名無しのメッセージ。
年間放射線量の低い居住制限区域に借家のある僕らは、比較的立ち入りしやすい身分だった。
なので何度も、立ち入りした。
だけどその都度いろんな障害があり、いろんな問題が立ち塞がった。
あまりにも問題ばかりだったので、そのうち問題があることが当たり前だという気になって、感覚はどんどん鈍くなっていった。
そういった意味では一番最初が、一番印象深かった。
道の駅ならは。
職場のあった第二原発。
ぼらぐち商店。
セブンイレブンとガソリンスタンド。
海遊館別館。
パチンコニューグランド。
ツルハドラッグ。
うなぎの押田。
スーパートムトム。
富岡警察署。
誰もいない街並みは、ひたすら静かだった。
風の音しかしなかった。
侘しさを感じながら、車を走らせた。
やがて借家に着いた。
なにせ古い木造家屋だったから、ぺしゃんこに潰れているのではないかと心配していた。
実際に現地についてみて驚いた。
まるで何も起きていないかのように、借家はそこに建っていた。
窓ガラスが割れているでもない。柱が傾いているでもない。
本当に、最後に見た時のままの格好で、それらはそこにあった。
仙台に出かけた、あの日のままだった。
玄関を開けて中に入れば、今すぐにでも元の暮らしが出来るのではないか、束の間本気で、そう思った。
中に入って、改めて衝撃を受けた。
あらゆるものが倒れていた。
あらゆるものが散らばっていた。
泥棒が引っかき回したとか、そんな生易しいもんじゃない。
壁に固定されていない、あらゆるものが床にぶちまけられていた。
かてて加えて、目に見えない放射線の存在がある。
それらはその瞬間も刻々と、僕らの身に降り注いでいるはずだった。
ふう……我知らず、ため息が漏れた。
足元がふらついた。
「○○ちゃん、頑張って」
僕の心底を察した妻が、そう言って背中を叩いてくれた。
弾かれるように、僕は作業に移った。
作業内容は単純なものだった。
今すぐ必要なものとそうでないものとに分ける。
必要なものを段ボールに入れ、何が入っているか名前を書く。
そうでないものは一か所にまとめ袋に詰め、あとで処分しやすいようにする。
それだけ。
それだけなんだけど、とても疲れた。
だって、考えてもみてくれ。
それらはつい先ごろまでは、片付ける必要がなかったものなんだ。
あと数年か数十年か、そんな先まで移動する必要がなかったもので、捨てる必要のなかったものなんだ。
あーあって、思った。
全部、ダメになっちゃったよって、そう思った。
思いながら、作業してた。
床にCDが落ちていた。
お気に入りのバンドのCDだった。
持ち上げたら、黒い丸っこいものがついていた。
鼠のフンだ。
人間がいない間に繁殖し、住み着いている新たな支配者。
彼らの生の痕跡が、付着していた。
悲しくなった。
こんなにも人間は無力なものなのかって、今さらながらに感じた。
必要な荷物を車に積むまで二時間弱。
僕らは迅速に借家を出た。
線量計の積算数値にはまだまだ余裕があったけど、僕は妻に、それ以上の負担をかけたくなかった。
帰り道、富岡駅に寄った。
骨組みと屋根、それしかなかった。
海までずっと、見晴らしよかった。
以前よりもずっと、よくなってた。
再び、うなぎの押田に差し掛かった。
そこには歩道橋がかかってた。
歩道橋に、横断幕が張られてた。
交通法規の隣、制限時速50キロの表示の隣に、白地に黒で、こう書かれてた。
富岡は負けん!
って、書かれてた。
びっくりマークの下の点は、富岡町のシンボルである桜になっていた。
明らかに、震災後に張られたものだった。
その瞬間の衝動は、筆舌に尽くしがたい。
身の内からこみ上げるものがあって、僕はしばらく、車を止めていた。
妻は何も言わなかった。
無言のまま、僕がアクセルを踏むのを待っていてくれた。
アクセルを踏みながら、僕は思った。
若さだなって、思った。
若くなければあんなことはできないし、言えない。
その若さが、羨ましかった。
その率直さが、羨ましかった。
そうだよなって、思った。
心底、納得できた。
若さってのは、強く柔軟で。
そうさ、震災なんかに、負けやしない。