妻は手を合わせてた。
仙台から陶芸の杜おおぼりまで、半日かかった。
平常時なら2時間の距離を12時間、本気で倍の時間がかかった。
その間、休息はほとんどとっていなかった。
当然体は疲れていたはずなのに、まったく眠くなかった。
頭だけが冴えてた。
毛布にくるまって夜が明けるのを待ちながら、妻と色々なことを話してた。
僕らの生活のこれまでについて。
僕らのこれからについて。
僕らの周りにいた色んな人たちのことについて。
話さなければならないことはいくらでもあった。
彼女はいつも通り賑やかで、前向きで、怯えも泣きもしなかった。
ふたり一緒でよかった。
単純に生死安否のことだけでなく、その時その瞬間、彼女と一緒にいられる幸運に感謝した。
明るくなってから、借家までの道を探った。
道の崩壊はいよいよ明らかとなった。
メルトダウンの危機も迫っていた。
僕らは早々に、先を行くのを断念した。
浪江のお義父さんのところへ戻った。
お義父さんはまだ寝ていた。
さすがだなと僕は思ったが、妻は呑気すぎると怒っていた。
そんな折、町のスピーカーが鳴った。
最初は原発3キロ以内の避難、すぐに10キロ以内の避難が告げられた。
お義父さんと、車2台で逃げた。
こみ合う大きな道は避け、仙台からの脱出行で使った道を逆にたどった。
原町の道の駅で、お義父さんと別れた。
相馬の友人のところへ行くと言っていた。
またふたりに戻った僕らは、だけど避難所には向かわなった。
会社から自宅待機を命じられたこともあり、メルトダウンの危険も鑑み、秋田の実家へ帰ることに決めた。
福島市への山間を抜ける115号線を通っている時、自衛隊の車両とすれ違った。
県外から派遣されてきた車両だった。
何台も何台もすれ違った。
どんな任務を負っているかは明らかだった。
どんな危険が待ち受けているかもわかってた。
その都度、妻は自衛隊の車両に手を合わせてた。
その都度、同じ事を言ってた。
日本を頼みますって、そう言ってた。
その瞬間まで、僕はずっと泣かずにいたのだけど、とうとう堪えられなくなった。
あとからあとから涙が溢れてきて、止まらなかった。