肩越しに振り返ると、押し寄せてくる黒い波のように、追いかけてくる黒い蔦が見えた。
そして、能面のように笑みを張り付かせたままの、白金髪の男がこちらを見ている。
男はなにもしようとはせず、ただ笑みを浮べて、俺達をじっと見ているだけだった。
「キュ!?」
コケ太郎が持っていた白い花束のリボンが解けて、白い花が散った。
あれだけ振り回して叩けば、耐久度も切れて、さすがに壊れるだろう。
俺はシグさんのスーツの背を、ぎゅっと握りしめた。
俺、助かったのか……?
シグさんも、助かったの……?
鼻の奥が痛い。目の奥も痛い。手が震える。咽も震える。泣きそう。耐えろ俺。泣くな。
「あり、がと……ありがとう、シグさん……コケ太郎も……俺、助けてくれて、ありがとう……」
「キュキュー!」
コケ太郎の、どこか誇らしげな鳴き声が下の方から聞こえた。
シグさんが、俺の肩を強く掴んだ。
「俺の方こそ。助けようとしてくれて、ありがとう……サクヤさん」
「なんで、シグさんが、お礼いってんの。逆、だろ」
巻き込んだ俺を、恨んでもいいくらいなのに。
シグさんは少し笑うと、俺の肩を軽く叩いた。あやすように。
だから、俺はもう子供じゃないってのに。
あまりにもその手が優しすぎて、俺は静かに泣いた。もういいや。この態勢では、どうせ俺の顔は見えないんだから。
真っ暗闇だった周りが、少しだけ、ほんのりと薄くなった。気がした。
「少し、明るくなった……? シグさん、俺たち、助かる?」
「ええ。もう──大丈夫ですよ」
「そっか……よかった……」
シグさんが、立ち止まった。
ようやく俺も、下ろしてもらえた。情けないのと、申し訳なさすぎて、いたたまれない。
「ご、ごめん……。重かっただろ? あ、ありがと」
シグさんが笑った。
「いいえ。軽すぎて逆にびっくりしました。もう少し、食べた方がいいですよ」
「軽すぎ……」
親父と兄貴と母さんにも、よく言われる事を、シグさんにまで言われて軽くショックを受ける。
辺りは、真っ暗闇だったのか嘘のように、ほのかに明るくなっていた。
「……やっと、【夢】の時間が、そろそろ終わりそうです」
「夢……?」
「──ここまでくれば、自力で目を覚ます事ができる。【俺】が起きれば、あいつは、あなたをこれ以上、追っては来れないでしょう」
顔を上げると、シグさんがいつものように、穏やかに笑っていた。
濃い紫色の瞳じゃなくて、やわらかい、榛色の瞳で。
シグさんが大きくて長い指で、俺の前髪をかき上げて、額に、静かに唇を落とした。
こめかみにも。
俺の額の上に、目を閉じて、額をそっと合わせる。
何かに、祈るように。静かに。
俺は、どうしてか、何故だか、怖くなった。
「シグさん……?」
なぜだろう。
助かったのに。どうして。
何故、お別れの挨拶を、されてる気分になるんだろう────
「──もう、ここには、二度と、来てはいけませんよ」
「シグ、さ──」
ものすごく嫌な予感がして、シグさんを掴もうと伸ばした俺の手は届く事はなく──
────俺の視界は、真っ白に塗りつぶされた。