時は流れる。
5月後半のことだ。
僕は職を辞し、東京に移動した。
理由はいくつかあるが、ここで言うのは避けたいと思う。
ただ僕は、秋田でも福島でもなく、東京で生きることを選んだ。
そういうことだ。
その決断は、僕にとっては清水の舞台から飛び降りるようなものだったが、妻の反応はあっさりしたものだった。
平然と僕を見て、こう言い切った。
「○○ちゃんが行くところなら、どこへでも行くよ。ふたりで○○家だからね」って。
まだ少し悩む僕を、笑顔で救ってくれた。
僕らは東京に出た。
石神井のウィークリーマンションに2週間ほど住まい、その後は東京の……ご迷惑をおかけすることになるかもしれないので地名は避けるが、被災者支援をしてくださっていたある大家さんのマンションに住まわせてもらった。
1年間家賃は無料。その後は相場の半額ほどの家賃になった。
今はマンションを出て別の家に住んでいるが、あれはありがたかった。
就活自体はうまくいった。
職場は近く、いい人たちばかりで、すぐに打ち解けた。
一緒に旅行に行ったり、マラソン大会に出たり、お酒を飲んで騒いだり。
とにかくとても、楽しく過ごさせていただいている。
被災した借家への立ち入りも行った。
手順は簡単だ。
指定されたスクリーニング施設に自家用車で向かい、様々な手続きを行う。
自らが被災者である証を立て、行き先を告げ、放射線防護装備を受け取って自宅へ立ち入る。
制限時間内に戻り、放射線防護装備を返却し、車や持ち出し品のスクリーニングを行う。
規定以上の放射線反応があった場合はただちに除染する。もしくは持ち出せない。
放射線防護装備は、タイベックというツナギのような服にゴーグル、マスク、手袋が2枚、足袋が2枚。これらを隙間なく結着するというものだった。
手袋足袋が2枚なのは、家へ辿りつくまでにつけていくものと、中で活動するものに分けられているからだ。
最初は2枚とも装備していき、玄関で上にあるほうを外してその場に置いて、また帰るときにつけるという手順だ。
重さこそないが、これだけ重ねると、装備はけっこうな分量になる。
当然暑い。
エアコンの効かない密閉された室内で作業をすると、すぐにゴーグルに汗がたまって目が痛くなる。立ち入りするなら、夏だけは避けたほうがいい。
空気中の放射線を測定するガイガーカウンターも持たされた。首から下げ、空間線量が基準値を超えると音が鳴る。
僕らは東電から渡されるもの以外に別個に、自分たちで購入したガイガーカウンターも持って行った。
いままで何度も立ち入りしたが、特別大きな数字を記録したことはない。
ちなみにこれは、最も厳しい時期の装備であり手順だ。
今現在はもっと省略されている。
空間線量が下がったからという話だが、僕はそうは思わない。
たぶんみんな、ルーズになったのだ。