chapter-12
細い路地を走って、隣の大通りに出る。
人通りはまばらだ。
大剣背負った黒い人は、通りのずっと南の端まで行ってしまっていた。
ちょ、足、はえええええ!? こんなに歩くの早かったっけ!?
俺は走った。
全速力で走って、角を曲がったところでどうにか追いついた。50メートルは走った気がする。どうなってんだ。足が早すぎる。ありえない。
コートの腕の生地を掴む。
シグさんが驚いた顔で振り返った。
「さ、サクヤさん? どうしたんですか? 何かあったんですか?」
全力疾走した俺は息も絶え絶えで、首を横に振るしか出来なかった。
「ちが、……ぜえ……なんで、」
こっちを向いてる。今は避けてない。俺の話、聞いてる。今なら聞ける。俺はコートを力いっぱい握りしめた。聞かねば成らぬ。何故。
「なんで、俺を避けるんだよ……!?」
すぐに目をそらされた。この野郎。
「理由を言え! 理由を!!!」
「……サクヤさん。手を離してもらえますか」
「嫌だ!! 理由を言わないと、離さないからな!」
シグさんが、大きく溜め息をついた。
「理由は……あなたも、分かってると思いますが?」
目がこちらを向いた。俺を見下ろして目を細め、小さく笑う。嫌な感じに。
初めてみた。嫌な感じの笑い方。理由。あれか。やっぱり昨日のか。なんだったんだ。あれ。なんか、いきなり襲わ────いやいやいやいや。
「わ、わ、わかるかああああっ!!! なん、なんで、」
「そうですか。ではもっとはっきり言いましょうか。俺の側にいると、襲われるかもしれないので、近くにいない方がいいです」
「お、おそっ……!?!」
ちょっと、それは、あまりにもはっきり言い過ぎなんじゃないかと思うんですが。もっと、こう言い方ってもんがあるだろ!? 言い方ってもんが! 何開き直っちゃってんの!? そうじゃなくて、俺が知りたいのはそれじゃなくて──
「だから、何でそんなことになっちゃってんの、って聞いてんだよ!! はぐらかすな!!!」
どん、とシグさんの胸を拳で思いきり叩いた。俺だって馬鹿じゃない。上手く話をずらされてることぐらい分かるんだからな。
シグさんが目を伏せて、俯いた。
「話しても……どうにもならない事ですから」
「なんだって?」
この野郎。この期に及んでまだ話さない気か。
「どうにもならないんですよ。どうにもできない。こうなってしまっては……。あなたにも。俺にも」
「なにが!?」
シグさんが、低く笑った。
「……取り上げられるばかりの人生でしたが、ここまでも同じだと、もう笑うしかないですね」
「何?」
「あまりにも、あいつとにすぎていて、吐き気がします。家に縛られて、全て決められていて、欲しいものは全て取り上げられる……」
あいつ?
「唯一、自由になれるのは──あの世界の中だけでした」
「自由?」
「タツミと知りあって……あなたに会って。好きな場所へ行けて。あの中では、全てが自由だった。楽しかった」
「シグさん……」
「すみません。あなたは帰りたいと言っている横で、本当は、俺は嬉しかった。ここへ来れて。自由だ。それに……あなたもいる」
「お、俺?」
「あなたは、俺の……まだ、取り上げられていない、唯ひとつ残された、安らぎ、でした」
……何を突然、言いだしてるんだシグさんは。
「寄ってくる打算だらけの奴らの中で、あなただけは違った。あなたが聞かせてくれる話も、周りにあるものも全部、優しいものばかりだった」
また嫌な感じの嗤いを、シグさんが零した。
「もし帰れなかったら……ずっと一緒にいられる。この自由な世界で。いや、帰れなくなればいい。……そんなところまであいつと同じ考えで、本当に吐き気がします」
「さっきから、あいつって……」
誰のことを言ってるんだ。
「もう、いっそ──」
言葉が途切れた。
眉間に皺を寄せて、額に汗が浮かぶ。胸元をかきむしるように掴んでいる。
「シグさん?」
「──でも、渡してしまうのも、癪ですからね」
笑いながらも声が、少し震えている。
どうしたんだ。本当に。
何を、俺に隠してるんだ。
俺が近づくと、シグさんは、同じ分だけ────後ろに下がった。まるで、逃げるように。
「待てよ! 話はまだ終わってない」
後退しようとするシグさんの袖を握りしめて、引き止めた。
「……サクヤさん。手を離してください」
「嫌だ」
「頼みます。俺は、あいつにだけは、渡したくないんです。この身体は開け渡さない。なら、もう────」
シグさんが何かを言いかけたが、すぐに眉をひそめて俯いた。額に汗を流しながら。
よろけそうになる身体を支えようと手を伸ばしたら、振り払われた。
シグさんが上体を屈めた。
「……くそ……………空け渡さな……と言って……」
「シグさん、シグさんどうしたんだよ、どこか、具合が」
「……違…………あいつが…………起き……」
「だからあいつって誰なんだよ!?」
呼吸が荒い。頬に汗が流れている。
とうとう強い力で手が振りはらわれ、手荒に肩を押された。突き放すように。どうして。
「……俺から、離れ……て……」
「なんで!?」
「逃げ………が……、眠ってたのに……起きて、しまっ……俺も、抑えが利かなくなっ……」
シグさんが何かを言いかけ──目を閉じた。
それまで荒かった呼吸が、ぴたりと止まる。
さっきのさっきまで苦しそうにしていたのに、嘘みたいに呼吸と動きが止まった。
「シグさん……?」
様子がおかしい。反応がない。なんだろう。なんだか、スイッチを切った自動人形みたいに、動かなくなってしまった。停止した体。
「……シグさん? どうし──」
シグさんの瞼が、ゆっくりと開いていった。
瞳が──黒く見えた。真っ黒に。
気がした。いや、違う。ありえない。でも。やっぱり、黒く、見える……?
逆光の所為、なのか?
俺は思わず、手を伸ばしてしまった。シグさんの目元に向けて。
目元に触れる直前で、俺の手は掴まれた。
無表情すぎて、何を考えてるのか、全く読めない。感情も分からない。だから、次の行動の予測も、全くつかない。
掴まれたままの俺の手は、シグさんの頬に当てられた。黒い、暝い目が俺を見下ろしている。吸い込まれそうな程に、黒い闇色。
光すら吸い込まれそうな闇の色。
瞳が黒いから、まるで────知らない人に見られてるみたいな。気が。まさか。そんな馬鹿なこと。なんでそう思ったんだろう。目の前にいるのは、シグさんじゃないか。
「……ギュウゥー……」
足下で、それまで静かだったコケ太郎が突然小さく唸った。
まるで子犬が、大きな犬に脅えながらも必死の覚悟で反抗するような鳴き声。威嚇している。威嚇? 誰に?
シグさんが、視線を斜め下に向けた。
コケ太郎が、それきり黙ってしまった。頭の花が、小刻みに揺れている。ひどく怖がって、縮こまってしまっている。
──怖がる? 何に?
俺はシグさんを見上げた。
黒い、闇色の瞳が俺を見下ろしている。
静かに、闇色の目が閉じられた。掌に感じる頬は、ひどく冷たかった。
シグさんが、少し顔をずらした。かさついた唇が、俺の掌に当たる。唇が、強く押し当てられた気がした。掌に、キスされ──いやいやいやいや。
なに。なんなんだろう。これは。だからどういう状況なんだ。昨日から予想外の事ばかり起こって、脳がだんだん麻痺してきた。
「シグ、さん……?」
俺を見下ろす虹彩は、塗りつぶされたように黒く染まっている。
「シグさん、どうし──うわっ」
突然腰裏に腕が回ったかと思ったら引き寄せられて、固い胸元にぶつかる。軽く鼻を打った。
もうさっきから、なんなんだ。突き放したり引き寄せたり。何がしたいんだよ。訳が分からなすぎて、だんだん腹が立ってきた。
「い、いい加減に──」
強く抱きしめられた。
大きな身体に強い力で抱き込まれて、何も見えなくなる。
頭がゆっくり降りてきて、俺の肩に静かに乗った。
首に黒髪が触れて、くすぐったい。あまりのくすぐったさに身をよじったが、腰に回った腕はびくともしなかった。
だからなんなんだ。待ってくれ。ちくしょう、好き勝手しやがって。俺を何だと思ってるんだ。身を離そうとしたけど、腕にがっちりホールドされて身動きがとれない。
やけに冷たい唇が、首筋に当たった。昨日の事を思い出して、背筋が冷えた。動けない。同じだ。やばい。離れなければ。
「ちょ、離し……」
「────おーい。なーにやってんだァ、コラァ」
真横に、赤鬼が立っていた。
違った。シュテンが仁王立ちしていた。半眼で。
「しゅ、しゅ、シュテン……!」
「なーにやってんだ、お前等? 白昼堂々、人目もはばからず、路上でラブシーンかましやがって」
「らっ」
なんてこと言うんだ!
「な、なにが、ラブシーンだ! 違えええよ!」
「違うのかァ?」
「違う! シグさんの様子が、なんか、ちょっと、昨日から、おかしくて……!」
「旦那の様子ゥ……?」
「キュー!」
ぼむ、とコケ太郎がシグさんの背中にアタックした。
「うお!? いきなりどうしたコケ玉!?」
俺を締めつけていたシグさんの腕が、緩んだ。
マジか。でかした!? お前のへなちょこ──いやスペシャルヘッドアタック、思いの他効果が高いな!?
今度は押されて、俺は後ろによろけながらたたらを踏んだ。
シグさんは上体を屈めて、肩を大きく上下させながら、苦しそうな呼吸を繰り返している。
「…………シュ、テン、一発、俺の頭を──殴ってくれませんか、今すぐに、早く」
「おお?」
「目が覚めるような、やつを……思いきり……遠慮しないで、いいですから」
シュテンが、片眉を上げた。
「ふん? まあ、いいけどよ。歯ぁ食いしばっとけよ。いくぞおー」
シュテンが握りこぶしを作った。上腕金が恐ろしいほどに盛り上がる。……え。大丈夫なのか、それ。
────ゴオオォン、と寺の鐘が鳴るような音がした。
珍しくシグさんが呻いて、殴られた頭を押さえながらしゃがみこんだ。
「し、シグさん! だ、大丈夫か!?」
「……だ、いじょうぶ、です」
よろけながらもシグさんは立ち上がり、頭を何度か振った。立った。すげえ。俺だったらあの一撃拳で死んでる。
「おう。どうだ。目ェ覚めたかよ?」
「……はい。助かり、ました。────驚いて、あいつが引っ込んだ……気が弱ると、ダメですね……押さえが利かなくなって、あいつが起きてしまう」
まだ頭を振っている。上体がゆらゆら揺れている。
「どうしたどうした。らしくねえなあ」
「シグさん、本当、どうしたんだよ……?」
近づこうとすると、シグさんの腕がゆっくり上がり、俺に掌を向けた。
「────俺に、近づかない方がいいです」
「なんでだよ……!?」
あ、声震えた。情けない。しっかりしろ、俺。
「近づくなって。なんで。さっきから、なんなんだよ。俺、シグさんに、なにかしたのかよ?」
「……すみません」
「謝ってばっかりじゃあ、わかんねえよ! 理由を言えよ!!」
シグさんがまた沈黙した。
端で見ていたシュテンが太い腕を組みながら、鼻から勢い良く息を吹き出した。
「なーんかめんどくせえなあ。とっとと吐けやコラ。サクヤの言う通り、言わんと誰もわからんぞ!」
「言ってくれ。お願いだ。なんでもいいから。聞くから」
シュテンと俺に詰め寄られてもなお、まだ俯いて目をそらしている。そんなに言いたくないことなのか。
「言えやコラ! なんなら、もう一発、目ェ覚めるヤツをお見舞いしてやろうか? ああ?」
「いえ、それは結構です」
誰も言葉を発しない、発せない、なんとも言えない間が空いて。
シグさんが、疲れたようなゆっくりとした仕草で、腕のバングルに目をやった。
それから、疲労が滲む息を、長く吐きだした。
「……まだ、集合までには、時間がありますね」
俺も見てみる。まだ、あと40分はある。
何かを悩むように、考えるように目を閉じている。
次に目を開けた時は、何かを決めたような表情をして、シュテンを見あげていた。
「──シュテン。俺の代わりに──サクヤさんの事をお願いできますか?」
「んん?」
「えっ!?」
なんで、いきなりそんな話になってんだ。
「お願いできますか? だめなら、マツリさんに──」
「いや、そりゃいいけどよ。サクヤの面倒ぐれぇ俺がみてやるけど。ちゃんと理由を言ってやれや。サクヤが泣きそうだぞ」
「なっ、泣かねえよ! 泣かねえ、けど……」
シグさんを見上げると、俺を見て、何かを言いかけて──────止めて、目を伏せた。
「……わかりました。話します。──ここでは人目が多すぎて話しにくいので、移動しましょうか」
「おう」
「……うん」
俺とシュテンが頷くと、シグさんは歩き出した。