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小説とか創作とか

長い旅路の果てに

作者:神崎 創
 なろうでこうしたエッセイ風な文章を投稿するのは、これきりになるかもしれません。
 二十年超という長きにわたって趣味書きを続けてきて、同時に命題として追求し続けてきたことがあります。
 それといいますのは、

「小説(文章)を書くうえで大切なこととはなにか」

 という点です。
 この課題について、ようやく答えというか悟りというか、まあそんな感じの何かにたどり着きました。それをここに綴らせていただきたく、勝手を許されたいと思います。あまりにも長い時間がかかってしまったことを旅路に例えました。それがこの稿のタイトルです。
 答えというよりは悟り、といったほうが表現としては的確でしょう。
 答えといってしまうと何やらいかにも一般に知られている常識的なもの、というニュアンスを帯びてしまいます。そんなたいそうなものではありませんし、しかもこれから述べようとしているのはそれの否定に近い主旨のお話なのです。
 ゆえに「悟り」のほうが都合がよろしい。
 あくまでも私個人が到達し導き出した結論ですから、普遍性とか一般論とは切り離し、一個人の意見というスタンスを維持して述べたほうが無難だと思うのです。
 ですから、私も気をつけながら述べてまいりますが、以下の内容は決して誰かに押し付けたり、あるいは「べき論」として語るつもりは一切ないということを、あらかじめおことわりしておきます。
 では、何のためにこの稿をしたためたのか。
 その目的につきましては、おいおい文中で触れてまいります。



 私の素人書きの履歴的な話をとうとうと述べたところで詮がないと思いますので、可能な限りで省略させていただきたいと考えております。
 ただし、触れるべきところは触れておかねばなりません。
 私が「小説を書く側(以下、書き手)のあり方、ないしスタンスとはどうあるべきか」についてどう考え、年月を経てどう変化してきたか、という点であります。その先に、この稿の結論が横たわっているからです。
 まず、私が小説を書くようになったのはかれこれ二十一年ほど前(平成二十八年七月現在を基準)になります。
 きっかけは、愛読していたファンタジー小説の男子キャラがあまりにも不甲斐ないため、次第にイライラしてきたことに端を発します。そのうち「男のキャラはもっと男らしくあるべきだ」との思いが募り、ついには自分でそういう作品を書くことを決意するに至りました。当時書いた処女作の修正版をこのなろうにも投稿してありますが、この稿とは無縁ですので紹介はいたしません。
 当時はインターネットがほとんど普及していませんでしたので、現在のように書いてすぐ誰かに読んでもらう、という行為が一般的ではありませんでした。誰かに読んで欲しければ学校へ持っていくか、あるいは懸賞に応募するくらいしかなかったのです。
 つまり、自分の作品を公開する場、手段というものが極端に限られている時代でした。
 そういう状況下で書いていると「誰かに読んでもらうため」というよりも「自分の創造した世界を自分なりに表現する」ということのほうに重心が寄ります。自己主張が優先する、とでもいうのでしょうか。
 そしてまた、好き好んで文章を書いているような趣味書き人口も、決して多くはなかったように思います。
 趣味書きにとっては寂しい孤独の時代、といえたかもしれませんが、反面、第三者からの批判や指摘を受ける機会も稀だったため、どのように書こうと比較的自由だったという印象です。書きたいことを、書きたいように書けました。
 私の場合は幸いなことに通っていた学校に文芸部があり、学校祭で作品集を発行することが認められていました。前述のように当時趣味書きは珍獣のような存在なので、作品集を手に取った同級生たちは皆「へぇ、小説とか書くんだ。すごいね」という目で見てくれました。読み手の目というものを意識するに至ったのはこのときが初めてかもしれません。
 この「読んでもらえる」感動といいますか、高揚感をして、書くことを続けていくモチベーション維持につながったように今は思えます。さらには、顧問の先生が私の作品に目を留めてくださり「生徒児童作品の公募があるんだけど出してみないか?」と声をかけていただきました。これは佳作で終わりましたが、自分の文章に対する自信を深めるよい機会となりました。
 それから大学へ進学しましたが、大学にはたいていの場合、創作系のクラブやサークルが存在します。
 私も当然のようにそこへ加入して活動を始めましたが、このあたりのお話は省略させていただきましょう。
 といいますのも、この四年間は文章技能を深めることよりも、学生にありがちな「組織のあり方議論」に終始していた観が強く、強いてこの稿で語るべき内容をもたないからです。
 ただ、年に数回発行していた作品集は高校時代の輪転機印刷による手作り感百パーセントの冊子とは打って変わり、オフセットの本格的なものでした。書き手として相応の作品にしなければならないという責任感、あるいは誤字脱字は許されないという緊張感を経験する機会を得られたことだけは確かです。
 その後、大学を卒業して就職する頃というのが、本格的なパンコンとネット普及の時期でした。
 ほどなくブログが流行しはじめ、ブログによる小説公開がポピュラーとなりました。私ももれなくそれをやった一人です。
 この頃はどちらかというと「書きたいものを書きたい」という欲求によって小説を書いていたような記憶があります。それをちまちまインスタントのブログにのっけておりましたが、当然閲覧数などたかが知れています。女子高生のケータイ小説がブレイクした、などという話を耳にして「ケータイで小説とかどうなんだろう」という、やや批判的な意識をもっていました。ケータイ小説とそのグレードの是非はともかく、ネットというツールを得て趣味書き(自分以外の他の人も含め)のあり方が大きく変わってきたのはそのときではないかな、と今も考えることがあります。
 さて、公開する手段を得たことで読み手やアクセス数を気にするようになったわけですが、趣味書きの人達はインスタントのブログサイトにある「サークル」という機能を駆使してお知り合いを増やしていました。ただ公開するだけでは読んでもらう機会がないので、そういったところから少しでも作品を広める努力をしていた、ということになります。
 私もプロバイダが運営するサイトにブログユーザが集まるサークルがあったので、小説書きのそれを探して加盟しました。ここでお知り合いになり、大変お世話にもなったさる作者様がいらっしゃったのですが、今思えばこれを運命と呼んでもいいかもしれません。
 この作者様がかなり草創期の「なろう」ユーザだったからです。
 その方の作品にお邪魔した際「なんか変わったサイトを使っているな」と思い、試しに自分も登録してみたのがなろうとの縁でした。ですから、私もある意味ではなろうの草創期からいる人間だと思っています。
 決して懐古主義ではないつもりですが、しかし正直な心情を吐露しますと、この頃の活動が一番楽しかったのかな、と思わなくもありません。
 現在のようにSNSが普及していない時期でもあり、ユーザ同士のコミュニケーションは感想欄、個別メッセージで行われていました(初期の頃に活報機能があったかどうか、記憶が定かではありません)。そのほか、みてみんのブログ機能が集会所のように使われており、そこに混ざりこんでいくことで他ユーザとの交流を広げていったものです。
 さらにいいますれば、当時のなろうでは現在のような「公募」はあまり行われていなかったのです。あまりというよりも、ほとんどなかったといってもよろしいでしょう。良くない表現をご容赦いただけるなら、熾烈なデビュー争いとか蹴落とし合いなんていうのは発生する余地がなかったのです。ユーザ同士のもめ事そのものがなかったわけではありませんが。
 したがって、趣味書き同士が交流したり切磋琢磨し合える場として、なろうは非常に良好な状態にあったと私個人は考えています。もちろん、すべてのユーザがそうあったということではありませんので、誤解なきよう。
 私がだんだんと小説(もとい文章)の書き方について「べき論」を発するようになったことと、以後のなろうの変質とは無縁とは言い切れない部分があります。
 アニメや特撮ものの影響なのでしょうか、一次創作と二次創作の混在によってなろうが全体的に雑然としていく一方、ユーザの低年齢化がささやかれるようになりました。それ自体を望ましくないとは言わないまでも、コミュニケーションにおけるマナーやモラルの低下、あるいは文章の集合体である小説として果たして成立しうるかどうかきわどい作品が蔓延するようになりました。その状況を好ましく思えなかったのは、中途半端な二次創作の氾濫によって一次の良作が埋もれていっているように思えたからです。若年層ユーザが元凶であるとか、そういうことを述べるつもりはありません。ただ、必ずしもプラスのみに作用していたとは言い難いという私見、個人的分析をもっていました。
 そういった、私からみて「小説の体をなしていない」と感じた作品に対し、片っ端から批判のコメントをぶつけていった時期もありました。テストの答案の裏に漫画の落書きでもするような気持ちでなろうに作品を投稿して欲しくない、という感情があったことは否めません。私も、余計な正義感を発動したものです。
 なろうという投稿サイト、ひいては創作投稿サイトの秩序を維持するという観点において、小説に一定の形式が必要なのではないかという思想に傾いていった背景がここにあります。
 何と言いましょうか、べき論にこだわる心情の裏側には、ある一定のルールを至上と崇め、そのルールに則っている自分が正義(正統)であると信じたいという願望があるのではないかな、という気がします。もう少しいいますと、それを採用していない作品を目にした際に、その作者を自分より劣っているとみなしがちです。あるいは、一般的とされているルールを守っているという安心感、優越感を得られるということもあるでしょう。
 たとえば、他作者の作品を見たときに、改行の文頭ひとマスを空けていない、三点リーダーの打ち方がばらばら、だからこの人は小説の書き方をきちんとわかっていない、というような。この作法云々という議論はTwitterでも散見されます。
 ルール(作法)遵守者が陥りやすい自己優位的な意識を、私はかなり長い期間、ごく最近まで保ち続けてきたと思います。
 ルール、という言葉を出しましたが、ここで少し述べさせていただきましょう。
 ここでの意味合いは、文章ないし小説を書く上での一般的(と、されている)な原稿や文章の決まり的なものあるいは作法を指します。投稿サイトなどへ投稿する際のマナーやモラル、といったものは含まれません。
 率直に申し上げまして、原稿や文章ルールがどこまで学校で習い、どこまでが一般的であってその根拠はどこにあるか、などということは私にはわかりません。
 私個人に関していえば、できるだけそれらに忠実であろうと心掛けて文章を書いてきましたが、それは独学といいますか、文庫本を見よう見まねしてきたというのが正確です。歴史小説の某大作家の本でそうなっていたからそうした、というレベルです。
 これまでは、小説を書く人は誰でもそうした作法を守るべきだ、と考えてきました。
 独習で会得した者として「小説を書こうとする者は、多少の努力はするべき。絵描きはみんな練習を重ねて基本を学んでいるではないか。文章で成り立っている小説は基本的に自由だが、だからといってやりたい放題が許されるはずがない。脱作法論者は自分の努力不足を自由という言葉でごまかしている」という気持ちだったのです。Twitterで「ルールなんて必要なのか?」というような発言を読むたび「こいつに上達はあり得ない」と決めつけていました。
 が、今は考え方が変わっています。この変化が私の悟りの一部です。
 こんにちの私のスタンスは

「自分が書くときには、原稿や文章作法と呼ばれているものをできるだけ採用していきたい。長く書いてきた者として、その作法の重要性を頓に感じるところが大きいからである。
 しかし、そういった作法を取り入れるかどうかは書き手それぞれの意思に委ねられるものであり、他の作者もまたそれを守るべきだとは考えない。一般に言われているような作法が採用されていない作品を、それを理由におかしいとは思わない。
 ただ、個人的には、作法に沿って書かれている作品のほうが読みやすいと感じるだけである」

 やや長いですが、こういうことになります。
 最近はこの点に関する議論が散見されると前述しましたが、正誤の境界線がどこに引かれるものであるのか、根拠を示して正解を導くことができるのだろうかと、私などは疑問に思うようになりました。
 まあ、よしんばその根拠が示されたとして、だからといってそれが守られていない作品は小説の端くれにもならないのかといえば、そういうことでもないように思うのです。ですから、そのことだけを論って議論の応酬を重ねても、果たして価値がある行為なのかどうか、よくわかりません。
 小説などというのは、散文の形式をとって綴られた物語である、としか定義付けしようがないような気もするのですけれども。茶道や生け花みたいに、決められたことを守らなければ●●流ではない、という厳密さは小説には適用されないように思えます。
 ここからさらに話を積み上げることを許されたいと思います。
 どうして私がこれまでこだわり続けてきた作法へのこだわりを放棄するに至ったのか。
 もっと大事なことが、その先にあると考えたからです。
 これが私の悟りのもう一点です。
 要は

「書き手が、書きたいと思ったことを、思い描いた通りに文章によって表現することで、書きたいように書くことがたいせつである」

 ということです。
 小説に限らず、創作においていちばん大切なのはこれではないか、という結論に達しました。
 まず主張と表現、つまり作品ありきです。これが全ての土台ですね。
 細かい装飾(=作法)はあとから見直してみて、必要を感じたなら直せばよろしい。今はそれが容易にできる時代なのですから(注 紙と鉛筆の時代と比較してのことです)。
 原稿、文章作法を「化粧」に例えます。
 化粧をしなくても外出することはできますし、しなければならないということはありません。
 ただ、TPOに応じ、化粧をしたほうが望ましい、あるいは便利な場合もある。一方で「お前は化粧があってこそお前だ」というのはおかしいでしょう。このあたり、世の女性たちから同意していただけるものか、どうか(笑)。
 そして、自宅にいるときまで化粧をする必要があるのかどうか。普通なら、しなくても良いのではないかと思うのですが。
 あくまでも、すっぴんか薄化粧か厚化粧にするかは本人の選択による。
 化粧の話はさておきましょう。
 書きたいように書くことが大切だと述べますと、ある種の反論があろうかと予想します。

「いや、小説は結局のところ、読み手に読んでもらってこそ意味がある。だから、書き手が書きたいように書くのは結構だが、それがために読み手に伝わらなかったら意味がないだろう」と。

 それもその通りです。
 そう考える方もいらっしゃってよろしい。私もどちらかといえばこの意見の理解者です。
 しかし。
 だからといって「そうでなければならない」とは、私は考えません。
 書き手の思い本位で書くのか、読み手を考慮した文章を書いていくのか。
 それは書き手が書くときに決めることであって、べき論にしてしまうと両者の見解の応酬が無限ループするだけのような気がします。これまた、価値がある議論だと思えないのです。
 強いていいますと、前者の立場で書いた書き手が「アクセスが増えない。読んでもらえない。これはおかしい」と言い始めたときに、初めて「ん?」と思います。言いたいことを言いたいように言うからには、それを受け入れてもらえない(あるいは反発をかう)かもしれないリスクがある、ということだけは理解しておいて損はないんじゃないかな、と考えます。が、別にそのことを他の作者様に力説するつもりはまったくありません。私ならそう考えるという、それだけの話です。
 私個人が「べき論」という色眼鏡で創作をとらえ、他作者様の作品を拝見し続けた結果、何を得られたかといえば何も思いつきません。いたずらに仕分けを繰り返したに過ぎなかったのでは、という気すらします。もしこの行為によって自分にぴったりな作品と出会う機会を逸していたとしたら、それはとてつもない大損をしたということになります。
 そしてまた、自分自身に「べき論」という枷をはめたことによって、個性というカラーを最大限に発揮した作品を書けずにここまできたとすれば――かなりの長い時間を、私は棒に振ったことになります。
 あり方論議に頭を悩ませている間というのは、得てして創作は進みません。
 創作は発想、創造力の産物なのですから、ちまちまとした議論に精魂を傾けてしまっては、出てくるものも出てこなくなってしまいます。
 そういう自分のあり方を大いに反省した結果、そこから今までとは異なった考え方が導かれました。

「一人でもいい、できることなら一人でも多くの書き手の背中をそっと押してあげられるような文章を書く」

 何を世迷いごとを、と思われても別に構いません。
 どうせ書くのなら、自分だけでなく自分以外の誰かのためになるような文章を書き、もしもそれを読んでもらえて「ああ、書く元気が出た」と思ってもらえたなら、それがいちばんいいことだと思うのです。
 他者のあり方や書き方に対する批判や反論を繰り返しても、得られるところは少ないのではないかと考えました。傷つけあったところでお互いに嫌な思いをするだけですし、私が書いたものを読んだ方が「やる気がなくなった」と思ってしまったら、その文章の存在意義って何だろうって思うのです。
 先日、お知り合いの作者様に紹介をいただいて拝見した文章がそういうものでした。
 書かれた方はきっと、どうしてもご自分の意見を強く主張したかったのだと思います。色々と深いところまでお調べになった形跡があり、それはそれで論理の裏付けとして悪くはないかなという印象です。
 ですが、拝見していてどうも不快な気持ちになっていくのを押さえられませんでした。「これでもか、これでもか」とばかりに意見を押し付けてくるかと思うと、主張と相容れない考え方を汚い言葉で罵っていくのです。書かれた方は「言葉に遠慮はしないので」とことわってありましたが、言葉に遠慮をしないのと汚い言葉を使うのは別ではないかな、という気がしました。
 この文章を拝見して、思ったことが二つあります。
 ひとつに、こうした、読み手を嫌な気持ちにさせるような文章を、実は自分も書いてきたのではないか、ということ。人の振り見て我が振り直せ、とはよくいったものです。このことに気付かせてくれたという点において、かの文章と作者の方には感謝しております。
 もうひとつ、誰かを非難し傷つけ、読み手を嫌な気持ちにさせるような文章よりは、読み手を勇気づけたり元気にさせられるような文章のほうがよほど価値がある、ということです。
 エッセイはともかく、小説ならなかなかそういうものは書きにくいかも知れない。
 だからこそ「書きたいことを、書きたいように書く」という根本が大切になってくるのではないかな、と考えたのです。
 そしてまた、できるだけ多くの読み手に「ああ、なるほど」とわかってもらうためには、やはり最大限にわかりやすく書くほうがいい。わかりやすく書くということは簡単なようで難しい。読み手にわかりやすく書けるということは、それだけ書き手の技量があるという裏返しでもあります。
 繰り返しますが、他の作者様もそうあるべきだ、とは述べておりません。
 私自身が、これからはそういう方向を目指して文章を書いていこうということなのです。
 読んでくれた方に「ああ、良かった」と思っていただけたなら、書き手冥利に尽きるというものです。書き手も読み手も満足できたなら、それがいちばんいい状態なのではないでしょうか。
 残された時間を、そういう文章を書くことに費やしていきたいと思います。


 そろそろこの稿を締めねばなりません。
「べき論」を放棄したことで、意外な効果がありました。
 固定観念を捨てた結果、他作者様の作品で粗探しをしなくなりました。そのため、ぐっと読みやすくなったのです。もちろん、フィーリングの合わない作品もありますけれども、そういうときはすっと回れ右をすればよいのです。
 かつ、自分自身もずいぶんと気持ちが楽になり、書きたいと思ったことを思ったまま書けるようになりました。
 一時は断筆する決意でいましたけれども、今までとは違った角度や方向性の文章を書いていけるかな、というところまで気持ちが回復できました。今は、どこまで読み手にわかりやすい文章の小説を書けるか、目標をもってトライしている最中です。
 大事なことを書き忘れていました。
 私は過日、活報においてぼちぼちと執筆から離れようと思っている旨のコメントをしました。
 これに対して、ご心配をおかけしたりメッセージをいただいたりしたのですが、それら作者様方へ「今はこのようになりました。別の境地に辿り着きました」という、いわば生存報告のような現状報告のような、そういうなにかを御礼の気持ちも含めて書き綴ったのがこの稿です。
 なろうでの活動は終息する、という点に変わりはありませんけれども、別のステージにおいて自分が考えついた自分の使命とあり方を試してみたいと思っております。
 激励とご支援を賜った作者様方へ、深い感謝の念をこめつつ。

 お目通しくださりありがとうございました。
稿の趣旨を鑑み、感想は謝絶いたします。

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