三
「これがおれの、死にかけたかもしれない経験です。でも残念ながら、恐怖心は覚えていません」
話を進めながら、武彦は幼い日の出来事を思い出した。当時は恐怖心に何日も包まれていたのに、いつの間にかすっかり消えてしまった。人は知識が増えるにつれて、闇に対するいいしれない恐怖を失っていくのだろうか。
武彦はカーテンを閉め、ソファーに腰かけた。
「家の人には話したの?」
「両親にはさんざん心配かけましたからね。変なことを話して、これ以上心配かけたくなかったんです。もちろん友達にも話しませんでしたよ」
無事に帰宅した日、武彦は熱を出して数日寝込んだ。両親は気を使ったのだろう。下がってからもどこで何をしていたのか、訊こうとはしなかった。
今では武彦自身、あのことを夢だと確信している。雪路で迷ったとき、たまたま鍵のかかってなかった山荘に飛び込み、ひとりで夜を明かしたのだろう。そのとき見た夢と、母から聞かされた話がつながり、物語を作ったに違いない。
「金縛りも雪女も、夢だったんですよ」
世話をしていた犬がどうなったのか記憶にない。だれかに拾われたか、もともといなかったか。それも定かではない。
「現実じゃなかったってこと――」
武彦は何気なく、ソファに座ったまま俯いているゆきに視線を移した。長い髪が落ちて、顔を隠していた。
それを見たとたん、武彦の背筋に冷たいものが走った。
部屋の気温が一気に下がる。吹雪の音が、静かな室内で大きく響いた。
「ゆきさん……?」
「……のね」
「え?」
地の底から響いてくるような低い声だった。
「とうとう話したのね。あれほど、話さないでって頼んだのに」
先ほどまでの親しみやすさは消え、刺すような冷気を放つものが目の前にいた。
近寄りがたい存在に変貌していた。いや違う。近寄れない。恐怖。畏怖。人外。
武彦の中に潜む、原始的な感情が呼び起こされる。
「ゆきさん、冗談は……」
「だれにも話さないでって言った約束を、あなたは破った」
雪のように白い手が、ゆっくりと伸びてきた。
前髪の隙間から、ゆきの片目だけがわずかに覗く。妖しい光を放つ目が、悲しげに武彦を見た。
全身が総毛立った。見据えられて動けない。禍々しい存在が体を縛る。
異形のものに対峙した人間共通の感覚。本能が逃げることを命令するのに、指一本すら動かせない。冷たく光る刃を首筋に立てられたときの絶望にも似て、どうすることもできない。命の火が消える瞬間が見える。
これこそが自分の求めていた感覚。死を目前にして抱いた――本当の恐怖心。
そうか。
幼いときに見たあれは夢ではなく、惑うことなき現実だった。
ゆきこそ、雪女。異形の存在は人の皮をかぶり、人間社会に紛れ込む。真の姿を隠し、牙をむく瞬間を待っている。存在に気づいたものは、命を奪われる。
「あなたさえ思い出さねば……あなたさえ口を閉じていれば、わたしはずっとここにいられたのに」
懐疑主義者の武彦は、超常現象には否定的な立場を取ってきた。ましてや妖怪など存在するとは夢にも思ったことがなかった。
だが現実は違った。世の中には科学で割り切れないことが数多くある。真実を知ったときが、命の果てるときだった。
あのとき助けられたおかげで、今の自分がある。本来ならばあの場で失っていたかもしれない命。それを返せというのなら仕方がない。命拾いしてから二十年ほど、送れるはずのなかった人生だと思えば、諦めもつくのか?。
いや、ちがう、簡単には割り切れない。
もっともっと音楽を作りたかった。曲にたくさんの夢をのせて、みんなに届けたかった。バンド仲間と一緒に全国をまわり、聴きに来てくれた人に自分たちの思い描く世界で過ごしてほしかった。声援の中で、思い切りベースを演奏したかった。
それに気づいたとき、武彦の中で生への執着が芽生えた。
助けたなら、そのままずっと生かしておけばいいんだ。絶対に死ねない。こんなところで死ぬなんてごめんだ。
生き抜いてみせる。
「うわあっ。やめろおっ」
理不尽に訪れようとする死に抵抗すべく、武彦は目を閉じて大声で叫んだ。
突然陽気な声が、山荘のリビングに響いた。
「氷室クン、ごめんね。まさか真に受けるとは思わなくて」
笑いころげる声につられて、武彦はおそるおそる目を開けた。
「え? あの、ゆきさん……?」
目の前にいるのは、いつもの表情をしたゆきだった。
「つい雪女のふりをしたけど、わたしは人間よ」
クスクスと笑いながら話すゆきに、武彦は戸惑う。
「雪女なんていないってクールな態度をとるから、つい演技に身が入っちゃった。さっきのは全部台本の台詞だったのよ。気がつかなかった?」
たしかに映画の中に、今と同じシーンがあった。台詞はすべて頭に入っているのに、ゆきの演技が真に迫り過ぎて、気がつかなかった。
「話を聞いて思い出したの。まさかあのときの子供が氷室クンだったなんて。巡り合わせってあるものなのね」
「あの人はゆきさんだったんですか。てことは、あの記憶は夢ではなかった。でも……」
武彦はゆきを見た。どう見てもあの日の女性と同じ年格好だ。とても二十年の時間が過ぎているとは思えない。本当に雪女じゃないのか? 不思議な気がしてその疑問を口にすると、
「昔は、実年齢よりも大人っぽかったのよ。今は逆で、いつまでも若いままでしょ。女優だったら当たり前じゃないの」
と、うれしそうに返事した。
「では、犬は? スヌーピーはどうなったんですか」
「忘れた? 『代わりに飼ってください』て言ったこと。あの子も調子が悪そうだったから、私の寝室に移して一晩様子を見てたの」
ゆきはスマートフォンを取り出し、待受画面を見せた。そこには懐かしい友達が、ゆきに抱かれて写っていた。
不意に熱いものが込み上げてきた。それをかろうじて押さえ込む。子供のときと違って、泣いている姿を見られるのは照れくさかった。
「わかりました。助けてくれた人を雪女だった思い込んだ上に、夢扱いしたことは謝ります。でもどうして『誰にも話すな』なんて言ったんです? 昔話そのままじゃないですか」
ゆきは申し訳なさそうに目を伏せて、口を開いた。
「あのときはね、TVドラマが評判で顔が売れてきたころだったの。どこに行っても追いかけられて、落ち着いて役作りもできなくてね。事務所に頼んで一人になれるように山荘を用意してもらったのに、みんなが押し掛けてきたら困るじゃない」
長年の疑問が解け、武彦は体が軽くなったような気がした。
大人が考えれば、なんでもないことばかりだ。子供というものは、自分の思い込みで意外な行間をうめてしまう。幼かった自分にことの真相を伝え、怯えることないんだと慰めてやりたかった。
「さっき氷室クンの顔に浮かんだ恐怖。あれは本物よ。これで少しは、死に直面したときの気持ちが理解できたでしょ。あの感覚を心に刻みつけておきなさい。自然な演技ができるわ」
恐怖心と、死を前にして考えたことを覚えておく。それを芝居のときに思い出して表現する。感覚の再現。体験がリアルであればあるほど、再現も説得力が出てくる。
やっと役を理解できた。理屈ではなく、心で。武彦はこれから演じる人物と一体になれた。
「ルックスがいいから役者をしてるんだ、なんて陰口を叩く人たちを見返しなさい。あなたにはセンスがある。それを今回の作品で、観客に見せなさい。いいわね」
ゆきにはそう言われたが、武彦は役者の仕事をこれでやめる決心をしていた。
死に直面したとき、役者の仕事に未練を感じなかった。あの瞬間、自分の本心を知った。どちらを選ぶかと言われれば、迷わず音楽を選ぶ。死に臨んだときに浮かんだのは、演劇ではなく音楽の方だった。
演技の奥深さを教えてくれたゆきには、申し訳ないという気持ちが湧いてきた。それもしかたがない。自分の進むべき道は、自分が決めることだ。
だが――。
初めて出演した映画は、観客動員数も伸びて、大成功のうちに終わった。
音楽に専念したいという本人の気持ちとは裏腹に、演技力を評価された武彦のもとに、次々とドラマや映画のオファーがやってきた。
オーバー・ザ・レインボウのベーシストと役者の仕事で、武彦はしばらく多忙な日々が続く。
これがもとで起きる事件は、また別の話になる。
参考文献: 「怪談 ――小泉八雲怪奇短編集」 小泉八雲・著 平井呈一・訳、 「怪談の科学 幽霊はなぜ現れる」 中村希明・著