4 LOST(1)
(言えない。前書きのネタが無くなったなんて……言えない言えない……)
その男は、これまでの人生に『目的』というものをもった事がなかった。ただ流れに任せて小中高と名門校をトップで卒業し、そのまま大学へ進んだ。もちろんそこでも全ての学科で成績はトップだったし、教師からも生徒からも慕われた。そして、大学を卒業し、やりたい事もなくいわゆる『一流企業』と呼ばれるようなの会社に就職した時、温室で育った男は『社会の厳しさ』というものを知る。年下に小突かれ、上司に貶され、毎日何かしらのミスをして、その度に怒られて。男は初めて、自分が『無能』であることを知った。
そして次第に、男は目的をもつ様になる。自分を見下した人間全てを、見返してやると。
何年かして、男は会社の幹部にまでのし上がる。あと少し。もう誰にも自分を否定させない。今に見てろと。
ある日、男は社内会議に出席する様言われた。今後の社の運営方針や、前年度を大きく下回る株価について、幹部全員と社長、そして社長令嬢を加えて話し合うのだという。
次の日、早く着きすぎてしまった男が会議室の椅子に座って時間を潰していると、会議室の扉が開かれる音が聞こえた。入ってきたのは見慣れない二十代前半の女性で、話を聞いていくうちに社長の娘である事がわかった。男にしては本当に珍しく、何の警戒心も持たずに娘と話した。落ち着いた雰囲気で、久し振りに気が休まった気がした。
その僅か半年後に、男と娘は結婚をする。男は何かしら運命めいたものを感じずにはいられなかった。男の頭の中にはもう、『自分を見下した人間全てを見返してやる』という、以前の目的は失われていた。男は憑き物がとれた様に明るくなり、娘と楽しく暮らしていた。
何年かそんな日々が続いた後、仕事中の男の携帯に電話がかかってくる。それは娘からで、娘のお腹の中に子供がいると知った時の男の喜び様は凄いものだった。
男は毎日が幸せだった。しかし、出産予定日まであと一月程になった時、男は無情にも思い出すことになる。自分は、無能だという事を。
ある休み明けの朝、出社すると、社員達が男を見て笑いを堪えていた。部下達も、上司達も。しかしその時は然程気にも留めずに、仕事を終えて自宅に帰った。しかし、家中のどの部屋にも明かりはついていない。男は不審に思ってリビングへ向い、ドアの横にあるスイッチを押す。誰もいない。二階へ上がり、自分の部屋の明かりをつける。誰もいない。娘の部屋へ行き、ドアを開けて明かりをつける。娘はいない。時刻は十一時を過ぎており、どのスーパーも閉まっているため、買い物ではない。
ふと、寝室を見ていない事を思い出す。疲れて寝ているだけかもしれない。男は寝室の扉を開けて中を覗く。しかしそこにも娘の姿はない。警察を呼んで捜索願を出そうかと携帯を取り出したが、ベッドの上に何か黒く細長い物が落ちている事に気が付く。明かりをつけてベッドに近寄り、それを右手で持ち上げて確かめる。靴下だった。しかし男はそれが娘の物でない事にすぐに気が付く。男物だ。真っ先に不倫を疑ったが、それが間違いである事に気付かされる。ベッドと向かい合わせに置いてある、薄い液晶テレビ。その下のDVDプレーヤーの上にあったパッケージ。それを見て、男は大声で叫んだ。自分を見下した連中を見返すために幹部職にまでのし上がったが、それでクビになった元幹部職員も少なからずいて、男に自分達が味わった以上の怒りと絶望を味あわせてやると結託し、こういう形でそれを実現した。男は忘れていた会社への憎しみを再燃させ、左手で見慣れた女性が映る肌色のパッケージを握り潰し、誓った。
全てを暴く力を手に入れて、奴らを徹底的に壊してやる。
◆ ◆ ◆
何もない空間に、悪魔は佇んでいた。上も下も右も左も前も後ろもない。色もなければ音もない。人間の感覚では理解できないセカイ。そこに棲む者達__実際には彼らは実体というものを持たないのだが__を、人間は『悪魔』と呼び、ある時には恐れ、またある時には崇拝する。人間達がここを地獄と呼ぶのは、理解できないからだ。これは人間以外の生物にも共通する事だが、恐怖とは、理解できないから感じるモノなのだ。それがたとえ同じ種族であっても、考え方や行動が違えば、多かれ少なかれ恐怖を感じるだろう。そして人間は、それを自分の都合の良いように解釈する。そのため、この何もない空間に対して、人間は業火を見たり、或いは針山を見たりするのだ。
「やぁやぁ、お久しぶりだねぇ、アンちゃん」
直接響く声。それは思念と呼ぶモノかも知れない。
何もない空間にもう一つ、別の何かが現れる。アンちゃんと呼ばれた悪魔が、後から来た悪魔に無愛想に言う。
「そんな風に呼ばないでくれる?不愉快なんだけど」
「つれないねぇ」
飄々とした態度で近づく。胡散臭い笑みを浮かべながら、アンちゃんに話しかける。
「ん?あれ、喚ばれてもないのに契約してるの?アンちゃん暇なの?」
「アンちゃんって呼ばないでよ。きみとも被るじゃない」
ああ、そういえば、と興味なさそうにしながら、顔を覗きこむ。
「で?どう、契約者」
ニタニタと笑いながら問いかけるその様は、確かに悪魔と呼ぶのに相応しい。
アンちゃんはフンと鼻を鳴らして、その悪魔に言う。
「きみこそ契約してるみたいだけど?どうなのダンちゃん」
アンちゃんなどと呼ばれ少し腹が立ったのか、馬鹿にしたようにダンちゃんと呼ぶ。しかし当のダンちゃんたらいう悪魔は、そんな事は気にもせずに答える。
「んはは、中々面白い人間でねぇ。どんな絶望なのか、今から楽しみだよ。で、そっちはどう?」
「さあね」
問いかけを無視してこの空間から出て行こうとする。行くのは恐らく、契約した人間の所だろう。
やれやれと溜め息をつく。
「随分と丸くなったモンだねぇ、アンドラス」
アンドラスと言う名の悪魔は、振り返って言う。
「きみは相変わらず五月蠅いままだね、ダンタリアン」
◆ ◆ ◆
叶が一度家に帰った時刻が午前四時半。当然、両親はまだ起きておらず、空き巣にでも侵入する様に静かに入った。夜中に家を抜け出したなんて知られたら、面倒な事になるのは間違いはない。物音を立てない様に階段を上がり、二階にある自分の部屋に入る。そっと扉を閉め、証明のスイッチを押して明かりをつける。入って右側に勉強机、その手前に親が買ってきたまま結局一度も開かれていない参考書や漫画が置いてある、少し大きめの本棚がある。勉強机の左端には、親友の結月との写真が立てかけてある。机の向かい側、つまり、入って左側にクローゼットがあり、制服などの衣類が閉まってある。そして机の奥、窓際にベッドが置いてある。十数時間出ていただけなのに、何年か振りに帰って来たような気分だ。
部屋着に着替えてから、ベッドに寝転ぶ。すると、何故か急に冷静に__今の今まで冷静といえば冷静だったが、普通の考え方ができるようになってきた。
……人を、殺した。三人も殺してしまった。何もしていない人間を、ただ見られたという理由だけで、三人も。毛布にくるまってカタカタと震える。何かが重くのしかかり、今にも押し潰されてしまいそうだ。あの時……悪魔の力を使い、人を殺した時。叶は何も感じなかった。躊躇いはもちろん、焦りも、怒りも、何も。冷徹に、残酷に、しかし普通にただ『殺した』。あの時はその事に何の疑問も抱かなかった。
やはりもう、自分は人間ではないのだ__と、叶はギュッと毛布を握り締める。
「でもそれは、きみが望んだ事だろう?」
突然話しかけられ、ビクッとベッドから跳ね起きる。いつからいたのか、部屋の中央に悪魔が妖しく微笑みながら立っていた。叶は毛布を両手で手繰り寄せ、胸元に押し当てながら、震えた声で言う。
「そ、そう、だけど。でも」
「きみが望んだんだ、人間。殺すための力が欲しいと」
少し叶に近付いて、悪魔が言う。
「だからぼくはそれを与えた。でもそれを受け入れ、使ったのはきみだ。全部きみのやった事だ。でもきみは後悔なんてしていないだろう?今だって震えているフリをしているだけで、心の中では__」
「うるさい、違う!私はあんたとは」
「でも、もうきみは普通じゃないよ。人間じゃない。きみが殺した人間達、死ぬ直前に何を思ったかなぁ?『自分が何をした』……って思ったんじゃないかな?あれ?それってきみと同じ」
「ああああ!違う、違う!私をあいつと一緒にするな!」
夜中だという事も忘れて叫ぶ。しかし悪魔はやめない。ゆっくりゆっくりと、人間を絶望の淵に追いやり、その魂を自分のモノにしようとする。
クスクスと悪魔が笑う。
「同じさ。ほかの人間から見れば、きみはあいつと同じ殺人者だ」
やめろ。叶がこころの家で呟く。
ニタニタと悪魔が嗤う。
「きみはただの"狂った人殺し"だ。ほら、もっとだ。抗わないで受け入れて。まだ足りない。そうでしょう?」
違う。私は違う。そんなんじゃない。私は__
気が付けば東の空が白んできていた。あれだけ大声で叫んだのに、両親は叶の部屋には来なかった。もしかしたら、悪魔が魂に触れている時はどれだけ叫んでも声が出る事はないのだろうか。ジッとベッドに腰をかけたままにしていると、だんだんと頭の中心から冷えていくのがわかった。一度伸びをしてから立ち上がり、深く深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
コンコン、と部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「叶ー。起きてる?文化祭でしょ?熱、まだあるようなら今日も休む?」
ノックの主は母親だった様で、叶に登校するかどうか聞きに来たらしい。因みに、昨日休んだ時は『熱がある』と嘘をついていたのだが、今の今まで忘れていた。
そういえば今日は文化祭だったか……とクローゼットの方を見る。中には衣類の他にも、非常用の缶詰などが入っていて、出ようと思えば今すぐにでも出て行ける。こんな状況で文化祭なんて行ける訳がない。……そうだ、そんな事をしている暇はない。
「叶ー?起きてるー?どうするの?」
母が扉越しに声をかける。叶はクローゼットを開けながら、それに答える。
「起きてるよ。今日は行くから大丈夫」
もちろん、嘘だ。クローゼットの奥から大きめのリュックサックを引っ張り出し、それに着替えや金、缶詰などを放り込む。リュックサックを窓際に置いてから、学校の制服に着替える。文化祭なので、学生鞄は必要ないだろう。窓の鍵を開けて、いつでも戻って来れるようにする。
そして机の上の結月との写真が見えないようにうつ伏せに置いてから扉の前まで行き、一度部屋をぐるりと見わたす。もう戻る事はないだろう。ガチャ、と扉を開けて部屋から出る。左目をぐり、と押さえてから、自分の中の望みを膨らませる。
殺人者は殺人者らしく、あいつを殺そうじゃないか。
◆ ◆ ◆
叶と結月の出会いは、一言でいうなら『最悪』だった。今でこそ互いを親友として認識しているが、初めて顔を合わせた当初は全く逆だった。
小学三年の時に叶が引っ越してきて、結月の隣の席になった。そこまでは特におかしいところもない。しかし叶は今と違って臆病で、まともに他人と話す事ができなかった。そして結月はそういうのが嫌いで、よくある話なのだが、次第に叶をイジメる様になっていった。上履きや机に落書きしたり、体操服をゴミ箱に捨てたり、筆箱やノートを壊したり……。結月はクラスの女子グループのリーダー的な存在確認だったので、まさに多勢に無勢、叶はされるがままになっているしかなかった。
しかしある朝、登校してきた結月の頬には小さな青アザがあった。本人は「階段で転んだ」と言っていたが、叶にはすぐにわかってしまった。あれは殴られてできたものだと。上級生が結月の態度が気に入らなかったらしく、それから結月は毎日の様に放課後になると後者裏に呼び出され、アザだらけになって帰っていった。それをクラスの人間に知られ、教室内での結月の株もどんどんと下がっていき、相手が上級生というのもあり、誰も結月を助けようとはしなかった。
ある日、いつもの様に結月が上級生に呼び出された時、「明日までに二万持ってこい」と言われた。当然、そんな金など持っている訳もなく、拒否しようとしたが、上級生は関係ないとばかりに結月に殴る蹴るを繰り返し、「持ってこれないならこんなんじゃすまないぞ」と脅した。結月は痛みを堪えながら頷き、その日はそれで帰してもらえた。帰る道すがら、偶然それを見ていた叶が結月に話しかけた。
「渡さなくてもいいんじゃ……ない?」
そんな事はわかってる。しかしそうしなければまた殴られる。結月は叶を無視して家の方角へと進む。今までイジメてきた相手に慰められて、悔しさと情けなさで心がいっぱいになった。
「ねぇ。一緒に……やめてって、行こう……か?」
ふと、叶がそんな事を言い出す。カァッ、と頬を紅潮させて、結月が激怒する。
「あんたなんかの助けなんか要らない!チビでブスは黙っててよ!」
そう言って叶に背を向けてあるき出す。
しかし、その後に叶が結月に言った言葉は、今でも耳に残っている。結局次の日、叶は勝手に湯付いていって、二人してボコボコにされて家に帰った。どこにでもある様なつまらない友情誕生話だが、その一件以来、叶と結月は常に一緒にいる。
「……はは、あんな昔の事なのになぁ」
学校に向かう途中、急にふと昔の事を思い出し、懐かしそうに笑う。熱が出たとかで昨日一日学校を休んでいたが、今日は来るのだろうか。あれだけ準備しておいて風邪で休んだりしたら、今度パフェでも奢って貰うしかないな。それも駅前のレストラン一、値段が高いやつを。なんて考えながら交差点で信号を待っていると、向こう側に見慣れた髪型を見つけた。
(お、今日は来るんだ。パフェを奢ることにならなくてよかったな叶……あれ?)
しかし叶は学校とは反対方向へと歩いて行く。服装も制服ではなく、黒いズボンと白いパーカーにマフラーを首に巻いている。しかも背中には大きめのリュックサックまで背負っている。文化祭は学校行事のため、生徒は制服着用でないと入れてはもらえないのだが……
(まさか叶がグレてヤンキーに……そりゃ大変だ、連れ戻さないと!)
信号が青に変わると同時に、叶が歩いて行った方角へと走る。しかしどこかで脇道に逸れたのか、見失ってしまった。
(あーもう、相変わらずすばしっこいなぁ)
髪をぐしゃぐしゃと掻き上げて、携帯を取り出し叶の番号にかける。数コール鳴らしたが、やはり出ない。少し考えた後、結月は学校に電話を入れ、遅れる事を伝えた。
叶探しを再開し、人混みの中に入っていく結月をビルの上から見下ろす影が一つ。狼が新しい獲物でも見つけたかの様に、悪魔は獰猛に笑っていた。
なんだかんだ進んでそうで進んでない気がする、需要のない女子高生の復讐劇。LOST(2)に続きます。