無力だ。
3月13日から5月の後半まで、2か月間を秋田で過ごした。
大学の休み以来の、実家でのひさしぶりの長逗留だった。
自宅待機を命じられていたので仕事はなく、果たすべき目標は何もなかった。
ゆっくりと、虚ろに日々は過ぎて行った。
ガソリンや食料は、変わらず制限が続いていた。
だけど生活に困るようなことはなかった。
物にこだわりさえしなければ、贅沢さえしなければ、生きていくのに支障はなかった。
僕らの時が止まっている間にも、世間は目まぐるしく移ろっていた。
原発のニュース。
各避難所の様子。
津波や大火事。
何度も何度も繰り返し見た。
秋田の地元の友達。
会社の人や、福島出身である妻の親戚、友達。
多くの人と連絡をとり合った。
僕は当時、ネトゲのFF11をやっていたのだけど、そちらのフレンドの人たちも心配してくれていた。
被災した多くの人が、避難所暮らしを選択していた。
福島ビッグパレットなどの公的な機関。
福島県内の温泉施設やホテルなどの、一般の機関。
多数の人でごった返す中、不自由な暮らしを強いられていた。
僕らはだから、やはり幸運な方だったのだ。
みんな、色んな体験をしていた。
家が流され、柱しか残らなかったという同僚。
原発から数キロの道のりを、被ばくしながら歩いて帰ったという女の子。
元請け企業の人が、消防団の車ごと流され、帰らぬ人になったという話も聞いた。
ある時、珍しい人から電話がきた。
彼は僕の空手の師匠であり、会社の後輩でもあった。
僕らは仲が良くなかった。
業務上で何度もぶつかった。
一度だけだけど、取っ組み合いのケンカになりかけたこともある。
だから僕らは、仲が悪いのだと思っていた。
用件は簡潔だった。
福島県内のスクリーニング施設で放射線被ばくの数値を測定したそうだ。
その数値を教えてくれた。
……今思い返してみても身の毛のよだつような、それは凄まじい数値だった。
スクリーニングの担当者が数値を告げると、周りのみんながざわめき、離れて行ったそうだ。
彼の周りに、空白ができたそうだ。
僕は一瞬、答えに詰まった。
突然、末期ガンの患者だと告白されたような気分だった。
「そうか……」って、何度か言った。
「これからどうするんだ?」って、聞いた。
彼は、「どうしようもない」って、虚ろに笑ってるだけだった。
あとはもう、「頑張れ」という他なかった。
あれほど虚しい「頑張れ」もなかった。
僕は文章が好きだ。
言葉が文字が、時に人を救うことがあると知っている。
だけどあの時、きっと僕の言葉は、彼を救えなかった。
生まれてこの方、あれほど自分が無力だと思ったこともない。