chapter-16
白い霧が、立ちこめている。
【霧の森】は、その名の通り、うっすらと白い霧がかかっていた。
むせ返るぐらいの青い深緑の香り。
しっとりとした、湿度の高い空気。
目の前には踏み固められただけの細い獣道が、森の奥へ奥へと続いている。
「うーむ……」
マツリ姉が森の入り口手前で、足を止めた。
紅い切れ長の瞳を細めて、道の先を睨んでいる。
「マツリ姉? どうしたんだ?」
「いやー。【霧の森】って、こんなに霧が濃かったかなあ、と思ってな……。ちょっと、霧が出すぎてるような気がせんか? 道の先がほとんど見えんしさー。前はもっと見えてた気がするんだけどなあ。サクちゃん、どう思う?」
「俺?」
同じように、視線を向けてみる。
獣道の奥は、手前のほうから既に白く塗りつぶされていた。7、8メートル先は、もう真っ白だ。
確かに、前にゲームで来た時は、もうすこし奥まで見通せた気がする。
「……本当だ。確かにちょっと、霧が濃すぎるような気がする……」
「なー? やっぱり、サクちゃんもそう思うか」
「うん。でも、ゲームとこっちの世界では違ってる事も多いし、こっちでは、これが普通なのかも……わかんないけど」
「うむ。そうなんかなー」
「まあ、見通しが悪いのは確かです。はぐれて迷子にならないように、注意して行きましょう」
「んだなァ。こりゃあどうも、嫌な予感がビンビンするぜ……。おおお、なんか、首筋がゾクゾクしてきた……あ。ほら、あそこの木の横。誰か立ってねえか……? 俯いてる女、みたいなのが────」
シュテンがにやりと口角を上げた。この野郎。
ビオラが真っ青な顔になって、小さく悲鳴を上げた。
「シュテンさん!!! そ、そそういう事いうの、や、止めて下さいです……!」
「そ、そ、そうだそうだ! 何言ってんスか!? 誰もいねえっすよ!! いないっス! いつもの、普通の、森フィールドっスよ!」
「なんだなんだシーマ、ムキになってよ。ははァん? さてはお前……ビビってんのか? 情けねえなあ」
「ち違うっス!! べっべべ別にびビビってなんかないっスよ! 平気っす!! 問題ないっス!!」
「そうだ、いるわけないだろ。今ここは【黒霧の森】じゃないから、レイスとアンデッド系は出てこないはずだ」
「レイスとアンデッド系……!?」
ビオラとシーマが、青い顔をして俺の方をぎょっと見た。
──あ。やべえ。まさか、知らなかったのか。
クエストが始まると、【霧の森】は【黒霧の森】というフィールド型特殊ダンジョンに姿を変える。
そうなった場合、通常の出現モンスターに加え、レイス系とアンデッド系モンスターが追加されるのだ。
魔に取り憑かれた死者はもちろんの事、仲間に引き込もうと彷徨う死霊たち、その中には、【ワンダーレイス】という魔に取り込まれた魔霊もいる。下手すると取り憑いてきたりするやっかいな奴らだ。
「い、いやあああっですうううう!」
ビオラが半泣きで、隣に立っていた俺にしがみついてきた。真っ青な顔をして震えている。ホラーはとても苦手そうだ。そんな事じゃ、【黒霧の狂王】クエストはできそうにないんだが。あれ、ホラーテイスト盛りだくさんなクエストだったからな。出てくる敵の姿も、なかなかにエグイかったし。
「大丈夫だって、ビオラ。ほら、マップには【霧の森】ってでてるだろ? それに俺達、キーアイテムもってないしな」
「うっうっ……そ、そうですよね。そうですよね!?」
「うん。そうそう。だから大丈夫だよ。シュテンも冗談言ってるだけだから。あいつ、ちょいワルオヤジだから。許してあげて」
「誰がちょいワルオヤジだ!」
「ちょいワル……オヤジ?」
「そうそう。人をからかって遊ぶ、悪いオッサンだ」
「誰がオッサンだ!!」
「オッサンじゃねえか。何が違うんだよ」
「オッサン言うな! お兄さんと呼べ!」
「やだね! オッサンをオッサンと言ってなにが悪い 。お前はオッサン以外の何ものでもないだろ」
「なんだとお! 口の減らねえお嬢だな!」
「な!? お、お嬢って言うな!」
「……ふふっ」
ビオラが小さく笑い声を漏らした。
さっきまで真っ青だった顔に赤味が差してくる。どうやら落ち着いてきたようだ。全く、こんな素直な娘を怖がらせるなんて、何てオヤジだ。
「……お、俺も、俺もコワイよー!」
「うわっ」
シーマの奴まで、抱きついてきやがった。男に抱きつかれても全くうれしくない。
「なにが、コワイよー、だ。おまえ男だろ!」
「コワイもんは、コワイっス!」
暑苦しい。ガキのくせに俺よりデカイのも腹が立つ。力いっぱい押しても離れない。くそ。鼻息が当たって、ものすげえキショい。何か嗅がれてるし。キショすぎる。鳥肌が立ってきた。もう我慢の限界だ。俺は握りこぶしを固めた。
「この、いい加減に離れ──」
「うぎゅ!?」
殴ろうと腕を上げる前に、シーマが変な声を出して俺から離れた。
振り返ると、シグさんが片手にシーマをぶら下げていた。背中のローブの生地を無造作に掴んでいる。なんだろう。野良猫を素手で捕獲した人みたいだ。
「──君。そんなに怖いなら、俺にしがみついててくれててもいいんですよ?」
シグさんの笑顔の提案に、シーマが首を何度も横に振った。助けてもらっといて言うのもなんだが、あの笑顔、怖い。やたら凄みがあって怖い。ちょっと離れておこう。怖いし。
「ひいっ、い、いいえいえいえ!! 大丈夫っス!! 遠慮しマッス! だから下ろし……」
「遠慮しなくてもいいですよ。こうして俺が、ずっと掴んでいてあげましょう。ああでも、うっかり戦ってる最中に敵の真ん前に捨て────いえ、落としてしまったら、すいません」
「捨てるって言った!? ちょ、あんた、今、捨てるって言ったっスよね!?」
ぶら下げられて騒ぐシーマを横目で眺めながら、マツリ姉が呆れたように溜め息をついた。
「うるさいぞシーマ! まったく。サクちゃんにセクハラするからだ。じゃー行く前に、隊列を組んでおこう。先頭に私とシュテン。真ん中にサクちゃんとビオラとコケ太郎。殿はシグ兄とシーマ、でいいかなー?」
「いいですよ」
「いやだああああ!! よ、よくねえええっスうううう!! こいつと最後尾やだあああ!! 殺される!!」
「いやですねえ人聞きの悪い。そんな事しませんよ。ああでも──うっかり敵と一緒に斬ってしまったら、すいません」
「それ、殺す、と同じ意味っスよねえええ!?」
「ありがとー。じゃあ決まりだな。皆、十分気をつけてなー。隊列から離れないように。では、行くぞー」
マツリ姉は散歩に行くお姉さんみたいにゆっくりとした足取りで、森の中を踏み出した。
先頭を行くマツリ姉が、時々立ち止まっては、良く通る声で呼ぶ。
「おーい。ディレクー。ソルティー。ユズー。いるかあー」
もう何十回目かになる呼びかけには、今のところまだ1度も、返答は返ってきていない。
「んー。森の中には、いないのかなー」
「どうなんだろうなァ」
シュテンも同じようにディレク達の名を呼ぶけれど、びっくりした鳥が羽ばたいて逃げるだけで、誰も答える人はいない。
森は思っていた以上に広かった。
それに探しながら隅々までゆっくり歩いているから、なかなか進まない。森に入ってかれこれ1時間程経ったけど、まだ森のマップの4分の1を踏破したぐらいだ。そして探し人は、見つからない。手がかりすらも。これはなかなか、骨が折れそうな気配がする。
みんなも同じなのか、表情に疲れが滲んできている。
「ぬー。もう1時間ほど探して、見つからなさそうだったら、今日のところは途中の野営地で休憩にしようか」
「ういー」
「はーい」
「はいです」
「了解です」
「うおあああやったあああ! うう……死と隣り合わせの最後尾から、やっと解放されるッス……!!」
シーマが大げさに泣いて喜んでいた。
* * *
結局。
3時間ずっと森の中を探したけれど、ディレクたちは見つからなかった。
霧がかってくすんだ空が、藍色に染まっていく。
俺たちは、獣道の途中の脇にある、小さな空き地で野営することにした。
自分で作って言うのもなんだが美味すぎる食事の後、俺は鞄からアイテムを6個取り出した。
薄紫色の小さな花と細長い葉と丸い水晶のビーズが編み込まれたブレスレット。
製作者は、俺だ。
俺の制作スキル関係のレベルがほぼ最高値なので、ボーナスアップが付いて、品質は【最高品質】にさらに☆がついている【最高特級品質】である。
最高特級品質なので魔族・アンデッド系の、イヤらしいバッドステータスを付与してくる呪いと憑依系攻撃を、ボスの特殊攻撃以外、1度だけ完全に、100%無効化できる。
これ、けっこう売れるんだよな。マーケットにぼったくり価──いや、ちょっと高めに5個ほど売り出しても、2日ほどしたら完売してる。なかなか売れ筋の消費アイテムなのだ。見た目も可愛いので、カワイイあの娘へのプレゼントにも最適です。販売価格は6000シェルです。買ってネ。
【ローズマリーと天水晶の魔除けブレスレット】
品質:100☆/100
効果:装備していると、呪い/憑依系の攻撃を1度だけ無効化する(発動率:100%)
製作者:サクヤ・サク
ここは【黒霧の森】じゃないが、なんとなく、装備しといた方がいい気がした。
本当に、なんとなくだけど。持ってて損はないし。
俺は全員に1つずつ、魔除けブレスレットを配った。
「ないとは思うけど、もしもの保険で持ってた方がいい。用心に越した事はないし。黒霧の魔物は、呪いや憑依系のスキルを使ってくるやつもいるから。あれにかかると、本当にヤバい」
昔、タツミが憑依されまくって、酷い目にあったからな。
「おお。ありがとう、サクちゃん! おおお〜! ☆付きの最高特級品質じゃー! 流石! キラキラして綺麗だなあ……」
「うわあ〜すごく、カワイイです……!」
女性陣にはすこぶる好評だ。
「うひょー品質100に☆……す、すげえっス……! サクヤさん、こんなものも作れるんっスね!」
「おまえ、こういうチマチマしたもん作るの、ほんと好きだよなァ」
「チマチマしたもんってなんだよ! 失礼な! 文句あるならカエセ」
「いやいやいや。褒めてんだぁよ。すげえすげえ」
「誠意が感じられんな……」
まったく。
フリーサイズなので、太いシュテンの手首でもちゃんと装備できる。花とパワーストーンのブレスレット。うん。全然、似合わねえな。
シグさんの方をみてみると、丁度、腕にはめたところだった。
ゴツいガントレットと花のブレスレットがミスマッチすぎて、なんだか可笑しい。
俺は笑いかけて──────
すぐに、凍りついた。
見てしまった。
どす黒い靄が、シグさんの手首から、じわりと滲み出てくるのを。
真っ黒な靄は、魔除けを包み込み────
────パンッ、と音を立てて、はじけとんだ。
「な、なんの音だ!?」
「え、なな何ッスか!?」
「何の音だ?」
「ひわあ!? なんなんですですか!?」
皆が、びっくりして騒めいている。
俺は激しい動悸と動揺を必死に抑えつけながら、慌てて駆け寄った。シグさんの方へ。
まだ僅かに残る黒い靄とブレスレットが千切れた手首を、隠すように両手で掴む。
「し、ししし、しし、シグさん! ち、ちょ、ちょっと行ってこよう! ちょっと俺達みてくるから! そう、そうだ見回り! ついでにその辺、見回りもしてくるから! さあ行こ! ほら行こ! コケ太郎も行くぞ!」
「キュ、キュー!」
引っ張ると、シグさんは何の抵抗もなく、立ち上がってくれた。
皆が不思議そうな顔で、俺たちを見ている。いや、1人だけ慌てている俺を。
「い、行こう! 早く!」
俺は急き立てるようにシグさんの腕を引っ張って、森の中へとかけ出した。
暗い森の中。
うっすらと漂う霧。
俺は早足で進んだ。
皆の視線が届かないところまでいかなければ。野営地から離れないと。早く。
この状況を、皆に話した方がいいのだろうか。
でも、話しても大丈夫だろうか。
【ローズマリーと天水晶の魔除けブレスレット】は、一度だけ、呪い/憑依系を無効化する。一度だけ。
確かにブレスレットの効果は発揮した。
効果はあった。確かにあった。
そして────はじけとんだ。
はじけるはずの無い魔除けが。
普通は、身代わりに水晶が呪いか憑依を引き受けて黒く濁って、【使用済み】となるだけのブレスレットが。
壊されたのだ。
シュテンは俺たちの事情を知ってるけど、これが分かったらどう思うんだろう。ただ取り憑かれてるだけじゃないのが分かった。分かってしまった。
力を、持っている。
シグさんの中に住み着いて、夢をみさせるぐらいしかできない奴じゃなかった。
さっき、見てしまった。
どす黒い靄がじわりと滲み出て、シグさんの手首を覆うのを。
あいつが、どのくらいの力を持っているのかは分からない。
だけど、最高特級品質の魔除けをはじき飛ばすぐらいの力は持っている。
話せるだろうか。パーティー内に、これから行くかもしれない城のボスが、身内の中にいるこの状況を。何が起こるか分からない。いつ襲ってくるかも分からない。敵は身内に有り。────そんな不穏で未知数な状況に恐れずに、この先も仲間でいて、くれるのだろうか。
シグさんが、立ち止まった。
俺は前に足が出せずにつんのめる。
「──あまり、野営地からはなれないほうがいいですよ」
「そ、そ、そうだな……」
俺は立ち止まって、シグさんを振り返った。動悸で息が苦しい。
瞳の色を確認する。────瞳は、まだ濃い紫だ。まだ、大丈夫だ。
でも──魔除けのブレスレットは、はじけとんでしまった。
そうだ。効いたかもしれない。はじけとんではいるけど、ある程度は効果があったはずだ。きっと。もしかしたら────
「し、シグさん、魔除け、さっきの、ちょっとは効いたんじゃないかな。【狂王】、もしかして、逃げ出したり、弱るか、してない?」
シグさんが、少し悲しそうに目を細めて、首を──横に振った。
……効いてないのか。
俺の作った最高特級品質の魔除けは、【狂王】には効かなかったということか。
俺は手首を掴んだまま白く硬直していた手を、どうにか外した。震えているのに、気付かれなかっただろうか。気付かないで、いて欲しい。どうか。
手首の黒い靄は消えている。引っ込んだのだろうか──────あいつは。
シグさんの大きな左手が、俺の手首を掴んだ。
「シグさん?」
手首に巻いた俺の魔除けブレスレットを包みこむように握り込む。強い力で。
俺は一瞬、息が止まった。
どす黒い靄のようなものがシグさんの指の隙間から、じわりと滲みでてきていた。
俺の魔除けを、靄が包みこむ。
黒い靄は膨れ上がり──
────パンッ、と破裂音を響かせて。
俺の魔除けが、粉々に弾けとんだ。




